日本人よ、「びくびく」生きるのはもうやめよう

日本人よ、「びくびく」生きるのはもうやめよう

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周囲の目を気にし、仲間だけを信頼する社会を変えるべきときが来ている

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 日本文化は和の文化である。日本人は和を大切にする。和の心こそが日本人の美徳であり誇りである。昨今テレビや新聞などのメディアを賑わせているテーマの一つが、こうした日本人の和の心礼賛論である。それでは、誰もが当然と思っている日本人の和の心とは何だろう? 日本人が大切にする和とはいったい何を意味しているのだろう?

 そこでまず、日本人がほかの国の国民よりも本当に和を大切にしているのかを、筆者たちが世界の21か国で実施した調査で調べてみた。「私はまわりの人との間で和をたもつことを大切にしている(英語では“I value maintaining harmony with others”)」という質問に対してどの程度同意するかを比べてみると、驚くことに日本人の平均は21か国の中で下から4番目、日本人よりも平均が低いのはエストニア、トルコ、韓国だけである。

 これは質問の仕方が悪かったのかもしれないと思い、次に、他人の気持ちを大切にするという和の側面を強調した、「まわりの人の気持ちを尊重するようにしている(英語では“I try to respect the feelings of others”)」という質問に対する平均を比べてみたところ、ここでもまた日本人の平均は21か国中の最低である。さらにしつこく「いつもまわりの人の立場にたって物事を考えるようにしている(“I always try to see things from other people's perspectives”)」という質問に対する回答を比べてみても、日本人の平均は下から2番目で、日本人よりも平均が低いのはロシアだけであった。

 和の心を、他人の気持ちを慮(おもんぱか)り、他人の立場に立って協調的な関係を作ろうとする心だとすれば、どうも日本人には和の心が欠けているように思われる。少なくともこの調査に回答をしてくれた日本人は、自分は和の心をもっているとは思っていないようである。

 そこで少し見方を変え、和のもう一つの側面である「波風を立てない」ように「まわりに合わせる」という点に目を向けてみた。すると、「まわりの人からきらわれないようにふるまうことがよくある(英語では“I often behave in a way that will keep others from disliking me”)」という質問に対する日本人の平均は上から8番目、「まわりの人が自分をどう思っているかが、つい気になる(“I often find myself being concerned about what others think of me”)」に対する回答の平均は10番目、「まわりの人がどう思うかが気になって、自分のしたいことをそのままできないことがある(“I sometimes get so anxious about what other people might think that I am prevented from doing what I really want to do”)」の平均は7番目で、21か国中の中の上に位置している。ちなみにこれら3つの質問に一貫して高い回答を示しているのは、中国、韓国、インドなどの国々である。

 どうやら日本人の和の心とは、他人の気持ちになって互いに協調しあう関係を好むというよりは、まわりからどう思われるかを気にして、まわりとの間で波風を立てないようにビクビクしている気持ちのようである。ただしそうした気持ちも、一人一人が実際にそう思っているというよりは、日本人はそうなのだとみなが思い込んでいるということのようだ。

■日本人が知らない協調性

 上に紹介した調査の結果は、人に嫌われないよう人目を気にして自分のしたいことを遠慮する生き方が他人との協調につながる、と日本人が考えていることを示しているように思われる。実際、日本人の間では、「まわりの人との間で和をたもつことを大切にしている」という質問と、例えば「まわりの人が自分をどう思っているかが、つい気になる」との間に正の相関関係がみられる。つまり、まわりからどう思われるかを気にする人が、まわりとの和を大切だと思っている、ということである。これに対して「まわりの人が自分をどう思っているかが、つい気になる」という質問に対する回答の平均が低い国ではこの相関はみられない。逆に、そうした国々では、自己表現を大切にしている程度、例えば「いつも自分の立場をちゃんと主張するようにしている」という質問に対する回答が、「和を大切にしている」という質問に対する回答と強く結びつく傾向にある。他人との間に協調的な関係を築くためには互いの立場をきちんと主張する必要がある、と考えているわけである。

 こうした調査の結果を見ると、日本人の美点とされている和を大切にする心とは、まわりの人たちとの間で積極的に協調関係を築いていこうという気持ちというよりは、まわりから嫌われたり波風を立てるのを避けようとする気持ちに近いように思われる。この2つの違いをきちんと理解しておかないと、今後の日本人の生き方、あるいは日本社会の作り方を考えるさいに大きな誤解を生み出してしまうだろう。自己表現と自己主張を通して互いに納得のいくウィン・ウィンの関係を築くことは今後の日本社会と日本人にとってますます大切になると思われるが、まわりから嫌われないよう、波風を立てないようにという生き方は、そうした積極的な協調関係形成の足かせとなるからである。

 ここでもう一つ、日本社会についての大きな誤解として、筆者がこれまで指摘してきた一般的信頼の欠如について述べておきたい。もう一昔前になってしまったが、日本経済が高度成長を達成しその後バブルの崩壊に至るまでの間、日本的経営が世界中でもてはやされた時代があった。その時代には、日本社会は信頼社会であり、安定した人間関係の絆が生み出す信頼関係が日本社会、あるいは日本経済の強さを下支えしている、と言われたものである。

