石川啄木が改めてクズすぎると話題 妻子を裏切り続けた人生にネットでも「最悪」の嵐

石川啄木が改めてクズすぎると話題 妻子を裏切り続けた人生にネットでも「最悪」の嵐

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「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」

明治時代の歌人兼詩人、石川啄木の遺した有名な歌集「一握の砂」に収録されている歌の一節である。国語の教科書にもよく掲載されているが、一体この天才は、どんな人生を送っていたのか。

9月16日放送の「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)で、「妻よ、私がバカだった 石川啄木と妻・節子」と題された回が放送された。(文:松本ミゾレ)

結婚式をすっぽかし、悪びれる様子もなく5日後に帰郷

ヒストリアは、ここのところキャスティングに有名なタレントを使うことが多くなっている。この放送では、啄木役に溝端淳平。妻の節子役としては川島海荷という、人気俳優がキャスティングされていた。

1899年、盛岡市。後に啄木の妻となる節子は、このとき13歳であった。裕福な家庭で育った節子は何不自由ない生活を送っていたという。そんな節子と偶然出会った文学青年、石川一。これが後の啄木である。

次第に親しくなった2人だが、そんな中、文学に熱中する余り、勉強を疎かにしていた啄木が試験でカンニング。16歳で旧姓中学を退学となってしまう。

しかし、周囲の反対もある中、啄木は18歳で節子と婚約する。その後、文学で身を立てるため単身で東京に旅立つ。しばらくすると、節子のもとに、啄木から「東京を発った」という手紙が届いた。彼が戻ればそのまま結婚式へとなだれ込む予定となっていた。

白無垢姿で待つ節子。ところが、啄木は盛岡への汽車を途中で下車し、結婚式をすっぽかす。「失業した父親の面倒をみるのがイヤ」という無責任すぎる理由のせいだ。結婚式から5日後になって、ようやく啄木は節子の前に現れたという。

小説が認められず、浅草で遊びまくって現実逃避

それでも文才は確かにあったため、啄木は1907年には北海道に移住し、新聞記者としての生活をスタートさせる。啄木の手にかかれば、どんな些細な出来事も、読者を惹きつける面白い記事になった。

その実力に彼は慢心し、遅刻や欠勤は当たり前。とんでもない勤務態度だったという。翌年には単身で釧路に移住し地元の新聞社で働くようになるが、妻子への仕送りはほとんどなし。節子は身の回りのものは全て質に入れ、借金するようになっていたが、啄木はそんなことお構いなしに毎晩飲み歩いていたという。

その後、「小説家になる」といいだし、東京に移住。このとき啄木22歳。しかし、作品が出版社に認められず、浅草の繁華街で連日遊び、現実逃避するようになる。完全にダメ男だ。

相変わらずの困窮状態に陥っていた節子は意を決し上京。啄木と一年ぶりに再会し、共同生活を送り始めたが、4か月後には啄木の所業に耐えかね家を出ていってしまった。

最愛の女性、常に自分を支えてくれた節子にすら見放された啄木は、ここにきてとうとう自分の歩んだ人生を反省したという。そして同年12月、有名な歌集「一握の砂」を発表。作風もそれまでの理想主義的なものから変化。現実を見据えた一人の人間としての正直な心情が歌われている。「はたらけどはたらけど〜」もこの歌集に収められている。

しかし、啄木は結核を患ってしまう。1912年4月13日、子と自分の父、そして盟友の歌人・若山牧水に看取られ、啄木は26歳の若さで亡くなった。

借金を踏み倒し、売春宿に通いまくっていたという記録も

ネット上、特にツイッターでは、啄木の自由すぎる人生についての感想が寄せられていた。いくつかご紹介したい。

「『働いても働いても世が悪くて赤貧から抜け出せない可哀想な人』だと思ってたけど、ヒストリア見たら放蕩と思い上がりの末の赤貧だった」
「あまりのダメ人間っぷりに驚く」「石川啄木最悪だな。肥溜に落ちろ」

このように、啄木の人間性を真っ向から否定する声で溢れている。中には、「歴史秘話ヒストリアの啄木はいい人すぎ。もっとクズだよ、啄木は」という声も。番組では紹介されなかったが、啄木は周囲の人に借金をしまくったあげくに踏み倒し、そのお金で売春宿に通っていたことも知られている。

もっとも、人間、「あの時ああしていれば」という瞬間が、思い返せば一つ二つはあるものだ。啄木の場合、特に結核をわずらってからは自分の不養生と、節子に対しての傍若無人を大いに反省したことだろう。

だけど石川啄木とは言わば、破滅型の天才。こういう人物だからこそ、歌集「一握の砂」の内容の重みも増したに違いない。

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