「ここか?」70年前の渋谷駅前 写真をもとに路面電車のいた風景を特定する

「ここか?」70年前の渋谷駅前 写真をもとに路面電車のいた風景を特定する

1967年の渋谷駅前停留所の様子。中央の電車は6系統新橋行き、奥の電車は9系統。左下の線路の先に34系統の折り返し線プラットホームがあった。ガラス張りの歩道橋の上に地下鉄銀座線が見える ©時事通信社

 4社9路線が乗り入れる巨大ターミナル、渋谷駅が大きく変わっている。

 東急東横線の駅が地下化し、銀座線のプラットホームが移動した。JR埼京線プラットホームは山手線横に移転したばかり。駅前も再開発が進み、新しいビルが林立している。

 そんな変貌著しい渋谷駅にも都電の時代があった。都電渋谷駅前停留所があった場所は、地下鉄銀座線と首都高速3号線の間だ。線路は3本、そのうち国鉄渋谷駅側の1本は折り返しだ。高架駅時代の東横線渋谷駅の東側で、都電の車両がひしめいている。都電の渋谷駅といえば、このような写真を載せた文献が多い。路面電車としてはかなり大きなターミナルだった。

■4つの運行系統が発着した

 渋谷駅前停留所を発着する都電は6系統、9系統、10系統、34系統の4本あった。このうち34系統は折り返し線路を使い、他の3系統は残り2本の線路を使った。おそらく、1本は34系統と同じプラットホーム、残り2系統は島式プラットホームの両側に割り当てられていたと思われる。

 6系統(渋谷〜汐留)は宮益坂を上り、青山通りの青山6丁目交差点を右折して骨董通りへ、高樹町から六本木通りを溜池まで進み右折、虎ノ門、新橋を通って汐留に至る。現在の都営バス01系統のルートだ。

 9系統(渋谷〜浜町中ノ橋)も宮益坂を上り、赤坂見附を経由して三宅坂を右折、皇居に沿って日比谷、数寄屋橋、銀座四丁目と直進して築地を左折、昭和通りを茅場町へ、隣の新大橋通りへまわって水天宮前を通り浜町中ノ橋に至る。

 10系統(渋谷〜神田須田町)は三宅坂まで9系統と同じ、三宅坂で左折して内堀通りを九段へ向かい、靖国通りを東進して九段下、神保町、淡路町を通って神田須田町に至る。神田須田町はJR神田駅と秋葉原電気街の中間にある交差点だ。かつては万世橋駅や交通博物館があったあたり。都バス茶81系統が引き継いだけれど、バス路線も廃止された。

■もともと玉川電鉄だった34系統

 34系統(渋谷〜金杉橋)は明治通りを南進して渋谷橋、天現寺橋を通り、古川橋を左折して麻布十番付近の一ノ橋で右折、赤羽橋、芝公園を通って金杉橋に至る。金杉橋は都営地下鉄大門駅の南側、首都高浜崎橋インターの近くだ。ここから南北方向へ都電1系統に乗り換えられた。

 6系統、9系統、10系統はすべて宮益坂を上っている。この3つの系統の渋谷駅前停留所は一方通行だ。青山通りの宮益坂上で上下線が分離し、大きなループ線になっていた。

 34系統だけが渋谷駅折り返しになっている。この路線はもともと都電ではなく玉川電気鉄道の線路だったからだ。玉川電気鉄道は玉川(現・東急電鉄二子玉川駅)と渋谷を結び、さらに渋谷から国鉄の線路を潜って天現寺橋まで延伸した。途中の渋谷橋から分岐して中目黒に至る路線もあった。

 1937年に玉川電鉄は国鉄渋谷駅に隣接した玉電デパートを建設した。このときに玉川電鉄は渋谷駅で分断された。玉川方面は玉電デパート2階プラットホームを発着。天現寺橋方面はあらたに渋谷駅前停留所を作り、運行を東京都電に委託。その後都電に吸収される。