 しかしこの常識も、実際の調査の結果とは大きく異なっている。例えば世界価値観調査(2005〜2014)の結果を見ると、「はじめてあった人を信頼するかどうか」という質問に対して「信頼する」「ある程度は信頼する」という回答を合わせた日本人の回答は8.8パーセントで、この質問が尋ねられた74か国中の下から4番目という驚くべき結果である。日本人の一つの特徴は、知らない人は信頼しないという点にあると言える。

■「信頼」と「安心」は違う

 日本人の一般的信頼の欠如を説明するために、筆者はこれまで、他人を「信頼」するということと、他人との関係で「安心」していられることは違うのだと主張をしてきた。信頼とは、相手に自分をだますインセンティブがあるにもかかわらず、それでも相手は自分をだますようなことはしないだろうと思う、相手の人間性への期待である。それに対して安心とは、相手に自分をだますインセンティブが存在しない状態を意味している。十分な担保を取った相手には(「信頼して」ではなく)「安心して」お金を貸すことができる。しかし担保が不十分な相手に対してお金を貸すのは、相手の人間性を信頼している場合だけである。

 筆者のいう安心社会とは、その中にいる限りはまわりの人たちが信頼出来る人たちかどうかを考える必要のない社会である。そこでは互いに助け合うが、仲間以外の人たちは信頼できない。そういう社会を作ってしまえば、仲間から追い出された人間は途方に暮れてしまうだろう。そうならないためには、まわりの人から嫌われないように、まわりの人たちからどう思われるかを気にして生きていくことが必要となる。

 この安心社会は、そこにとどまっている限りは安心できる社会なのだが、実はそこから外れたとき、追い出された時には巨大なリスクを生む社会である。戦後の日本は終身雇用制に代表される安心社会を確立したことで、そこから外れることの社会的リスクが極めて高い環境を作ってしまった。例えば一度、会社を辞めてしまうと再就職が難しい。今の職場を失うとセカンドチャンスがないという意味で、社会的なリスクが極めて高い。こうした安心社会で暮らしている限り、知らない人を信頼し、知らない人との間に積極的に協調関係を作っていこうとするのではなく、安心できる今の場所を失わないようにするため、まわりから嫌われないことを気にするようになるだろう。この意味では、日本人の和とは、安心社会にとどまり、安心社会を維持しようとするメンタリティーなのである。

 江戸時代の大学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は『政談』の中で、江戸や大阪などに頻発する犯罪対策として、人々を安心社会に縛り付けておく必要性を強調している。徂徠は、犯罪が増加するのは人々が生まれ育った土地を離れ江戸などの大都会に流入してくるからだと考えた。人々がひとつの村落で一生を過ごしている限り、その行動は隣近所や親戚から常に監視されているので、人の目が気になって悪いことができない。だから犯罪対策に必要なのは、大都会に流れ込んだ犯罪予備軍を帰郷させる「人返し」を実施し、人々を相互規制が行き届いた村落共同体から離れられなくすることだと徂徠は提案した。

 江戸時代の農村のようにプライバシーがほとんどない暮らしの中では、相互規制の目を逃れることはできない。特に名主や村落全体が一人の違反者に対して連帯責任を負う統治政策の下では、互いの行動に対する相互監視は揺るぎのないものとなる。

 徂徠が指摘したように、安心社会を実現するためには人々を共同体に縛りつけておく必要がある。そして日本人は長い時間をかけ、そうした共同体の中で相互規制を生み出すやり方を洗練させてきた。特に重要なのは、そうした中で相互監視が内面化され、外部からの強制ではなく「和の心」「思いやりの心」で行動するのだと人々が考えるようになった点である。その結果、人様にとやかく言われないように身を慎むことが至上の道徳律となり、そうした道徳律を身につけた人々が暮らす社会こそが理想郷となる。ブータンが世界一幸せな国だという報道に多くの日本人が共感を覚えるのは、自分たちが失った「理想郷」を思い起こさせるからだろう。格差社会が人々の心を荒廃させるという言説が人々の心を捉えるのも同じ理由によるのだろう。

 江戸時代に限らず、安定した雇用を提供する日本的経営は、人々を土地ではなく企業という新たな共同体に縛りつけることで、高度成長期以降の日本で徂徠の理想の実現に貢献してきた面がある。しかしそうした「理想郷」が有効に機能するのは、そこでは人の目を気にしないで生きていくことができないからだという徂徠の卓見を忘れてはならない。共同体による束縛は思いやりの道徳律を生み出す一方、リスク回避のメンタリティーも生み出すことになるのを忘れてはいけない。

