「Switch対PS5」の今振り返る「ゲーム機」興亡史 日立やパナも参戦していた

「Switch対PS5」の今振り返る「ゲーム機」興亡史 日立やパナも参戦していた

世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」(Evan-Amos/Wikimedia Commons)

 今年の年末商戦も「Nintendo Switch」(任天堂)や「プレイステーション5」(ソニー)などの家庭用ゲーム機が売れている。1960年代までは存在しなかったが、今や生活と切り離せない。テレビは番組を見るだけのものではなくなった。各ゲーム機メーカーの興亡を振り返る。

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 世界初の家庭用ゲーム機は1972年に米国のマグナボックスが発売した「オデッセイ」。米国での価格は100ドル(当時約3万6000円)だったが、日本では5万8000円で売られた。当時の大卒初任給は約5万2000円だから、贅沢品にほかならなかった。

 開発チームのメンバーは軍事用精密機器メーカーの社員たちで、当時としては完成度が高い代物だった。ファミリーコンピューター(ファミコン)のカセットにあたるカードを差し替えることにより、テニスやアイスホッケー、光線銃など12種類のゲームが出来た。

 外付けのコントローラーが2つ付いていたところもファミコンと同じ。半面、画像はモノクロで効果音はなし。背景の画像もなかった。

 このため、例えばテニスをやる時にはオーバーレイと呼ばれるシートをテレビ画面に貼り付け、自分たちでセンターラインを作らなくてはならなかった。

 光線銃は銃口から出る電球の光を、標的に組み込まれた太陽電池が感知し、反応する仕組み。単純だった。そのメカニズムは1970年に任天堂が発売した「光線銃SPシリーズ」(2500円〜)と同じだ。

 日本での販売量は僅か。そもそも高価だから買える人は少なかった。現在もネット市場で中古品が3万円程度で売られている。コレクション用だ。

 1975年、国産初の家庭用テレビゲーム機「テレビテニス」(1万9500円)がエポック社から発売された。もっとも純国産ではなく、マグナボックスと技術提携した上で製造された。

 画像はやはりモノクロだが、こちらはセンターラインなどの背景があり、効果音も付いていた。ただし、テニスのスコアは内部では数えられず、本体にスコア記録用のダイヤルが付いていた。

 テレビと本体は電波(UHF波)で繋いだ。ケーブルはなかった。これは画期的だった。半面、コントローラーはファミコンのような外付けではなく、本体に付いていたので、やや使いにくかった。

 やはり贅沢品で、持っている家庭は限られていた。発売初年度に約5000台売れたとされている。

 1976年、任天堂が動き始める。三菱電機から「カラー表示も可能なテレビゲーム用LSIを作った」と知らされると、同社と家庭用ゲーム機の共同開発に乗り出す。

 完成したのが任天堂にとって初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」(1万3850円)で翌77年に発売された。

 テニスなど15種類のゲームが内蔵されていた。カセット方式ではなかった。もちろん画像はカラー。効果音もあったし、スコアも表示された。

 ただし、テニスやバレー、ピンポンなどのゲームを、シングルとダブルスで2種類と数えたから、実際のバリエーションは多くなかった。

 同時発売された廉価版の「カラーテレビゲーム6」は6種類のゲームしか遊べないが、9800円で1万円を切った。当時の山内溥社長(故人)が「なるべく安く」と指示したためだ。家庭用テレビゲーム機が身近になり始める。


■日立、パナソニックのゲーム機も


 1977年は家庭用ゲーム機の戦国時代だった。今や重電メーカーの印象が強い日立まで「日立ビデオゲーム VG-104」(2万4800円)を発売。出来たゲームはテニス、スカッシュ、ホッケー、トレーニングの4つ。「技術の日立」の割りには平凡な上、エポック社と技術提携しての発売だった。

 同年、東芝も「東芝ビデオゲームTVGー610」(9800円)を発売する。ピンポンやテニス、サッカー、フリーピストル(銃は別売りで3800円)、クレー射撃が遊べたが、やはり目新しさに欠けた。こちらもエポック社と技術提携していた。

 松下電器(現パナソニック)が参戦したのも同年。「Nationalテレビゲーム4種目 TYーTG40」(2万4800円)を発売した。遊べたのはモノクロ画像のテニスやスカッシュなど4種類。日立、東芝と同様に決め手に欠け、販売は苦戦した。

 これで終わらず、バンダイも「TV-JACKシリーズ」を発売する。タモリ(75)をCMに起用し、派手なPRを繰り広げ、話題になった。

 このゲーム機は他社製品とはかなり違った。値段を高く設定したのも特徴の1つ。最上級機の3000は3万8000円もした。

 その分、魅力的であり、3000はホッケーやテニスといった定番ゲームのほか、当時としては斬新だったレースゲームも内蔵していた。ほかに別売りのゲームカセットも利用できた。