■「渋谷の都電」写真のナゾを解く

 歴史ある文藝春秋社なら「渋谷の都電」の写真があるに違いない。文春オンライン編集部に探してもらったところ、こんな写真があった。広い交差点の手前に電車が1台。いや、左下の影の部分にもう1台の電車がある。

 人通りは多く賑やかな場所だけど、私が想像していた渋谷とは雰囲気が違う。これは本当に渋谷か、渋谷だとしたらどこだろう。交差点と線路の位置関係から、宮益坂ではないかと思った。しかし、それなら奥に山手線の線路があるはずだ。それが見あたらない。

 この写真にはいくつか手がかりがある。中央部の「上野動物園 動物祭 創立七十年記念」のアーチだ。上野動物園の開園は1882(明治15)年だから、この写真は70年後の1952(昭和27)年頃である。いまから68年前。戦後復興が進み、朝鮮戦争特需で経済成長が始まった時期だ。コートを着た人々。上を向いて歩く人が多い。電車の前を歩く男女が幸せそうだ。

 次のキーワードは左上の日新火災海上という看板。日新火災海上は現存するけれど、現在は渋谷支店がない。当時、渋谷支店はどこにあったか……問い合わせようと思ったけれど、社史をひっくり返す手間は大きい。遠慮してほかのキーワードをあたろう。小田証券という看板がある。この会社は現存しない。ネットで調べたところ渋沢栄一氏が関わった会社の社史を公開する「渋沢社史データベース」の中に東京証券取引所の年表があった。

■渋谷駅前停留所から道玄坂が見える

 小田証券は1957年に大興証券へ商号変更し、1965年に偕成証券に合併された。偕成証券は1998年に日本グローバル証券に商号変更、2004年にライブドア証券、2007年にかざか証券へ商号変更、2014年に内藤証券に吸収合併されている。渋谷支店はない。こちらも歴史の追跡はたいへんだ。

 写真中央に建物の影が落ちている。南側に大きなビルがあるようだ。屋上の看板の文字は「山一」と読める。山一証券もすでにこの世にはない。それにしても証券会社が多い。好景気を象徴するオフィス街だ。渋谷駅周辺は投資家が多かったかもしれない。東横電鉄は既に開通しており、田園調布も分譲から約30年経っている。

「カバンとハンドバッグの平和堂」も行方不明。しかし、道路を挟んだ「宮田家具店」に決定的な手がかりがあった。この会社は存続しており、現在の総本店は東京都稲城市。公式サイトには「創業100年の信頼と実績」を掲げ、沿革が掲載されていた。

〈明治40年6月、初代宮田家具総本店・店主、宮田藤吉が東京渋谷道玄坂にて家具販売業を開始いたしました。藤吉はフランチャイズのフの字も話題に上らない時代に、弟・妹を指導しつつ現在の所謂フランチャイズチェーンを作り上げ、基盤を固めました〉( 宮田家具店Webサイト より)

 なるほど、写真にも「チェーンストアー」の文字がある。この店は道玄坂だとわかった。しかし、なぜ渋谷駅前停留所から道玄坂が見えるのか。調べたところ、1923年から1957年まで、都電の渋谷駅前停留所は渋谷駅西口にあった。

■アーチの下に忠犬ハチ公の銅像が見える

 なるほど、それならこのアングルで都電が映っているわけだ。いや、そもそも1952年というキーワードで都電の歴史を当たればよかった。なんという遠回り。この場所は渋谷の象徴、スクランブル交差点のあたりだとわかった。文藝春秋の写真はすこし高い位置から撮っている。おそらく東横百貨店からの眺めだと思われる。

 よくみると、動物祭のアーチの下に忠犬ハチ公の銅像が見える。ハチ公のそばだから動物祭のアーチを置いたと思う。さっさと気付けよ私、と思った。探偵気分で古い写真から現在の様子を探す旅。結論まで遠回りしたけれど、タイムトラベルのようで楽しかった。

(杉山 淳一)

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