活躍できなかった40代、50代が「活躍する若者」にできること

活躍できなかった40代、50代が「活躍する若者」にできること

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 今年度初めから今年の夏にかけては、いろいろ滅茶苦茶でありました。

 世の中が暗い方向に騒々しいので、少しでも明るい話を! と思うと、どうしてもこれからの成長が期待できる若者の方向に目が向いてしまうのは人情なのでしょうか。

■世代はめぐる

 将棋では5月に藤井聡太さんが大躍進して最年少七段になって驚いていたかと思えば、高校野球では秋田県・金足農のエース吉田輝星(こうせい)さんがおおいに話題になり、20歳の大坂なおみさんや錦織圭さんがテニスで大活躍、さらにはメジャーで大谷翔平さんが故障を抱えつつも新人王候補の一角に入らんかという勢い。

 暑いし台風・大雨も来るし地震も多いしトランプさんは何か言ってるしで、正直やってられなかったわけですが、世代は巡り、どんどん新しいヒーローやヒロインが出てくるというのは励みになります。

 いやー、若いっていいですね。

 最高じゃないですか。

 人生思い返してみると、好きだった女優と一緒に歳を取り、あああの女性もこんなに老けたんだなあ、と一方的に思ったりもしますが、こっちだって充分歳とって老けてるんですよね。本人が知ったらお前らは他人の老け顔を品評できるような立場かと口角から泡を飛ばして反論されても何も申し開きができないぐらい、自分勝手なことを感じている自分がいます。ほんと、すいませんね。

■才能を活かすことと、才能を活かし続けることの違い

 年月は、本人の認識や希望とは別に、勝手にどんどん過ぎていきます。そもそも高校野球というものは、自分よりも年上の世代が野球の技を真剣に競うものであり、テレビに出ているアイドルも俳優もその誰しもが見ている者の「こうなりたい自分」を投影していたはずが、いつの間にか同年代になり、下の世代になっていく。気がついたら自分が年齢だけは上になって、見下ろしているように見えても、活躍する若い世代からすればこちらは単なる中年ということになってしまう。

 もちろん、いま新星として期待されている若い人たちも、いずれ歳をとって中堅になっていきます。出始めの輝きを失わずにやっていける人たちが少ないのもまた事実です。でも、人生は長く、花の寿命は短い。一口に「善く生きる」といっても、才能を活かすことと、才能を活かし続けることの違いってのはあると思うんですよね。

 趣味と仕事を兼ねてプロ野球を観ていると、長年頑張ってくださった選手がそろそろパフォーマンスも落ちてきたので引退を考えているという話に接します。ああ、彼ももうベテランだもんなあ、指導者のほうにいくのかな、と思ったりもする一方、よく考えたらベテランと評される彼のほうが私よりも年下だったりするのです。申し訳ない。先発ではやっていけなくなった投手が中継ぎに回る際に「彼もいい歳だから」というのはそのスポーツにおけるいい歳にすぎないわけです。でも、勝手に中堅だ、ベテランだ、ロートルだと評するんですよね。

■「応援したい若い人像」の物語を生きてしまう私たち

 で、その下から、若い世代が新星として現れる。最初は「うおー、平成生まれの怪物が」とか、おう、もう昭和も終わりなのかと思っていたら、その平成生まれの先陣はもうすぐ30歳で、いまは2000年生まれ以降のミレニアム世代とか言われるんですよ。次から次と、新しいキャッチフレーズを胸に抱いて、新しい人がどんどん出てくる。

 なんかこう、ピンとこねえよ。

 もう自分の息子ぐらいの年代の若者が大人相手に一線で頑張っている状態ってのは、物凄く頼もしく見える反面、おいおいまだ子供なのにとか、勉強大丈夫かと他人事ながら思ってしまう。また、もういい歳になっている中堅選手がパッとしないのを見て「ああ、もうくたびれてきたのかな」と思うこちらのほうが世間一般では充分に中年でありおっさんであり老害一歩手前か片足両足突っ込んでたりするわけですよ。

 で、なんとか若い世代の子たちの活躍を澄んだ目で応援したくなって、活躍した子たちやその環境で指導してきたコーチや親のエピソードから「応援したい若い人像」を捻り出すための物語を探そうとするんです。

