ミュージシャン 川嶋志乃舞さん
キラキラ女子が切り拓く小粋でオシャレな“伝統芸能ポップ”という新世界
2019/07/01
BRAND PRESS編集部

市場の常識を変えるような華々しいプロダクトやサービスが日々メディアの取り上げられる今日。その裏では無数の挑戦や試行錯誤があったはずです。「イノベーター列伝」では、既存市場の競争軸を変える挑戦、新しい習慣を根付かせるような試み、新たなカテゴリーの創出に取り組む「イノベーター」のストーリーに迫ります。今回話を伺ったのは、伝統芸能とポップスを一棹の津軽三味線でつなぐ川嶋志乃舞さんです。小学1年生のときに出場した津軽三味線全国大会は史上最年少で入賞。その後、日本一の座を4度獲得。東京藝術大学で古典邦楽への学びを深めながら、独学でポップスの作詞作曲の技術を身に付けました。しかし、彼女が切り拓き、突き進む道はとても険しいものでした。


全国大会で4度優勝した津軽三味線の天才少女

「志乃舞(しのぶ)」という名前は、「日本の伝統芸能を学んでほしい」という願いを込めて父が付けてくれました。両親は津軽三味線奏者ではありませんが、3歳のわたしを連れて、いろいろな和楽器の教室に見学に行ったそうです。その中で、わたしがみずから「やりたい」と希望したのが、現在もお世話になっている佐々木光儀師の津軽三味線教室でした。

わたしが通っていた教室では、5歳ごろから本格的に津軽三味線の稽古が始まります。稽古は週に一度でしたが、練習は毎日していました。ただ、わたしの場合は30分ほど練習すると、その日の課題をクリアしてしまい、あまり長時間にわたって練習した記憶がないんです。いまもそのスタイルは変わっていません。ほかの子よりも上達が早かったので、6歳のときに津軽三味線の全国大会に出場し、小学1年生のときには最年少で入賞を果たしました。その後、小中学生の部、中学1年生で一般女子の部(高校生以上の部)など、全国大会で4度優勝しました。

ありがたいことに海外公演やテレビの企画などにも呼んでいただく機会があり、とても充実していましたね。そのため、8歳ごろから将来の夢は「プロの三味線奏者」。家族や学校がサポートをしてくれたことに、心から感謝しています。

高校の3年間は、三味線だけでなく、ヒップホップダンスにも夢中になっていました。三味線を続けるためにやりたいことを我慢しなければならないというのが嫌で、ヒップホップダンスにも本気で取り組みました。そのおかげで、ステップを踏みながら演奏できるようになったんです。ポップス特有のリズム感を身に付けたことが、いまの活動にもつながっています。

ただ、この「何でもやりたいことを吸収する性分」のために同じ稽古場に通っている友だちよりも目立ってしまい、仲間はずれにされたり、陰口を言われたりするのは日常茶飯事でした。しかし、わたしは「賞を獲れたのは自分ががんばったから。個性だって大事にしたい」と思っていたので、何を言われてもあまり気にしていませんでした。子どものころから、負けん気が強かったんです(笑)。

東京藝大入学後にぶつかった“伝統”という大きな壁

高校卒業後は、古典邦楽への理解を深めたくて東京藝術大学の邦楽科に進学しました。大学では長唄三味線を専攻していました。一般の方はご存じないかもしれませんが、長唄三味線と津軽三味線は、使用する三味線の種類から根本的な思想、演奏技術に至るまでまったく異なっています。長唄三味線は、歌舞伎や日本舞踊などの演目に合わせて演奏するので、物語仕立てで 1曲が20分から1時間ほどと長く、伝統やしきたりを重んじる邦楽。一方、津軽三味線は1曲5分前後と短く、華やかさやエンタテインメント性を重視するのが特徴です。洋楽でたとえるなら、長唄三味線はクラッシック音楽で、津軽三味線はジャズやソウルという感覚に近いですね。

そのため、幼いころから津軽三味線を弾いていたわたしは、学科内では異質な存在でした。入学前からメディアにも取り上げられ海外公演にも参加していたので否が応でも目立ってしまい、周囲から「藝大出身の看板が欲しくて入学しただけでしょ」と嫌味を言われたこともあります。 藝大には、一心にその藝だけに人生を捧げてきた人が多いので、浅はかと見られるのも仕方ないと感じました。

また、邦楽科の1年生は、学外での公演やコンクールの出場は原則禁止されています。「しっかり勉強して基礎を身に付けなさい」という意味が込められているのだと思います。しかし、わたしにとっては、舞台に上がらないことで、「このままでは、周りの人と大きな差ができてしまう…」という焦りや不安が大きくなり、しだいに精神的に追い詰められていきました。

