「コミュ障」を克服する必要はあるのか 「上手くやれない事をやるより、1人で生きる人間になるほうが建設的」

「コミュ障」を克服する必要はあるのか 「上手くやれない事をやるより、1人で生きる人間になるほうが建設的」

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僕は他人と会話をするのが本当に、本当に苦手だ。知らない番号からの着信は出ない。回覧板を回すにも、深夜にこっそり外に出て、次に見る人の家のドアノブに引っ掛けておく。そもそも人と話すのがめんどうで在宅の仕事を何年もしているわけだし、今更この生活を脱却するつもりもない。

が、こういう生き方をしばしば、「コミュ障みたい」と揶揄してくる人もいる。言いたい人には言わせておけばいいけど、一方でこっちとしては「馬鹿みたいに無駄な会議だの会社の飲み会で徳利の注ぎ方マナーだの言ってるお前らよりマシ」という気もしている。コミュ障呼ばわりおおいに結構、といった具合だ。(文:松本ミゾレ)

「自分の連絡先を知っているのは恋人だけ」

先日、2ちゃんねるに「コミュ障を治す必要ってあるのか」というスレッドが立っていた。本文には「上手くやれない事をやるよりも、一人で快適に生活していける人間になる方が建設的」とある。スレ主自身は、コミュ障呼ばわりされる立場でありながらも、これを無理に修正する必要はないと考えているのかもしれない。

事実、読み進めてみると「自分の連絡先知ってるのは恋人だけ」と書き込んでもいる。

昨今の、コミュ障扱いされる人々に対する世間の反応にも違和感をおぼえているようだ。「コミュ障について書いている本やネット記事が、軒並み克服法ばかりで辟易している」と言う。

まあ、人間は群れる生き物だし、個々に別の人格があるとしても、集団になると何故か意見が均等化されてしまう。社会人って多かれ少なかれ異論を排除したがるので、邪魔者は除け者にするか、一般的な思想、行動ができる人間になるよう問題を克服させる向きがあるのはしょうがない。

だけど実際には、コミュ障とされる人、人付き合いが面倒に感じている人でも生きていくためには仕事をしているので、コミュ力云々にそこまで拘る必要はないはずだ。

他人に向かって「コミュ障」とか言い出したのは本当に「コミュ強」なのか?

スレ主のような主張に対しての世間の反応って、結構冷淡なものだろう。これはもう考えるまでもなく、すぐに分かる。実際にスレッドを見ていても、彼の主張には反対意見、茶化し、貶しが多い。いくつか挙げてみたい。

「仕事しないならそれでええんちゃう」
「めちゃんこおしゃべりだし、他人への説教だって8時間は余裕でできる俺からしたらコミュ障ってまじ意味わからんわ」
「そもそもコミュ障とか自分で言ってるやつのほとんどが、障害じゃなくてコミュニケーション能力が低いだけ。コミュ力が低いやつが障害だから仕方ないと考えること自体が逃げ。そういうやつに限ってコミュ力をあげる努力とかしてないし、やってても全く無駄なことしかしてない」

と、コミュ力強者(だと自分では思っている面々)からの、まあ手厳しい声が多いこと多いこと。

中でも目を引くのが「そもそもコミュ障は障害じゃなくてコミュ力が低いだけ」とする意見である。これは、その通りである。コミュ障と呼ばれる人たちの中には、単純に人嫌いなだけな人も少なくない。つまり指摘は正しい。

しかし、コミュ障の人々というのは、別に自分から「俺はコミュ障だから」とか言っているわけではない。常々彼らは、世間さまから「アイツコミュ障だわw」と言われまくっているのである。ここに気付いていない人たちは、普段から付き合いの悪い隣人や同僚を「コミュ障」と呼んでいる連中だということが透けて見える。

ただ人付き合いがダルくて仕方がないという性質の人を指して「コミュ障」と呼ぶ。そういう"まともな人"を僕も実に多く見てきた。その人たちって、本当に「コミュ力がある」人なんだろうか。

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