本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

©文藝春秋

 本田技研工業(ホンダ)が創立されたのは1948年。当時、創業者の本田宗一郎は41歳だった。

 この手記が月刊誌「文藝春秋」に寄稿されたのは、それから7年後のこと。まだ世界的にはまったくの無名企業だったが、オートバイにすべて情熱を注いでいた男の立志伝からは、その勢いと自信の程をうかがうことができる。
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出典:『文藝春秋』1955年10月号「バタバタ暮しのアロハ社長」

(なお、転載にあたって、現代読者に読みやすくするため、旧かな遣い、漢字表記を一部改めた)

■ただ一筋につながる

 先日私は、ある映画館で「スピードに命を賭ける男」というアメリカ映画を観た。そしてえらく感動した。もっともその感動は、私なりのものであって、多くの人々に解って貰えるかどうか、ちょっと疑問ではある。

 自動車のレースに生命を賭け、それに生き抜こうとする男の物語は、50歳になって未だに若い気でいる私の血を燃やしてくれた。事実肉体的にも、私がもっと若く溌溂としていたら、……私はこんな風にのんびりと、映画の話などしていられなかったかも知れぬ。自分で競走用自動車に乗っていたろう。

 主人公を演じた男の不敵の面魂は、自分で言うのも可笑しいが、元気な時代の私を彷彿させるようで、大へん気に入った。あんな男が現実に生きていたら、ガソリンの匂いが、好きで好きで耐まらない私の趣味が、本当に理解して貰えるだろう、と思った。

 競走用自動車とオートバイの差こそあれ、その生き甲斐には差違はあるまい。耳たぶを切る風の声、逆転する風景、それは全く血湧き肉躍るという形容が、そっくり当て篏まるものだ。それでいて、細心の神経を必要とするこの競技は、真に男性的のものなのである。

 未だ私は、自らの人生を顧るという、大袈裟なことの出来る年齡にはなっていない。人生50年、教訓もなく、劇的な波瀾もなかった。ただ平凡にオートバイのエンジンに取っ組み、他愛のない悪戦苦闘を続けてきただけである。しかし、それでいて、ただ一つ言えることは――それは、一本に打ちこめる仕事をし続けてきた、ただそれだけなのである。

 映画の主人公が叫んだ言葉に、最も私は気に入ったのがあった。私と競走とどちらを選ぶと愛人に迫られて、「俺が競走するのは、何も記録と闘い、相手と闘っているのではない。俺は俺の生命を相手にしているんだ。競走に出なくて、どこに俺の生涯があるんだ!」

 然り、私もまた自らの生命の命ずるままに生きてきたのである。

■ガソリンの芳香

 明治39年、浜松市在の鍜冶屋の伜に生まれた私は、鉄を撃つ槌の音を子守唄ときいて育った。今日になっても、騒音の中に生きている次第だが、私にはけたたましい音が身についた、ぴったりしたものなのだろう。

 物ごころつくかつかぬかに、くず鉄を折り曲げ、訳のわからぬものをこしらえ、私はいとも満足していた。好きな悪戲には時間は気にならず、着物の袖は垂れ落ちる青ぱなをこするので、合成樹脂でぬり固めたように真黒になった。「冬などカチンカチンになるので、可笑しいやらで、叱れなかったね」と、母はよくその当時を思い出して苦笑する。

 三つ子の魂百まで、というが、子供の時代の思い出などを、ひょんな事で人に話したりすると、本気でもあるまいが、その人は大抵笑ってこう言うのである。

「今でも大して変わらないのじゃないですか」

 なるほど、と私も仕方なしに苦笑する。

 金魚が赤いのばかりじゃ面白くないと、職員室の金魚鉢をひっかき回し、青、黄色のエナメルを塗って放してやり、校長に大目玉を食った話。

 磁石の磁力をそっと盗んでおいて、理科の時間に先生が失敗するのを見て大喜び、授業が終り先生が去ってから、自らうまくやってのけて拍手喝采、得意満面の私、等々、思い出してみれば、生まれついて碌なことをしていない。

 生家の隣に石屋があった。そこの親父の作っている地蔵の鼻恰好が、どうしても気に食わなかった。おれならこう彫る、あそこを削る、と独りで想像図を完成していたが、どうもそれだけでは我慢がならぬ。

