水素爆発で「生きて帰れないかと…」 福島第一原発元所員が明かす「事故当日、何が起きたのか」 #あれから私は

【東日本大震災から10年】福島第一原発元所員「空爆の跡のよう」戦慄体験を語る

記事まとめ

  • 3月11日に福島第一原発で働いていた元所員が、戦慄体験を振り返っている
  • 元所員は、1号機が水素爆発した時に「生きて帰れないかもしれないと感じた」と明かす
  • 「免震重要棟から出る時は恐怖で体が震え、がれきが散乱し、空爆の跡のよう」と話した

水素爆発で「生きて帰れないかと…」 福島第一原発元所員が明かす「事故当日、何が起きたのか」 #あれから私は

水素爆発で「生きて帰れないかと…」 福島第一原発元所員が明かす「事故当日、何が起きたのか」 #あれから私は

世界中に衝撃を与えた光景

■「非常用発電機が落ちました」


 3月11日、全交流電源喪失を意味する「ステーション・ブラックアウト(SBO)」が起きたあの日から福島第一原発は不眠不休の作業を強いられることになった。原発最奥部で何が起きていたのか。元所員が戦慄体験を振り返る。

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 現在50代の元原発所員、田中彰浩さん(仮名)は地震発生時、福島第一原発の事務本館にいた。

「2階の自席で仕事をしていました。あまりの揺れで天井のボードはほとんど落下し、“床が抜けるのでは”と思ったほどでした」

 と、田中さんが言う。

「地震後、一旦駐車場に避難した後、隣にある免震重要棟に入りました。津波が来た時には2階の緊急時対策室(緊対室)にいて、脅威を感じることはなかったのですが……」

 津波による異常が生じたのは地震発生の約50分後、15時37分からだった。1・2号機の中央制御室の計器パネルの光が消えていったのだ。

「SBO! 非常用発電機が落ちました」

 中央制御室から免震重要棟にそう報告が入る。


■「空爆の跡のようで…」


「俄かには信じられませんでした。これが本当に現実なのかと。生きて帰れないかもしれないと感じたのは3月12日に1号機が水素爆発した時です。私は緊対室にいたのですが、ドンという轟音と激しい縦揺れで最初は余震だと感じました。が、テレビで爆発の映像が流れ、部屋は騒然。14日、3号機が爆発した時には“まさか、また起きたのか”という気持ちでした。ほどなくして、“注水現場に行ってほしい”と消防担当の隊長から声をかけられたのです」

 3号機の爆発により、現場の作業員にはけが人が続出していたのだ。

「誰かが行かなければという思いでした。損傷した消防車と消防ホースを一刻も早く復旧しなければならない。しかし、免震重要棟から出る時はさすがに恐怖で体が震えました。現場はがれきが散乱し、空爆の跡のようで、もう私の知っているプラントではなかった」

 現場では作業時間わずか2時間で被曝線量が40ミリシーベルトを超えてしまう。

「3月末までには130ミリシーベルトに迫る被曝線量となり、現場には出られなくなりました。ただ、今に至るまで毎年の健康診断で、被曝の影響と思われる不調は特にありません」


■仮説トイレに“積もって”…


 当時の食事が深く印象に残る。

「あの頃はひたすら毎日カロリーメイトを食べていましたね。もう一生分食べたかなと思うくらい。あのパッケージを見るとあの頃を思い出しますね」

 さらに辛かったのは、意外な“場所”だった。

「トイレです。最初は免震重要棟の外に仮設トイレを用意してもらっていたのですが、1号機が爆発してからは外に出るのも危険なので、免震重要棟にある機械室に仮設トイレが造られました。これが精神的に辛い。水で流せないので、“積もって”しまうんです。トイレに行く度にゲンナリし、実際便秘になった作業員もいたほどでした」

 当時、現場を外れてからもしばらくの間は注水作業の夢を見ていた、と続ける。

「夜、真っ暗になったプラントを重装備に身を包み懐中電灯だけで走ったのは思い返すと本当に怖かったです。震災後の春に福島第一原発を離れた後も安堵することなどありません。気の抜けない現場に後ろ髪をひかれる思いでしたよ」

 今でも現場の所員とは交流があるという。

「吉田昌郎所長はざっくばらんで頼りがいのある人でした。上に直言してはばからない素晴らしいリーダーです。昨年はコロナで中止となりましたが、毎年当時の仲間と集まって飲みますよ。今でも福島第一の廃炉に向けて頑張っている仲間がいます。その努力は痛いほどわかる」

 数多の人が「日本は終わった」と感じた原発事故。作業に従事した人々の記憶もまた、色褪せることはない。

「週刊新潮」2021年3月18日号 掲載

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