レザーアーティスト 本池秀夫氏
苦難を笑い飛ばすポジティブ人生 革人形師の進む道
BRANDPRESS編集部
2019/12/24

市場の常識を変えるような華々しいプロダクトやサービスが日々メディアに取り上げられる今日。その裏では無数の挑戦や試行錯誤があったはずです。「イノベーター列伝」では、既存市場の競争軸を変える挑戦、新しい習慣を根付かせるような試み、新たなカテゴリーの創出に取り組む「イノベーター」のストーリーに迫ります。今回紹介するのは、革人形師の本池秀夫氏。同氏の作品は、いまにも息遣いが聞こえてきそうな精巧な作りと細部への徹底したこだわりが特徴です。だれかに教えを請うわけでもなく、道具すら自作し、試行錯誤しながら道なき道を切り拓いた本池氏の半生を振り返ります。

 

米国帰りの祖母から大きな影響を受ける

幼少期のわたしに大きな影響を与えたのは、米国から帰国した祖母でした。祖母は、20歳のときにたまたま目にした米国の雑誌に載っていた男性に一目惚れをして単身渡米。その後、50年間も日本に戻ってこなかったという、とても自由奔放な女性でした。

わたしが幼いときに祖父母が帰国し、母子家庭だったわたしと母といっしょに暮らすことになったんです。小さな家を建てたのですが、昭和20〜30年代としては珍しく、家具はすべて米国製でトイレは水洗、全自動洗濯機と掃除機のあるフローリングの家で育ちました。当時は、トイレと言えば汲取式、洗濯機や掃除機も高価だったので、周囲の子どもたちとはまったく違う生活だったと思います。また、幼いころから、祖父母が米国から持ち帰った革製の服もたくさんあったので、いまの自分が革に携わっているのはごく自然なことなのかもしれません。

わたしが1971年に会社を立ち上げたのは、ある挫折がきっかけでした。幼いころから器械体操に没頭していたわたしは、特待生として日本大学文理学部体育学科に進学しました。しかし、大学2年生のとき、大きなケガをして選手の道が閉ざされてしまったんです。「学費がかかってしまうので、母に負担はかけられない」。そう思い、革細工を製作する「アトリエMOTO」を在学中に立ち上げ、東京・青山に仕事場を構えました。

わたしの周りには、DIY(Do it Yourself)好きな若者がたくさんいました。現在のような青山の華やかな町並みからは想像がつかないかもしれませんが、当時の青山周辺はモノづくりの街だったんです。アトリエMOTOの隣にはアクセサリー作家である高橋吾郎さんの「ゴローズ」の店舗があり、下のフロアではファッションデザイナーのコシノジュンコさんが自分で作った服をみずから販売していました。このような独特の文化圏が形成されており、夕方になると、クリエイターたちが原宿にあった「レオン」という喫茶店に集まって夢を語り合う、そんな日々を過ごしていました。

人生を変えたジュゼッペ・カッペの磁器人形との出会い

革細工はそこそこ売れていましたが、当時のわたしはこれを一生の仕事とすべきかどうか悩んでいました。そこで、大学の卒業が迫ったころ、生涯の仕事を探すために、欧州各国を巡る旅に出ることにしました。ところが、当時は結婚して長男が生まれたばかり。アルバイトで稼いだ数カ月分の生活費を妻に渡して、フラッと日本を出たんです。アムステルダムからスタートして、北欧と西欧をまわりました。

旅も終盤に差し掛かったころ、ローマの街を歩いていたときにショーウィンドウに飾られていたジュゼッペ・カッペ作の磁器人形に目が止まりました。その磁器人形は、まるで血が通っているかのよう生き生きとしていたんです。そのとき「もし革で人形が作れたら、もっとすごいことになる。人形師を一生の仕事にしよう」と思い立ち、すぐに日本に帰ってきました。

しかし、作品の製作に取り掛かろうと思っても、“革人形”の作り方を教えてくれる師匠もいなければ、製作するための道具もありません。そこで、まずは道具づくりから始めなければなりませんでした。たまたま親戚に歯科医がいたので、古くなった治療器具を譲ってもらい、それを加工して使いました。道具が揃っても作り方がわかりません。銅線で顔や体を作って革製の服を着せたり、胴体部分を木に変えてみたりと、まさに試行錯誤の連続。3年かけてようやく10体の革人形を作りました。

美術商との出会いが意外な展開に

そのころ、赤坂の美術商を名乗る人物がアトリエを訪ねてきました。革人形を自分に売らせてほしいと言うんです。「苦労して作った革人形を売ってもらえるならありがたい」と思い、その美術商に数体の革人形を預けました。しかし、数カ月経っても連絡はありませんでした。名刺に書かれた電話番号に問い合わせても、呼び出し音が聞こえるだけ。住所を訪ねてみると、そこには別の会社がありました。そのときやっと、自分が詐欺にあったことに気づきました。

この美術商をわたしに紹介した知人にこの一件を報告すると、お詫びとしてある女性を紹介してくれました。あとで知ったことですが、その女性は徳間書店の初代社長である徳間康快氏の奥様でした。奥様は夢を持つ若者をまるで自分の“子ども”のようにサポートすることをライフワークにされており、わたしをその一人として迎えてくれたんです。彼女のサポートを受けていたのは、のちの横綱・栃ノ海関や演歌歌手の五木ひろしさんなどがいました。

