政治とは離れた皇室のあり方としての「伝統」を受け継ぐ

日本国憲法体制において、初めて皇位を引き継がれた上皇陛下。メディアは、ことあるごとに平成の皇室は、戦前とも戦後の昭和とも違って「開かれた皇室」であるべきだと、意図的に「昭和との断絶」を求めた。陛下は記者からの取材に対してどのようにお答えになったのだろうか。近現代史研究家の江崎道朗氏に解説してもらった。

■戦前・昭和との“断絶”を挑発するメディア

メディアは、戦前の伝統を背負った昭和天皇と、当時の天皇陛下との違いをことさらに強調した。平成の皇室は、戦前とも戦後の昭和とも違って「開かれた皇室」であるべきだと、ことあるごとに求めた。一言でいえば「開かれた皇室」とは「昭和天皇の御代とは違う皇室になるべきだ」ということだ。

メディアは、昭和天皇の戦争責任論をあげつらいつつ、意図的に「昭和との断絶」を求めたのだ。

皇太子殿下の時代から上皇陛下は、時として挑発的なメディアの取材に対して、冷静に淡々と事実を上げて答えられている。

記者 イギリス王室は、日本の皇室と比べて一般的に開放的だといわれております。今回のチャールズ皇太子の結婚式の模様も、テレビ報道を通じて世界中に一部始終公開されましたが、イギリスの王室とこちらの皇室との違いを、どう感じられるのかお聞かせ下さい。

皇太子 このお式のテレビ中継ですけれども、こちらの式の時も、やはり同じようにテレビの放映があったわけです。賢所(かしこどころ)の中は、中というか内陣の中ですけれども、これはありませんでした。これはない方がいいと私も思っていますが、それ以外のところは、みな放映されていたわけです。また、そのあとの祝宴もテレビの撮影があったわけです。

今度の場合は、式は放映されていますけれども、(結婚の)サインをされるところは放映されていない。前後にあったバッキンガム宮殿での晩餐(ばんさん)、午餐、みな一つも写真がありません。
[昭和56年8月7日 夏の定例会見]

▲バッキンガム宮殿のバルコニーに姿を現したウィンザー家の人々(2013年6月15日) 出典:ウィキメディア・コモンズ

イギリス王室のように、儀式をテレビ報道ですべて公開すべきと詰め寄るマスコミに対して、陛下はイギリス王室もすべて公開しているわけではないと反論されている。

記者 (終戦)当時、皇室の地位について各方面から議論が出ていましたが、どう受け止められましたか。

皇太子 どうも、その時にどういうふうにそれを考えたか、あんまり記憶がないんですけれどね。

記者 殿下は折りにふれ、国民に親しまれ、国民とともに歩む皇室について述べておられますが、国民に親しまれる皇室にするため、殿下は何をどうすべきだとお考えですか。

皇太子 国民に親しまれる皇室ということは、私はいった記憶がないんですけれども。ただ国民とともに歩む皇室でなければならないと。これは昔から、かなり古い時代は国民と接触があったわけではないですけれど、やはり国民の苦労はともに味わうということを昔の天皇はしていらしたわけです。
[昭和57年12月17日 49歳のお誕生日前の会見]

また、戦前と戦後の憲法体制を「統治権の総覧者」対「象徴」「天皇主権」対「国民主権」のように、単純に図式化して対比するのではなく、史実に即してそれぞれの実態をリアルに分析されている。

昭和62年9月28日、米国報道機関の東京特派員団への文書回答の中で、陛下は新旧の憲法について次のように語られた。

記者 日本人の天皇観、天皇の占める位置についての考えに変化があったとお考えか。またそのことが父親としての陛下と、天皇としての陛下を比較されるときにどう影響するのでしょうか。

皇太子 憲法の違いゆえに、明治憲法下の戦前・戦中と、現在の憲法下の戦後日本では、天皇観に明確な相違があります。昔の日本では、人々は天皇に対し多様な見方を持っていました。しかし、1930年代から終戦までの間は、国民は一つの天皇観しか持つことができませんでした。したがって、戦時と戦後の天皇観における違いは憲法の条文の違い以上に明白でした。

憲法観が現在と異なるのは、明治時代からずっとではない。右翼全体主義が台頭した1930年代から終戦までだと、極めて正確に指摘されている。また「戦時と戦後の天皇観における違いは、条文の違い以上に明白」ともおっしゃっている。

