後奈良天皇について語られた背景にある「国民の安寧を祈り続ける」決意

上皇陛下は皇位を継承された時点で、昭和60年から始まった宮中祭祀の形骸化を阻止し、皇室の伝統を再び復活させようとされた。陛下の深い思想や国民の安寧を祈り続ける御覚悟を、我々が読み取れるかが大事だと近現代史研究家の江崎道朗氏は語る。

■「大嘗祭は許されない」最大の敵となった内閣法制局

政府の中で事実上、憲法解釈権を握っているのは内閣法制局である。宮内庁職員たちが皇室の伝統や祭祀よりも、政教分離・信教の自由を優先するようになっていった背景には、内閣法制局の憲法解釈がある。

皇室の伝統を守っていくうえで、憲法解釈や運用が重要なのだが、政府も宮内庁も東京大学の宮澤憲法学と、その影響を受けた内閣法制局の言いなりになっていく。

この危険な動きを察知されていた方がいた。上皇陛下である。上皇陛下は皇太子時代に、憲法の解釈・運用について専門的な研究をされていたのである。

これは皆で考えた問題ですけれども、天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです。(中略)

皇族として必要なものは学校外でやるのがいいんじゃないかなと。いま考えているのは、たとえば憲法ですね。もちろん大学でやりますけど、そういうものは大学でやるのに加えて、やはり必要なんじゃないかと。

私も田中二郎元最高裁判事〔江崎注:教育基本法制定に際し占領軍と折衝。制定後は解説書を執筆〕に憲法の話を伺っておりますのでお願いしたわけなんです。学者でもあるし、実際に判事として憲法にも関係したという、そういう点がやはり非常に大事だと思います。大学の先生でもそういう方もいるわけですけれども、実際に憲法の運用にあたった方の話に意味があるんじゃないかと思っています。
[昭和52年お誕生日前御会見。以下、皇太子時代の天皇陛下と皇后陛下のお言葉は、薗部英一:編『新天皇家の自画像』(文春文庫)による]

こうした「天皇の歴史と憲法の解釈・運用」研究の中で、上皇上皇后両陛下は「大嘗祭否定論」を唱える内閣法制局に対して、あくまで国家の安泰と国民の安寧を祈る、皇室の伝統を守り抜く決意を明らかにされていく。

▲昭和39年に房州(千葉県南部)をご訪問された 鴨川市・高橋久子氏所蔵 

昭和56年、美智子妃殿下(当時)は、お誕生日前御会見で次のように述べられた。

記者 戦後生まれの世代が、国民の過半数を占める時代になりましたが、今後皇室のあり方は変わってゆくとお考えですか。

美智子妃 時代の流れとともに、形の上ではいろいろな変化があるでしょうが、私は本質的には変わらないと思います。歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらしたと思います。その伝統を踏まえる限り、どんな時代でも皇室の姿というものに変わりはないと思います。

「どんな時代でも皇室の姿というものは変わりない」というお言葉は、皇室の伝統を見失っていく政府とマスコミに向けられたものと受け止めるべきであろう。

昭和61年5月26日、当時皇太子だった上皇陛下も、読売新聞への文書回答でこうおっしゃっている。

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。

このことは、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚(はなはだ)自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表されていると思います。

ここで注目しなければならないのは「後奈良天皇」に言及されていることだ。後奈良天皇の時代はいかなる時代か。

1467年に始まった応仁の乱を契機に室町幕府は衰え、群雄割拠の戦国時代に移行していく。これは同時に皇室を支える経済体制が弱まることでもあった。1521年、後柏原天皇が践祚(せんそ)後22年目に即位の大礼を挙行したが、大嘗祭は行えなかった。後柏原天皇の前の後土御門(ごつちみかど)天皇が1466年に大嘗祭を挙行して以後、9代221年にわたって大嘗祭が中絶することになる。

1526年に崩御した後柏原天皇に代わって、31歳で践祚されたのが後奈良天皇である。皇室の困窮は激しく、皇居の土塀は崩れ、庶民らは三条大橋の上から内侍所〔ないしどころ=現在の皇居・賢所(かしこどころ)〕の燈火が見えたという。後奈良天皇の即位式は1536年、践祚から10年目に戦国大名の寄進でようやく行うことができた。

▲後奈良天皇木像(浄福寺安置) 出典:ウィキメディア・コモンズ

1540年から45年にかけて、後奈良天皇は疫病の蔓延を憂慮され、御自ら『般若心経』を書写されて、全国25カ所の一宮に奉納された。その写経の奥書が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」だった。民の苦しみを救うことができない自らの非力に苦悩されてのお言葉である。

崩れた皇居の築地(ついじ)や諸門は1543年に織田信長の父、織田信秀が修理したものの、1557年に後奈良天皇は大嘗祭を挙行されないまま崩御されている。

■もし陛下の戦いがなければどうなっていただろうか

昭和61年は、内閣法制局長官が「大嘗祭は国の行事としては行えない」と明言していた時期である。「皇室の私事」として内廷費で行おうにも、予算はあまりにも乏しい。

後奈良天皇について言及された背景には、畏れ多いことながら、御自身も後奈良天皇のように政府の支援を得られず、大嘗祭を挙行できないかもしれないが「国民と苦楽をともに」ひたすら写経して祈りを捧げられた後奈良天皇の御事績に倣って、国民の安寧を祈り続ける御覚悟をお持ちだったのではないかと思わずにはいられない。

▲多くの人々が集まる一般参賀の様子 撮影:高野和幸氏

もし、陛下の戦いがなければどうなっていただろうか。歴史や皇室の伝統に一切触れないままで、単に「日本国憲法を守る」とだけおっしゃっていたら、あるいは、日本国憲法あっての皇室というようなことを一言でもおっしゃっていたらどうなっていただろうか。

「昭和天皇の戦争責任は私には関係ない」とか、あるいは「やはり昭和天皇には戦争責任があった」とおっしゃっていたらどうなっていただろうか。

今でこそ、いわゆる東京裁判史観について、さまざまな見直しの議論が出てきているが、もし陛下の戦いがなければ、こうした議論は「現に天皇陛下が東京裁判を認めていらっしゃるではないか」と言われて終わりである。

もし陛下が、昭和天皇との断絶をお言葉の中でお認めになっていたら、昭和20年8月15日に革命が起こった、終戦を以て国体は断絶したのだという、宮澤俊義の「八月革命説」が追認されることになっただろう。そうなれば戦後の皇室は、もはや戦前の伝統に倣う必要はないという結論になりかねなかった。

今回、御譲位に際して、二百年前の光格天皇までさかのぼった議論ができたことは、陛下が戦い続けてくださったおかげなのである。

問題は、上皇陛下のこうした思想的な戦いを、特に宮澤憲法学や内閣法制局との戦いを、国民の側、特に政府要路の側がほとんど理解できていないように見えることだ。はたしてそれでいいのだろうか。

※本記事は、江崎道朗:著『天皇家百五十年の戦い』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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