津軽三味線の家元は、そんなわたしを見て、「志乃舞は志乃舞のままでいいんだよ」「志乃舞は、ほかの人が学べないことを大学で学んでいるんだから、自信を持ちなさい」と、何度も言ってくれました。家元のこの言葉は、心の支えになりました。苦しい中でも、大学で学ぶ古典邦楽に対してより興味を持てるようになり、伝統を継承していくことへの意欲が高まっていくのを感じました。

ただ、わたしの場合、それまで異質な存在と思われていたために、そうした意欲を周囲にアピールすることが必要でした。“長唄三味線を本気で学びたい”という意志を示しつつ、先生の演奏会のお手伝いに積極的に参加するなどして、認められる努力をしました。

民謡界からも異端者扱いされる

大学で学ぶうちに、「伝統を継承していくだけでなく、津軽や長唄などジャンルの垣根を越えて三味線の新しい可能性を広げ、もっと多くの人に楽しんでもらいたい」という気持ちがふくらんできました。その想いから、独学で作詞作曲の研究をはじめ、自分が作った曲をライブハウスや路上で演奏するという活動をスタートさせました。しかし、わたしの新たな取り組みに対して、今度は民謡界から批判を受けることになってしまいました。

わたし以外にも、ポップスやロックなどの多様なジャンルを三味線で演奏して、エンタテインメントとして昇華しているアーティストはたくさんいます。しかし、その多くは民謡界とは相反する場所で活動していることがほとんど。わたしのように藝大や民謡界でキャリアと実績を積み重ねてきた人間が新しいことを始めると、その分野に真剣に取り組み続けてきた人からは浅はかと見られ、疑問視されてしまうこともあります。民謡の長い歴史から見ても、純粋なポップスを歌いながら三味線を弾くという組み合わせを完成させた人がだれもいないので、異端者扱いされました。

それでも、伝統の継承と新たな表現への挑戦、どちらもあきらめたくなかったので、大学のときと同じように、“学ぶ姿勢”を周囲に認めてもらうしかありませんでした。まず、学生時代から弟子をとり三味線の技術を後世に伝えつつ、自分自身が本格的に民謡を学ぶことで伝統芸能の継承への意欲を示すこと。その一方で、わたし個人の取り組みの必要性を理解してもらえるように努めました。やはり、技術があるというだけで自由に活動していてもだれも耳を貸してくれないので、姿勢を示すのはとても重要なんです。

これまでに挫折したことはありませんが、壁にぶつかり悲観的になったことは何度もあります。そのたびに、「志乃舞は志乃舞のままでいいんだよ」という家元の言葉を思い出します。そして、何より支えになったのは、大学時代の友人たち。個性的な同級生たちはみんな何らかの“表現者”を目指しているので、互いに背中を押し合える関係になっており、そのことで救われましたね。現在も同窓生の活躍を見るたびに、「わたしもやるぞ」という気持ちにさせてくれるとても大切な存在です。

日本の伝統芸能邦楽のイメージを変える

過去の自分に言葉をかけるなら、「よくがんばったね、あとは大丈夫だよ」と伝えたいですね。振り返ってみると、ずっと何かと戦っていたような気がします。

自分が目指す大きな場所にはまだ到達できていませんが、最近やっと自由に“弾き、歌い、作る”という音楽活動ができる地盤ができました。いまとなっては民謡界の諸先輩方にも叱咤激励をいただき、卒業した東京藝大からも、卒業生が現役生を指導する特別講師の機会をいただきました。

周囲の理解を得たことで活動しやすくなったとはいえ、基本を疎かにしては元も子もありません。これからも伝統芸能のルーツをしっかり学び、わたし自身がコンセプトに掲げている「小粋でオシャレな伝統芸能ポップ」という音楽ジャンルの確立と、三味線を「ドラムストリングス(たたく弦楽器)」と呼び、独創性のある演奏を国内外に広めていく活動を続けていくつもりです。その一方で、弟子やこれからの伝統芸能継承者たちにも、楽しむことを第一に、藝に励んでもらえるような指導にも力を入れていきます。

10年後の目標は、日本の伝統芸能邦楽のイメージを変える存在になることです。津軽三味線を弾きながら、自由に歌うわたしの姿を見て、尺八や琴などほかの邦楽を学んでいる人たちが「新しいことに挑戦していいんだ」と勇気を持ってもらえたら、ほんとうにうれしいですね。

 

■プロフィール: 川嶋志乃舞(カワシマ・シノブ)

三味線と歌で日本を表現する伝統芸能ポップアーティスト。3歳より佐々木光儀師に弟子入りし、太鼓やお囃子、唄を学び、5歳から本格的に津軽三味線を習い始める。現在は、津軽三味線の指導にあたるほか、唄を石川喜代美師に師事。2001年に全国津軽三味線コンクールで最年少入賞(7歳)を果たし、その後、4回優勝に輝く。東京藝術大学に現役合格後、長唄三味線を杵屋五司郎師に師事し、2017年春に卒業。現在も海外公演をはじめ、楽曲制作、ライブなど精力的に活動中。