 必然的に共感するのは、そういう世代観だけじゃなくて、活躍する若い世代の人間味だったり苦労話だったりします。やれコーチと感情的にぶつかったとか、家庭が経済面で大変だったとか、そういう苦労話や人間味ある逸話が出てきます。これだ。等身大の人間、苦悩する若者の姿だ。天才だから周囲の理解がなかなか得られなかったとか。そういう普通と違う存在であるがゆえに苦労しつつも若くして活躍する人々に共感できるのだ、という余地を探そうと一生懸命になるわけであります。おっ、なかなかの、天才なのになかなか大変だったのだな、そういう共感のフックがあって初めて素直に「こんな優れた若い世代が出てきたのか、素晴らしい」とか「若い子の才能の芽を摘んじゃいけないな。親は自由にやらせて偉いな」などと勝手に物語を受け取って、必ずしも才能を発揮してきたとは言いがたい中年の心にスムーズに落ちていく、そういう仕組みがあるように思います。

■「必ずしも第一人者になれないこと」を知っているということ

 若い子のほうもたいしたもので、インタビューを受けてしどろもどろになる人がいないのもまたポイントが高い。なんか「何を聞かれてもある程度受け答えができて当然」みたいな。もちろん、勝って嬉しくて興奮しているとか、負けて悲しんでいるとかはあるんですけど、それでも今回の大坂なおみさんみたいに「うわ、めっちゃいい子じゃん。これからもどんどん上を目指して頑張ってくれ」と思えるようにちゃんと考えているのがとても賢い。昔は「いや、俺はバットが恋人なんで」って朴訥に喋るスポーツマンや良しという志向もあったのだけれど、みんなきちんと考えてその分野の第一人者になっているのだなあ、と感じます。

 実際には、野球であれ他のスポーツ、特技などの分野であれ、子どものころから興味を持ち、それを実践できる環境があり、親の理解と経済力、さらには切磋琢磨できる同い年か近い年の同志がいて、子どもを適切に導ける恩師がいる。それらの条件が概ね整っていなければならず、外野でわいわい評論しているおっさんには必ずしも舞台裏が見えているわけじゃないんですよね。

 しかしながら、世の中の大多数は若いころから頑張ってきたとしても、その他大勢の一部としてピラミッドの底辺でも頑張って歯を食いしばって何とか生きてきた人たちであります。残念なことに、好きだから熱心に取り組めばどのような分野でも第一人者になれる、というほど世の中は甘くないことを身体で表しているのが私たち「これといって若いころから特定の才能で開花したわけでもないけど現在まで何となく生きてくることのできた存在」であります。

■応援団として社会の肥やしになる割り切り

 時代は下っても、若い世代には「社会的な理解のしやすさ」を求める。それは、日々を頑張って生きている、そう取り柄のない人でも立派に働いて家族を養い生きているということの裏返しでもあって、もしも若かったら才能を爆発させて周囲を驚かせている自分を思い描く庶民の夢を、若者の活躍に乗っけているのです。

 もはや、40代50代以上になってくると、若い人たちに才能で立ち向かおうなどという気概もなくなり、毒気なく応援団として社会の肥やしになる割り切りが必要なんだろうと思うのです。だってもう無理だもの。いまさらプロ野球選手にもなれなければ、将棋指したって大して強くもならない。でも、そういう人たちを応援はできる。気持ちよくプレイして、才能を発揮してもらえるような社会にしていきましょうという心がけぐらいはできると思うんですよね。

 社会で才能のある人が活躍できる環境づくりをしているのは、私らのような才能のない人たちの側であり、凄い人の足を引っ張らずに彼らも私たちも平等に頑張れる環境づくりをするのが求められているのだろうなあと感じるわけですよ。災害が起きて助け合いの募金に小遣いを突っ込むのと同様、そういう若い人たちが出てきた時にその物語性に共鳴して、もっと活躍できるように穏やかな環境を作ってあげることができるのは、才能を発揮することのなかった人たちの「度量」なのではないか、と思う次第です。

 そう思うと、炎天下での高校野球とか、若い体操選手を殴り飛ばすコーチの存在とか、もちろんいままでのしきたりや伝統はあったかもしれないけど、もう少し若い人が活躍しやすい世間様にしていければなあと考えたりするのですが。

(山本 一郎)

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