純粋にインターネットの未来を信じていた2003年、ブログの登場で「個人発信」の原型はすべて出揃った

純粋にインターネットの未来を信じていた2003年、ブログの登場で「個人発信」の原型はすべて出揃った

©iStock.com

 2001年末頃からアメリカを中心に流行り出したブログ、RSSを吐いてトラックバックができるという画期的な双方向性を引っ提げて日本に本格的に上陸したのは2003年ごろでした。

■「テレホーダイ」から一気にブロードバンドへ

 いまでこそ限界集落みたいになっているけど当時は超先進的だった「はてなダイアリー」がサービス開始したのを皮切りに、我らがニフティも「ココログ」を開設。同時期にサイバーエージェントが「Ameba Blog」を、堀江貴文さんのエッジ(その後ライブドア)が「livedoor Blog」を、シーサー株式会社が「Seesaaブログ」をと、各社各様に個人発信の母体としてのブログサービスが機能し始めたのは、ちょうど20年前のことでありました。

 翌年に俺たちの愛する国産SNS「mixi」がサービスを開始するという世界観は、いまとなってはすべてが懐かしい一方、いまの個人に関するサービスの原型は20年前にすべて出揃っていたなあとも思うんですよ。

 01年ごろから「常時接続」という言葉が出始め、03年にはトーカイのT-comが、ソフトバンク・ヤフー系のYahoo! BBが、そして真打ちNTT東西が、概ね各社揃って下り最大24Mbps程度のADSL接続サービスを開始しました。それまでは、深夜帯のインターネット接続である「テレホーダイ」が我らのインターネットライフを支えていたところから、一気にブロードバンドの基盤ができ上がり、そこから10年かけて「ガラケー」と呼ばれるフィーチャーフォンでのオンラインサービス全盛期がやってくることになります。

 まさにこのころは、放送と通信との垣根が徐々におぼろげになり、またネットはパソコンでやるものから手軽に携帯電話で楽しむものへと変容していって、このころパソコン好きのオタクたちは何となく「デジタルネイティブ」と呼ばれる人種へと移り変わっていくのであります。

■「WindowsよりLinux」と啓蒙活動をした甘酸っぱい思い出

 当時のブログ文化はまだ「ネットでコミュニケーションを取る人」という希少人種だけがたむろする社交場のようなもので、当時30歳であった私もICT業界で投資家の端くれをしておりましたので投資情報を発信する「死体置き場」や「俺様キングダム」なる、いま思うと若気の至り的なサイトを運営しては、いろんな人たちの交流のハブになろうとしていました。

 それまでは、パソコン通信や個人サイトとしてのホームページの開設が主流で、匿名掲示板の元祖とも言える「あめぞう掲示板」から西村博之(ひろゆき)さんの「2ちゃんねる」の流行もありながら、いろいろなものがまだ過渡期でありました。

 この何でもありの風潮の中で、当時「がんばれ! ゲイツ君」というマイクロソフトのWindows全盛に対するアンチテーゼとして、より民主的で自由なUNIX系のLinux OSの普及に寄与するべく、秋葉原民が一丸となって「LinuxのほうがWindowsより堅牢で安全で便利だよ」という啓蒙を頑張っていたのも甘酸っぱい思い出です。いくら技術者が良いと思ったものでも、最終的にはマーケティングがうまくいって普及したものが良いものなのだと痛烈な教訓を得たのもこのころです。

 いま思うと、Web3やメタバース的なるものを古参ほど否定的に、うさん臭いものとして見る風潮が強いのも、自由で民主的なインターネットであるからこそ、かねて理想論が跋扈し、そのたびにみんな惑わされて右往左往したイタい歴史を思い出すからに他なりません。

■「音声が勝つか、ネットが勝つか」という時代を経て

 通信の世界では、いままで音声通話が王様であり一丁目一番地と信じていた大手通信会社の信仰を打ち破るIP電話サービスが次々と開始されます。いまや音声など全部デジタルが飲み尽くしてしまって当然と思っていますが、当時は「音声が勝つか、ネットが勝つか」という非常に不思議な二項対立で業界が語られていました。とりわけ通信会社は、べらぼうに高額な国際回線の利用で収益を挙げている時代が長くあって、多分みんな何が競争になり、今後どう利益を上げていけばいいのか分からないままケツを叩かれ、ビジネスに邁進をしていたんじゃないかと思います。

 業界の秩序が生まれるのも、ユーザーに広くADSLが行き渡り、またガラケーでのサービス利用が急拡大していく中でショッピングが、ニュースが、乗換案内が、ゲームが、さまざまなアプリケーションと共に利用者と利便性の裾野を広げていきました。

 先のWindows 95での盛り上がりから8年経ってなお、ネットと社会との間の緊張関係は大きな摩擦熱を生みながらも期待感を持ってどんどん便利にネットが使える環境へと進んでいったのが特徴的でした。ネットバブルの崩壊があってなお、多くの若者がデジタルの未来を信じて起業したり、さまざまなサービスやアクティビティでネットを盛り上げ、現在の「ネットはあって当たり前」という状況に繋がっていったのは感慨深いものがあります。

■まあまあ安全で自由なネットを謳歌した私らこそ

 ネット社会という点では、日本での当時のガリバーは誰もが知っているヤフーであり、みんなそこにぶら下がっていろんなネットサービスを展開するのが当たり前だと思っていました。

 そこから20年経って、GAFAMやビッグテック、テックジャイアントと呼ばれるようなプラットフォーム業界の萌芽のようなものがすでに生まれていました。亡くなられた井上雅博さんや、日本のインターネットの父とも呼ばれる村井純さんといった人たちの物語もすでに始まっていました。結構みんな、純粋にインターネットの未来を信じていたし、根っこのところでネットが好きだから良かれと思って何かいいことをしてやろうという思いが、共通して流れていたんじゃないかと感じます。

 私はと言えば、2ちゃんねるやって、ゲーム作るの手伝って、いろんな会社に投資して、激しく必死だったけど総じて楽しかったですね。ネットに関わるほぼすべての人が、みんなどこかイカレていて滅茶苦茶で、対応に右往左往しているのがまた面白くて、この20年のネット人生は悔いなし、ですよ。やりたいことは、やりたいようにやらせていただいてきました。

 そりゃ上手くいかないことや腹立つことも多いけど、それでもネットのなかったころの社会に比べれば、きちんと理屈と根拠をつければ言いたいことをしっかり言える社会のほうが健全に決まっています。

 だからこそ、いままでの20年のまあまあ安全で自由なネットを謳歌した私らこそが、次の20年もこれからネットと共に歩んでいく日本人のために、まあまあ安全で自由なネットを維持していくことが使命として課せられているんだと思うんですよね。それが、20年ネットで生きた証だろうと感じます。

 次の20年は、2043年。その40年を振り返って、70歳になった私が「ワイが楽しんだ30歳のころのネットは」ってクソみたいな武勇伝喋りたいじゃないですか。嫌な顔ひとつせずジジイの話を聞いてくれるAI相手に。

(山本 一郎)

関連記事(外部サイト)

  • 記事にコメントを書いてみませんか?