▲皇居宮殿表御座所で公務を行う上皇陛下(2003年2月) 出典:ウィキメディア・コモンズ

これらのお言葉の意味は、昭和62年12月16日のお誕生日前会見のやり取りによって、さらに明らかになる。少し長くなるが引用しよう。

記者 今年の訪米前、アメリカの特派員の質問にお答えになっていますが〔江崎注 昭和62年9月28日、米国報道機関の東京特派員団への文書回答を指す〕、天皇の地位について日ごろのお考えを改めてお聞かせください。あわせて殿下がこうあるべきだと考えている天皇像をお聞かせ下さい。

皇太子 日本国憲法で、天皇は象徴であり、国民統合の象徴と決められているわけですが、これは多くの国民の支持を得ていると思います。また天皇の伝統的な姿にも一致しているのではないかと思っています。

やはり、この国の象徴・国民の統合の象徴であるということが、どうあるべきかということを、常に求めていくことにあるのではないかと思います。

記者 21世紀の天皇像についてのお考えは。

皇太子 今お話ししたことに尽きると思います。常に求めていく、ということです。

記者 伝統的な姿というのはどういうことですか。

皇太子 長い日本の歴史の中で、一番長くあった状態であるということがいえると思います。

記者 政治権力を持たず、権力者を任命する立場であった期間が長いのですが、そういう意味ですか。

皇太子 そうです。そういう意味です。

記者 そういう意味から、日本国憲法の天皇のあり方にも合致するということですか。

皇太子 そう思います。

記者 すると、明治憲法下での天皇像とはやや異質ということになるんでしょうか。

皇太子 あの憲法をどのように解釈するかによってくると思います。

記者 統治権の総攬(そうらん)ということで、形の上で違うとはいえる……。

皇太子 ということもいえるし、一方で明治天皇が政治的な発言をしたことは、あまりないんじゃないかと思います。たとえば(大日本帝国)憲法の制定の審議の時も、とくに発言していることはないようですね。そういう意味で明治天皇のあり方も、政治とは離れた面が強かったとはいえると思いますけれど……。

ベルツの日記にも「日本の行き方がいい」ということが書いてありますね、ドイツと比較して……。

記者の質問には、帝国憲法時代の天皇像と、戦後の憲法下の天皇像の違いを際立たせようとする意図が感じられるが、陛下は、あくまで帝国憲法の時代と、現代も含めた皇室の歴史の中で長く続いてきた「政治とは離れた皇室のあり方の伝統」を強調され、戦前・戦後の断絶をやんわりと否定されている。

■あらゆるものについて言論の自由は大事だ

▲美濃部達吉 出典:ウィキメディア・コモンズ

記者 憲法の規定そのものについてはどうですか。

皇太子 ですからやはり、憲法をどう解釈するかということになってくると思います。明治の時代からだんだんに、憲法の解釈の違いが出てきていることはあるのではないでしょうか。
(中略)

記者 訪米前の会見で、1930年代から敗戦までは、それ以前、それ以後と比べて天皇のあり方がまったく違うということをおっしゃったようですが、それはどういう意味ですか。

皇太子 天皇機関説とかああいうものでいろんな議論はあるわけですが、一つの解釈に決めてしまったわけですね。そのことをいってるわけです。

だから、大日本帝国憲法のいろんな解釈ができた時代から、できなくなってしまった時代ということですね。その時にある一つの型にだけ決まってしまった。

美濃部(みのべ)博士は戦後もたしか、大日本帝国憲法のままでもやっていけると述べているわけですね。

記者 天皇制への考えが、バラエティーに富んでいることがいいということですか。

皇太子 そういうことよりも、やはり言論の自由が大事だということです。

記者 国民の側が、天皇をいろいろに解釈できるような言論の自由ということですか。

皇太子 そういうことばかりでなく、全般的にあらゆるものについて言論の自由は大事だということです。

▲1935年の貴族院における美濃部達吉 出典:ウィキメディア・コモンズ(『アサヒグラフ』1948年6月23日号)

「天皇機関説とか、ああいうものでいろんな議論はある」「大日本帝国憲法のいろんな解釈ができた時代から、できなくなってしまった時代」「美濃部博士は戦後もたしか、大日本帝国憲法のままでもやっていけると述べている」というお言葉。

そして「全般的にあらゆるものについて言論の自由は大事だ」というお言葉は、明治天皇の五箇条の御誓文にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」「上下心を一にして、盛に経綸を行うべし」を踏まえてのものと見受けられる。

もちろん、昭和天皇が昭和21年1月1日に発せられた「新日本建設の詔」も踏まえられたものだろう。

また、憲法問題を考えるうえで、憲法の解釈を重視しておられることも明らかだ。

※本記事は、江崎道朗:著『天皇家百五十年の戦い』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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