奥様に初めてお会いしたとき、1体だけ残っていた革人形を見せると、次のように言い放ちました。「盗まれてよかったかもしれないわね」。キツい一言でしたが、自分の未熟さを思い知らされました(笑)。その後、徳間家の一角に机を置かせてもらい、創作活動に専念しました。

修行の日々を送っていた1976年、米国の建国200年を記念して、庶民の生活を描き続けている米国のイラストレーター、ノーマン・ロックウェル氏の個展が渋谷で開催されることを知りました。子どものころから彼の作品が大好きだったわたしは、ちょうどそのころ、ロックウェル氏のイラストに描かれている人物を革人形として製作していたんです。いても立ってもいられなくなり、奥様の紹介でギャラリー担当者を訪ねました。

このとき、奇跡的な出会いがありました。たまたま来日していたロックウェル氏のご子息にお会いすることができたのです。同氏は「日本に興味深い若者がいる」と、米国にいるノーマン・ロックウェル氏本人に伝えてくれました。それがきっかけとなり、わたしの作品がノーマン・ロックウェル展に賛助出品されることになったのです。ほんとうに夢のような体験でした。

自分の人生を振り返ると、どん底にいてもだれかがすくい上げてくれる、そんな経験を何度もしているんです。詐欺に遭ってすべてを失いかけても、徳間夫人やノーマン・ロックウェル氏のご子息に出会うことができた。そう考えると運命的なものを感じます。

ガン宣告からの復活劇

わたしにはもう1つ、ターニングポイントがあります。それは、55歳のときに肺がんを宣告されたことです。すでにステージWでリンパ節にも転移しており、いわゆる手の施しようがない状態でした。医師に「全部切除してください」と伝えたら、「全部取ったら、あなたの体がなくなりますよ」と言われたほど。途方に暮れながら、親戚が働くがん研究所で放射線治療と抗がん剤の治療を受けることになったんです。

抗がん剤の治療はとても辛いものでした。髪の毛は抜け、水を飲んでも体が受け付けず吐き出してしまう毎日。体力だけでなく、気持ちも日に日に滅入っていきました。

しかし、入院して4カ月が経ったころ、わたしはいつものように病院の屋上にあるベンチで寝転がっていました。何気なく左に寝返りを打ったのですが、このとき“自分の意志”で左側を向いたことに衝撃を受けました。

先の見えない闘病生活のなかで、わたしは自分の意志と体が乖離しているように感じていました。しかし、自分の体をみずから動かせる幸せに気づくいたんです。立ち上がって歩きだすと、うれしさで胸がいっぱいになり、涙があふれました。がんを宣告されたときは涙も出なかったのに、自分の意志で体を動かせる喜びを感じたら涙が止まらなかった。そのとき、「自分でがんを治せるかもしれない」と感じたのです。

それ以来、わたしは好きなように生きることを決めました。まず、朝起きたらすぐに私服に着替え、タクシーを拾って近くの高級ホテルへ向かいました。レストランでモーニングを食べるためです。すると、ろくに水も飲めなかったはずなのに、完食してしまいました。昼は果物類、夕方には中華料理などおいしいものをたくさん食べました。やがて食事は生きる活力になり、再び革人形づくりの意欲もどんどん湧いてきました。

そんなある日、鳥取県米子市にある美術館から個展の開催を打診されました。当初は病気のこともあり渋っていたのですが、「何かあってもぼくが責任をとりますから、ぜひ個展を開かせてください」と語る担当者の熱意に押され、引き受けることにしました。これもわたしを前向きにさせてくれた要因の1つです。

がんとの向き合い方を変えて以来、わたしは弱気になっている入院患者の相談にも乗るようになりました。わたしも同じがん患者なのに、おかしいですよね(笑)。入院から7カ月後に受けた検査では、医師はレントゲンを見ながら「がんの影が薄くなっていますよ。不思議なことがあるんですね」と首をかしげていました。退院後も検査は受け続けていますが、ご覧のように元気に仕事を続けています。

「バカな奴だな」と思われるほうがおもしろい

現在は、自分の美術館を建設中です。2020年夏のオープンを目指して、アトリエの近くにある竹林を自分たちの手で切り拓きました。ここでも「Do It Yourself」です。当面は美術館の建設に注力していくつもりですが、革人形の創作活動はもちろん、ほかにもやりたいことがたくさんあります。美術館に関しても“集大成”という意識はまったくありません。「バカな奴だな」と言われてもかまわないので、本気で取り組みたいんです。

3人の子どもたちも革に携わる仕事をしていますが、わたしが仕向けたわけではありません。もしかしたら、わたしの働く姿が楽しそうに見えたのかもしれませんね。これからも自分がおもしろいと思うことを優先してやっていくと思います。自分の思いどおりになったらうれしいし、たとえ思いどおりにいかなくても、それはそれで楽しめますから。「人に迷惑をかけない範囲で人生をおもしろくしたい」。それが、わたしが常々思っていることです。

本池秀夫氏が製作する革人形は、革本来の魅力を生かしつつ、いまにも息遣いが聞こえてきそうな精巧な作りが特徴だ

 

■プロフィール:本池秀夫(モトイケ・ヒデオ)
レザーアーティスト。1971年に「アトリエMOTO」を立ち上げる。1973年に欧州に渡り、ジュゼッペ・カッペの磁器人形との出会いから人形作家の道を志すことに。1975年に開催された「ノーマン・ロックウェル展」に賛助出品を果たし、1976年には初の個展「本池秀夫の人形展」を開催。その後も、グループ展への参加や個展開催など、幅広く活躍している。