 江戸時代の村落共同体や日本的「企業共同体」は、人々が安心して暮らすことができる場所である。一方、共同体の中での思いやりと安心は、そこから放逐されることが生む悲惨な結果によって維持されている。共同体を離れて生活できなければ、人々はそこから放逐されないように身を慎(つつし)むことになる。共同体からの追放を招くリスクを取るわけにはいかないからである。江戸時代の村人たちは隣近所から白い目で見られるリスクを避けなければならなかった。現代日本の会社員は、正社員の職を失うリスクを取るわけにはいかない。かくして、次に紹介する世界価値観調査の結果が示すように、日本人のリスク回避傾向は世界のトップの座を飾ることになってしまった。出過ぎたまねをして打たれる杭にならないように用心するリスク回避のメンタリティーは、今や日本社会から活力を失わせる大きな要因となっている。

 日本社会が良い意味でも悪い意味でも安心社会だという事実は否定できないだろう。日本文化礼賛論者が言うように、日本にいる限り安心して暮らすことができる。しかしその反面、人々は積極的にチャンスを活かした生き方をするよりは、波風を立てないリスクを避ける生き方を好ましいと思うようになる。実際、世界価値観調査の結果を見ると、日本人のリスク回避傾向は世界で一番強いように思われる。

 この調査に、「冒険やリスクをとることが大切な人」に自分があてはまるかどうかを尋ねる質問がある。この質問に対して「あてはまる」と答えた日本人の比率は1割以下で、この質問を尋ねた71か国中の最下位となっている。もちろん冒険やリスクを避けるというのは、好ましくない生き方だというわけではない。とくにセカンドチャンスの小さな社会では、リスクを避けるのは賢い生き方なのだろう。しかし社会のグローバル化が進む中、安心できる関係にある人たちとだけではなく、知らない人たちとの間にもリスクをとりながらセカンドチャンスが活かせる社会を作らなければ、日本はどんどん不利な状況に追い込まれていくことになるだろう。

■信頼社会をめざすには

 人間の進化の歴史を見ても、安心社会のあり方は社会の秩序を生み出すための一番簡単なやり方で、数万年にわたる狩猟採集生活を小さな集団の中で過ごしてきた人類に組み込まれた心にとって、もっともしっくりする生き方だろう。仲間うちで互いに目を光らせあっていれば、そのなかでは安心していられる。しかし、人類が仲間うちで助け合う利他心を進化させてきた狩猟採集社会であればそれで十分だが、そういう社会の作り方をしていると、人々が安心していられる集団の枠を超えられないという限界が出てくる。あてになるのは仲間だけであれば、外の世界はリスクが大きすぎる「人を見たら泥棒と思え」という不信の世界となってしまう。

 しかし人類は仲間うちのつき合いを超え、知らない人との間にも関係を持つかたちで社会を作り変えてきた。そして、安心できる仲間うちを超え、知らない人たちとも交流をするときに必要になるのが法律、つまり普遍的な法による支配である。

 法律は秩序を仲間うちから拡大するための普遍的な行動原理だと言える。仲間うちで互いに見張りあって悪いことができないようにするというやり方で作る社会が安心社会、法制度を整備する形で仲間うちを超えた秩序を作るやり方が信頼社会を作るやり方である。仲間うちに頼らなくてもすむように、どこにいても法律が個人をも守ってくれることで、他者一般に対する信頼が育っていく。他者一般を信頼できる社会の中で、個人がリスクを取りながら自分の目的を自由に追求する生き方ができるようになる。

 こうした安心社会と信頼社会の違いは、集団主義文化と個人主義文化の違いとして理解されることが多いが、そうした文化の違いの背後には社会の作り方の違いがある。そして社会の作り方に応じて倫理体系も常識も違ってくる。たぶん今の日本が直面しているのは、知らない人との間で経済活動が行われるといった形で社会の作り方は変化したのだが、人々の意識や倫理の体系が変わっておらず、そこにミスマッチが起こっているという問題だと思われる。

 ただし法制度だけで社会の秩序を維持するのは不可能である。法律によってすべての人の行動を規制しようとするのは、いくらそのためのテクノロジーが進歩しても困難だろう。その時に一番有効なのが、人々が自発的に評価しあうことで得られる評判である。これまでの安心社会も仲間うちでの悪い評判を避けることが重要であったが、これからの信頼社会で重要なのは、仲間うちを超えてどこでも通用する良い評判を確立することである。個人が自分の評判を作ることに投資をしていき、その評判がどこにいっても通用するような形で社会を作っていく。それがこれからの時代に利他的に人々を行動させる信頼社会の作り方である。

 そのためには良い評判を持つ人にセカンドチャンスでもサードチャンスでも、色々なチャンスが与えられる環境を作る必要がある。シリコンバレーはそうした評判がチャンスを生み出している例だが、これまでの日本のように企業そのものが正社員の枠で閉ざされてしまうと、評判が組織の枠を超えられなくなってしまう。どこでも通用する評判を広くシェアできるようにするというのが、これから信頼社会を作っていくための一つの重要なキーとなるだろう。

(山岸 俊男)

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