犠牲者名を伏せて見える「京アニ事件」本質的な罪 「知識集約型社会」2020年代の日本が直面する現実

 京都アニメーション放火殺人事件の、35人に及ぶ犠牲者の実名を報道すべきか、あるいはするべきではないか、という議論を前々回取り上げました。

 警察が捜査の結果、判明した被害者の実名を「非公開」にするのは、様々な点から絶対に避けるべきです。

 しかし、公安当局が「情報公開」した内容を、何でもすぐにマスメディアが「報道」してしまうことは、それと同義では全くありません。

 特に1930〜40年代前半まで、戦時中の報道規制からの反動で「知る権利」「報道の自由」が謳歌された、いわば70年前の常識で「報道」を考えることは、グローバルネットワークが完全に普及した21世紀においては、単なる時代錯誤、勘違いでしかありません。

 いったん不特定多数に公開されてしまった情報は、「覆水盆に返らず」で、取り返しがつかず、本質的には二度と回収しきることなどできません。

 そして、回収に向けて情報の主体である側、例えば、事件の被害者や犠牲者遺族の側から、サーバー管理者に情報の削除を求める「忘れられる権利」などが2012年以降、欧州を発信源に、確実に普及し始めています。

 ただし、日本はこうした観点からは非常に遅れた停滞的な社会の現状を示しています。

 こうした内容を前々回述べました。

 さて、欧州で「忘れられる権利」が主張された2011〜12年という時期を考えてみましょう。

 一方で、これは日本にとっては、東日本大震災〜福島第一原子力発電所事故の時期に当たります。多くの犠牲者の名が報道されたことに留意すべきでしょう。

 また他方、この時期から本格化したテクノロジー、イノベーションとして、ディープラーニング〜各種のニューラルネットワークを駆使した<AI>のテクノロジーを挙げることができます。

 東日本大震災や原発事故などの<大規模災害や犯罪>、そこでの<犠牲者の実名>そして<AI>。

 この3つを並べるとき、何が見えてくるのか?

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