足利義昭までの15将軍の黒歴史を発掘!10代義稙は流浪の“ゾンビ将軍”だった

足利義稙

 初代将軍の足利尊氏から最後の足利将軍となった義昭まで、歴代15人の知られざる“へっぽこな素顔”に歴史家の河合敦氏とタレントのれきしクン(長谷川ヨシテル氏)が、わかりやすいキャッチフレーズをつけてくれた。

 室町幕府を開いた初代・足利尊氏(たかうじ)を「あげ好き、お人よし、臆病将軍」と名付けたのは河合氏。

 尊氏のもとには各地から贈り物が届くが、その日のうちに全部部下にあげてしまって、夕方には何も残っていないというくらい気前がよかったという。

「権力や物には興味がない人で、躁鬱病なのか、時々いろんなことが嫌になって出家騒動や引退宣言を繰り返し、部下をハラハラさせている。後醍醐天皇の死後、怨霊の祟りを恐れて京都に天龍寺を建てたり、憶病な面もあった」(河合氏)

 一方のれきしクンは「現実逃避のムラッ気将軍」と評する。

 2代の義詮(よしあきら)は、鎌倉生まれで、20歳の時に初めて京都に入ったものの、京都を追い出され、また戻るを何回も繰り返した。最後は、病気で鼻血を出して死んでいるので、河合氏は「いぶし銀の動乱鼻血将軍」と命名。

 れきしクンは、無理に戦うよりも逃げて態勢を立て直してまた戻るというのは、現実主義でつなぎの2番バッターとしては優秀だったと「リアリストの脱出&リカバリー将軍」との称号を与えた。

 3代義満(よしみつ)は、金閣をはじめ、花の御所を作った文化人だが、一方では意に沿わない部下や大名を切り捨てる暴君でもあった。義満がまだ幼い頃、播磨から京都に戻る際、摂津の景勝地を見て「この地を舁(か)いて(担いで)京都に持って行け」といった逸話や、公家たちに早朝の蹴鞠につきあわせ遅刻すると厳しく罰するなど相当なパワハラで、れきしクンは「ムチャぶり、パワハラ将軍」と言い切る。返す刀で河合氏は、

「年下のイケメン・世阿弥(ぜあみ)に惚れて祇園祭の桟敷席に連れて見物するなど男色趣味もあり、一方で女好きで、後円融(ごえんゆう)天皇のお后に手を出してもいる」

 と、「公武の頂点を極めたバイセクシャル公方」と評する。

 続く4代の義持(よしもち)はどうか。河合氏が言う。「生涯反抗期将軍」のキャッチの内容を聞くと、

「父親の義満を死ぬほど嫌いだったので、将軍になると、義満の始めた日明貿易を止めた。花の御所からも出て、父が作った金閣以外の建物はほとんど全部壊してしまい、義満が寵愛した弟の義嗣(よしつぐ)を殺しています」

 義満が処分した人を赦免、反発を抑え幕府の安定を図った、在位28年の最長記録ホルダーでもあるので、れきしクンは「アンチ親父のトラブル回避将軍」とする。

 5代義量(よしかず)は、10代の前半ぐらいから酒が大好きで、病弱だったのに酒ばかり飲んでいて19歳で若死にした。河合氏は「酔っ払い病弱若死に将軍」、れきしクンも「アル中将軍」と命名。

 6代義教(よしのり)を「くじ引きパワハラ将軍」と唱えるのは河合氏。

「次の将軍は義持の弟4人の中からくじで決めるとの遺言で、くじに当たったのが義教。これがまたトンデモ人間で、隣でクスッと笑っただけで領地を取り上げたり、諫言した日親という坊さんには、舌を切って熱した鍋を頭にかぶらせたり、侍女を錫杖で殴り殺したり、何人殺したかわからない。最後は、赤松満祐(あかまつみつすけ)という播磨(はりま)の守護大名に暗殺(嘉吉(かきつ)の乱)されて48歳で死にます。いわば異常性格者だった」

 手厳しい断が下される中で、れきしクンはプロ野球のドラフト会議になぞらえた。就任当初は世間の評判を気にした面もあったので、「ドライチ、エゴサ(エゴサーチ)将軍」と命名。

 7代義勝(よしかつ)は、わずか9歳でまさかの将軍になったものの、感染症のため10歳で夭折。馬が好きで、「馬好き感染症の幼少将軍」(河合氏)。側近の日記には聡明で将来が楽しみと書かれており、「神童・スーパーキッズ将軍」になったかもしれないと、れきしクンはフォローする。