 3000の人気を受ける形で翌78年には上級機の8000が5万9800円で発売される。この年の大卒初任給は約15万円。こうなると、社会人でも簡単には買えない。

 その分、スペックは極めて高く、例えばグラフィックは256×192ドット。26年後の2004年に発売された携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」(任天堂)と一緒だった。

 とはいえ、あまりに高価だったためか、販売面は不調。本体が普及しなかったため、売り物になるはずだった別売りのゲームカセットはオセロなど6種類しか発売されなかった。

 1980年、エポック社が「テレビベーダー」(1万6500円)を発売。当時、大ブームだったタイトーのゲームセンター用ゲーム機「スペースインベーダー」を家庭向けにアレンジした。もっとも、処理能力に限界があったので、攻めてくるインベーダーは1列しか表示されなかった。

 1981年、エポック社が「カセットビジョン」(1万3500円)を発売。それまでのカセット式のゲーム機はいずれも高かったが、低価格化に成功する。

 買いやすかった上、カセットの交換によって、「きこりの与作」や「ギャラクシアン」などゲームセンターで人気のゲームが出来たことから、たちまちヒット商品となる。一時は家庭用ゲーム機市場の7割前後を獲得したとされている。

 1982年、バンダイが「インテレビジョン」(4万9800円)を発売。80年にマテルが米国で発売し、ヒットした製品だった。

 家庭用ゲーム機としては初の16ビット機であり、高性能が売り物だった。カセットも豊富で、野球など22種類あった。

 しかし、値段が「TV-JACKシリーズ」と同様に高かったため、これがブレーキとなる。タモリに続いてビートたけし(73)をCMに使い、大々的に宣伝したものの、売れ行きは伸び悩み、販売終了となった。

 1983年、セガが「SG-1000」(1万5000円)を発売。8ビット機で、当時のMSXパソコン(マイクロソフトなどが提唱した当時のパソコンの統一規格)と同程度のスペックを誇った。

 キーボード付きのSC-3000も同時発売。こちらはMSXパソコンそのもので、3万3800円だった。

 SG-1000は詰め将棋や麻雀などゲームセンター並みのゲームが20種類楽しめた。ほかに教材カセットを使えば学習にも使えたし、作曲も出来た。

 安価で高性能なのでヒットが予想されたが、ここで強力なライバルが現れる。任天堂の「ファミコン」(1万4800円)だ。発売日は同じ7月15日だった。


■ファミコンの革命


 ファミコンは8ビットで値段は他社製品と同程度だったが、無駄な機能を排したため、ゲーム機としての性能を高められた。

 なにより、カセットが次々と発売されたことが人気に繋がった。まず「ドンキーコング」など3本のカセットを本体と同時に発売。すぐに「五目ならべ 連珠」と「麻雀」がラインナップに加わり、ほどなくキラーソフト「マリオブラザーズ」も発売された。

 任天堂は他社にゲーム開発の門徒を解放し、カセットを作らせ、自分たちはロイヤリティーを受け取るという方法を採用した。これが見事に当たった。

 タイトーやコナミ、カプコンなど大手ゲームメーカーがファミコンのゲームを開発。最終的には約60社がゲームを作り、本体の売り上げを牽引した。

 ファミコンの累計販売台数は国内外で約6100万台に達し、家庭用ゲーム界のガリバーとなる。

 1985年、セガが打倒ファミコンを目指して発売したのが、「セガ・マークV」(1万5000円)。画像の美しさなどの性能でファミコンを上回ることに成功する。

 だが、瞬く間に強大なブランドと化したファミコンの牙城は崩せなかった。敗因を当時の経済記者たちは「ゲームセンター向けのビジネスをしてきたセガと家庭向けビジネスを展開してきた任天堂の差」などと分析した。

 長らく花札やトランプを作ってきた任天堂は家庭内での遊び方をよく知っていた。

 1987年、NECホームエレクトロニクスがハドソンと「PCエンジン」(2万4800円)を共同開発。

 ファミコンと同じ8ビット機ながら「16ビット機並みの性能」と評され、画像や音声でファミコンを凌駕した。半導体メーカー・NECの面目躍如だった。

 また、家庭用ゲーム機としては世界で初めて光学ドライブを搭載。CD-ROMをゲームソフトとして採用した。これに惹かれたメカマニアも多かった。

 累計で600以上のソフトが販売されたこともあり、ファミコンに次ぐシェアを獲得する。

 1988年、勝負を諦めなかったセガが、「メガドライブ」(2万1000円)を発売。国産機では初の16ビット機で、他社製品を寄せ付けぬ高性能を誇った。

 周辺・関連機器も数多く発売された。それを使えばCD-ROMのソフトで遊んだり、電話回線を使ってゲームの配信を受けたり、離れた人と対戦したりすることなども出来た。ネットニュースの配信も受けられたから、画期的な家庭用ゲーム機だった。