 昼食休みの親父のいない暇に、私は素早くのみと金槌をもち、コチンコチンと当ってみたが、石の硬さは思う様な型に容易にならぬ。いじり回している間に、鼻が丸ごとぽろりと欠け落ちてしまった。これには私も仰天して逃げ出したが、衆目の一致するところ、犯人は私だ、と逃げも胡魔化しもならず、目の飛び出る程怒鳴り飛ばされたこともあった。

 まずは、こと程左様に、生まれついて賞められることをしたことのない私だったが、完全に魅入らせられ、参ってしまったものに自動車がある。小学校4年生頃、村に初めて動く車体が、青い煙を尻からポツポツとふきながら、通ったのである。

 私はそのガソリンの匂いを嗅いだ時、気が遠くなる様な気がした。普通の人のように、気持が悪くなってではない。胸がすうとしてである。その耐まらない香りは幼い私の鼻を捉え、私はその日から全く自動車の亡者みたいに、走るその後を追っかけ廻した。金魚のふんだと笑われながら、自転車がすり切れる程、ペダルを踏み、自動車の後を追って、ガソリンの芳香をかぎ悦に入っていた。

 道に油がこぼれていると、それに鼻をくっつけ、匂いを存分にかぎ、時間の経つのも忘れた。そしてその日の御飯の、何と美味しかったことか。

 その頃から抱いた私の最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思い切り素っ飛ばしてみたい、ということだった。その念願の達成出来るのは、何時の日か?

 しかし、必ず来ると私は信じてやまなかったのである。

■作業衣ワンダフル

 16歳、小学校高等科をおえると、直ぐ私は東京に奉公に出た。本郷のアート商会という自動車の修理工場だった。好きなことが出来るという事に、私は無上の光栄を覚え、家を離れ父母の膝下と別れることなんか、私は全然悲しく思わなかった。

 それに学校が嫌いである。学問に見向きもしなかったから、上級学校へ行く気など更にない。せめてもましな成績だったのは、工作、図画、唱歌ぐらいだったから、これでは仮にいくら上級学校をと欲ばっても、土台が無理な相談だ。

 行李一つで都会に出てきた私は、自動車をいじれるというだけで、胸をふくらましていた。その油に塗れた作業衣を着た自分の姿を、ビルの谷間から仰がれる狭い空に画き、大いに満悦に浸っていたのだから、誠にいじらしい。

 ところが現実は、これはまたみじめだった。「子守ッ子」これが颯爽と故郷を後に出て来た風雲兒(?)の仕事なのである。でんでん太鼓を鳴らし、ネンネンコロリヨでは、哀れひとしおだ。作業衣にあらぬ、かい巻姿の私は、

「お前の背中にはいつも世界地図が書いてあるじゃねえか」

「どうも臭えな。ちょっと離れててくれよ」

 と、笑われ馬鹿にされた。

 こと志と違い、私は失望もし、奉公がたまらなく嫌になった。もう止めだ、と投げ出し、何度行李をまとめにかかったか、数えきれぬ。

『おれは自動車のお守りなら寝なくったってやってやる。赤ん坊はギャーギャー鳴くばかりじゃねえか』

 鼻紙に書いて、誰かの眼にとまるようにと、放っておくがその甲斐もない。

 しかし、その時の私を引きとめていたものは、……父母の困惑し、怒った顔、それもあった。そして自動車の機械の組立て構造を曲りなりにも毎日眺めていられる、その喜びの方が大きかった。

 苦痛な日々を過して半ケ年、私が自らの手で自動車をいじれる日がやって来た。ある大雪の降った日であった。欣喜した。

「おい、小僧。今日は滅法忙しいや、手伝え。そこの作業衣を着て……」

 待ちに待った晴れ衣を着る日である。「オホッ!」と飛上り、雀躍しながら腕を通し、さていかならんと鏡の前に立つ。仲々よい男ぶりである。が、その実、折角の晴れ衣も、兄弟子のお下りのダブダブで、既に油まみれではあったが。……ほれぼれと見惚れる私に、

「何をしてやがんでえ。早く来て手伝え」

 兄弟子達は、苦笑しながら怒鳴る。

 作業衣といえば、面白い話がある。当時の作業衣は、現在の様にきちんとしたものでなく、外国の輪入品の古物をもっぱら使用し、それは丁度映画のフランスの将校服とよく似ていた。それで期せずして滑稽な場面が、よく繰り拡げられる。