 8代義政(よしまさ)は「銀閣」で知られる。夭折した7代義勝の弟で、将軍になったのは13歳。東山に銀閣を建てるなど、庭や建築好きだったが、飢饉に人々が苦しむ中でも花見や宴会をして、応仁の乱のきっかけを作った。よって無能な「空気が読めないKYオタク将軍」(河合氏)、「銀閣命のホビー三昧(ざんまい)将軍」(れきしクン)だった。

 9代義尚(よしひさ)は、9歳で将軍になった。日野富子の実子で、父親同様の女好き酒好きながら、室町随一の美男子と言われる「イケメン酒色将軍」(れきしクン)だ。女好きは筋金入りで、引退していた父・義政の側室にも手を出し、義政もまた息子の愛人に手を出し、親子で愛妾を取り合った好色父子だった。酒と女に溺れ25歳で若死にした「色ボケ若死に将軍」(河合氏)である。
 
 10代義稙(よしたね)は、「復活の日を夢見た流れ公方」と河合氏。日野富子と対立して美濃に逃れていた義政の弟・義視(よしみ)の子供だが、管領(かんれい)の細川政元(細川勝元の子)と対立して都から追われた(明応の政変)。以降、人生の大半を流浪のホームレスとなりながら、2度も将軍になっている。れきしクンは「不死鳥、ゾンビ将軍」と、タフこのうえない生き方をたたえるが‥‥。
 
 11代義澄(よしずみ)は、鎌倉公方として派遣されたまま伊豆(静岡県)にとどまった「堀越(ほりごえ)公方」の子供で、流れ公方となった義稙の不在に「日野富子や管領の細川政元が擁立した傀かい儡らい将軍」(河合氏)だった。れきしクンは、修験道で呪術や魔法を使うという細川政元ら「魔法使い管領に翻弄された操り人形将軍」と言いきる。
 
 10代義稙(よしたね)が2度目の将軍に就いて、義澄は近江の六角(ろっかく)氏のところに逃げるが、そこで生まれたのが12代義晴(よしはる)。戦に行く時に、果汁を飲んでいたので河合氏によれば「果汁大好きの近江公方」。だが、れきしクンの見方は少し違って、家臣の下剋上から弟との争いなど、波乱の人生を生き抜く「戦国ど真ん中将軍」と評した。
 
 13代義輝(よしてる)は、細川氏、三好長慶と戦ったり協調しながら京都に戻って将軍になる。武田信玄、島津や毛利など各地の武将に働きかけ、ついには上杉謙信が義輝のために上洛。将軍の権威がにわかに高まるが、最期は松永久秀(まつながひさひで)・父子や三好三人衆の手下らに屋敷を襲撃されて自害。この時に、数十人の敵を斬り倒すなど、塚原卜伝直伝の剣豪ぶりを発揮した。「前代未聞の剣豪将軍」と高い評価を示す河合氏に、義輝と同じ名前のれきしクンも同意。歴史好きになるきっかけとなった将軍の一人で、「るろうに剣心将軍」と呼びたいと、思いも熱い。
 
 14代義栄(よしひで)は、「存在感ゼロの影薄公方」(河合氏)だった。義栄は阿波(徳島)で生まれた、義晴の弟の子供で、三好三人衆が擁立した傀儡将軍。

「本拠地(京都)に一度も入ったことのない唯一の将軍なので、人生ずっとアウェー将軍です」
 とれきしクン。

 15代義昭(よしあき)は「信長嫌いのしたたか将軍」(河合氏)。密月時代もあったので「信長との愛憎劇を演じた室町最後の将軍」(れきしクン)ということになる。

「信長を頼り、上洛を果たして将軍になったものの、京都から追放され、室町幕府は実質的には滅びます。ただ幕府自体は広島県の鞆ともの浦に移って、毛利氏の下で変わらず、信長に対抗しようとしていました。義昭と信長を仲介した明智光秀がのちに『本能寺の変』で信長を討ったのは、義昭が裏で関係しているのではないかという説(藤田達生「義昭黒幕説」)もあります」(河合氏)

 義昭はその後、将軍としてではなく、秀吉の相談役のお伽衆(とぎしゅう)として京都で暮らすことになる……。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書に「早わかり日本史」(日本実業出版社)、「大久保利通」(徳間書店)、「繰り返す日本史二千年を貫く五つの法則」(青春新書)など。

長谷川ヨシテル(はせがわ・よしてる)86年、埼玉県生まれ。漫才師としてデビュー後、歴史ナビゲーターとしてイベントや講演会などに出演。「れきしクン」のニックネームでタレントとしても活躍。著書に「ポンコツ武将列伝」「ヘッポコ征夷大将軍」(いずれも柏書房)など。

関連記事(外部サイト)

×