 カセットも「北斗の拳 新世紀末救世主伝説」「尾崎直道のスーパーマスターズ」など数多く出たことからヒット商品となる。ファミコン、PCエンジンに次ぐ座を得た。セガが一矢報いた。

 1990年、任天堂も16ビット機に参入、商品名は「スーパーファミコン(スーファミ)」(2万5000円)。ファミコンの名を残した。

 性能はファミコンより格段にアップした一方、使い勝手の良さやカセットの種類の多さはそのまま。スーファミも圧倒的シェアを獲得する。

 売り上げはファミコンにこそおよばなかったものの、国内外で約4900万台以上。家庭用ゲーム機界における王者の座は揺るがず、任天堂は他社にとっては壁だった。

 1994年、セガとNECホームエレクトロニクスがそれぞれ32ビット機を出す。スーファミの先手を打った。その製品は「セガサターン」(4万4800円)と「PC-FX」(4万9800円)。

 どちらの本体もゲームマニアやメカマニアの間では評判が高かった。だが、やはり任天堂には勝てなかった。この構図は1980年代におけるビデオデッキの「VHS対ベータ」のシェア争いと似ていた。敗れたベータも性能は高評を得ていた。

 半面、ソフト面ではスーファミのほうが圧倒的に勝っていた。VHSのソフトが充実していたのと同じだ。

 ソフトの数はスーファミが1447本、セガサターンは1057本、PC-FXとなると、62本であり、比較にならなかった。数だけでなく、両社は人気ゲームが不足していた。

 同じ1994年、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が参入し、やはり32ビット機の「プレイステーション(PS)」(3万9800円)を出す。

 徹底した研究と準備を重ねた上での発売で、家庭用ゲーム機で初めて本格的な3Dグラフィックを実現したほか、「リッジレーサー」など魅力的なソフトを次々と出した。

 任天堂の一強体制が揺らぎ始める。


■王者・任天堂の苦悩


 1996年、スーファミがまだ売れている中、任天堂は64ビット機の「NINTENDO64」(2万5000円)を発売する。性能面においてプレイステーションを追従するのではなく、先行しようとした。無論、3Dゲームにも対応した。

 ところが、販売面で苦戦。ソフトを作るメーカーが不足し、魅力的なゲームがなかなか生まれなかったのが原因の1つ。「64ビットでは容量が大きすぎる」としてPS陣営に移っていったメーカーもあった。

 やむなく任天堂は本体の値下げに踏み切る。1997年に1万6800円、翌98年には1万4000円に下げた。任天堂にとって初の試みだった。王者の苦悩が垣間見えた。

 1998年、セガがインターネット通信用のアナログモデムを標準搭載した「ドリームキャスト」を発売。オンラインゲームやインターネットを楽しめたが、価格は2万9800円に抑えることに成功。まさに夢のゲーム機と思われた。

 だが、販売面では惨敗を喫する。やはりソフトの不足とマニアックな操作性などが理由とされている。懸命に売っている最中の2000年、ソニーが64ビットの演算ユニットが2つある高性能機「PS2」(3万9800円)を出したのも痛かった。

 この敗北によってセガは2001年、家庭用ゲーム機市場から撤退する。NECグループもPC-FXの失敗が響き、2000年に市場から消えた。家庭用ゲーム機市場は弱肉強食の世界だ。

 一方、ソニーの「PS2」は国内外での販売台数が約1億5500万台に。ファミコンを超え、最も売れた家庭用ゲーム機となる。

 ソニーの攻勢を任天堂が黙って見ているはずがなく、2006年には「Wii」(2万5000円)を発売。2017年には「Nintendo Switch」(2万9800円)を出した。Switchのキャッチフレーズは「携帯型ゲーム機としての利用もできる据置機」だった。

 片やソニーは今年11月に「PS5」(4万9980円)を出した。基本スペックは2013年発売の「PS4」(HDD容量500GB、2万9980円)より圧倒的に上だった。

 PS5は超高速SSDを搭載。インストールされたゲームをほぼ瞬時に読み込み、ほんの僅かな待ち時間でプレイを楽しめる。4Kテレビ(フルハイビジョンの4倍高精細なテレビ)にも対応している。

 まだまだ進化は続くだろう。今後も「家庭用ゲーム機三国志」は終わらない。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月27日 掲載

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