 未だ着用したばかりの頃だったと記憶するが、神田の方へ使いにやられた私は、須田町の角で信号を間違え、巡査にいやと言う程叱られたことがあった。

 ところが、そこへ余り私の帰りが遅いものだから、あの田舎者奴、道でも間違ってうろうろしているのではないか、と兄弟子が探しに来たのである。そしてその時のことが、後々までの語り草となった。

「金モールのついた外国の軍人が、お巡りさんを叱ってるのかなと、思ってヨ、近づいてみたら本田じゃねえか。面喰ったね。大体お前もいけねえよ。怒られてるのに、胸を張ってる奴があるかい。」と。

 別に胸を特に張ってたわけではなかった。作業衣のつくりが、そんな風に出来ていたまでである。日本の警官服には、金モールなどついていないから、間違えるのもこれまた当り前だった。

■最初の障壁「学問」

 こうして6年、私は修理工場での奉公を勤めあげた。一通りの構造、修繕を呑みこんだし、その間に自動車の運転も習得した。自由に自動車を駆使し、大都会の石疊を走り回る、私の最初の希望はまずまず達成されたのである。

 22歳の春、私は故郷に戻り、浜松市でささやかな修繕工場を営んだ。工場などと義理にも言えるものでなく、工員も私一人という貧弱極まるものだったが、私の腕にだけは自信があった。

 当時浜松に、他には2、3軒ぐらいしか修理工場がなかったが、考えてみれば修理工場の伸長などタカが知れている。いくら上手だといえ、東京からわざわざ修理に来るわけでなし、いわんや自動車の国アメリカから依頼がくるなど、考えることも出来ぬ。そこで私の考えた事は、こうだった。

『修理は所詮修理にすぎず、経験さえ積めば万事O・Kだ。だがこれに一生を費やすのは、実に他愛がない。人間矢張り生きてる限り、自分の手で何かこしらえる、工夫し考案し、そして役立つものを作るべきだろう。他人様の作ったものを修繕するという、尻馬に乗った商売なんか、犬に食われてしまえ。自らの手で、頭で何か作ってやろう。一歩前進してみようじゃないか』

 せっかちで向う見ずなのが、私の性分である。こう決心したらそれまでだ。工員50名ほどいるところまで伸び切った修理工場をあっさり畳むと、私は直ぐピストン・リングの製造工場に切換えたのである。

 ピストン・リングとは、分り易く説明し難いが、発火室に潤滑油が入らぬようにとめる輪で、エンジンのかなめとも言える部分である。その頃既に理研などでは、大分製造していたが、未だ日本ではそれ程研究が進捗しておらず、民間で製造するものは殆んどなかった。まず最初から、私は難しい仕事を選んでみたのだが、難しいの難しくないのの話ではない。私の考えの如何に甘いか、私は嫌という程、思い知らされたのである。

 それより前、25歳の時だったか、私は自動車のホイル(タイヤをとりつける車輪の中心部)の特許をとった。それまでは木のスポークを使用していたが、我国は乾湿の度合が甚だしく、その精巧度は狂い車輪の力が損なわれがちであった。それを鉄を使用することに変えたのである。その結果非常に好評で、印度あたりへも輸出し、大へんな金もうけになった。

 従って私は資力的には既に恵まれていたのだが、ピストン・リングの製造を開始するや、瞬時にしてその大部分をすってしまった。失敗につぐ失敗、それは結局私に基礎がない為に他ならない。この時程、私は自分がその学校時代、学問を放擲して遊びに耽っていたことを悔いた事はない。

 学問は学問、商売は商売だ、と別物に見なして説く人もあろう。確かにそうとも言えよう。しかし学問が根抵にない商売は投機に過ぎず、真の商売することの味は分らない、と言えるのではないだろうか。私ごときが厚顔な言い分だ。だが、骨身にしみた自らの基礎の薄弱さを悔いる経験が、強く私にそう悟らせたのだ。

 30歳の手習いだった。今更何をと笑われながら、浜松高工の安達校長先生に依頼し、3年間の聴講生を許可して貰ったのである。生活を顧みれば、この時代が最も苦しい時であったろうか。

後編(http://bunshun.jp/articles/-/3671)につづく

(本田 宗一郎)

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