ソニー創業者・盛田昭夫が56年前に書いた「新・サラリーマンのすすめ」

ソニー創業者・盛田昭夫が56年前に書いた「新・サラリーマンのすすめ」

©文藝春秋

 盛田昭夫氏は、終戦直後の1946年に井深大氏とともに東京通信工業株式会社(後のソニー)を設立した。トランジスタラジオやウォークマンの生みの親としても知られている。

 その盛田氏がソニー副社長を務めていた当時、「最近の就職事情」について記していた。

 人事コンサルタント・城繁幸氏の解説付き。

出典:「文藝春秋」1961年12月号

■寄らば大樹の蔭

 就職試験は終った。大ていのところではいま、会社の将来を担うひなどりたちを選び終ってホッとしているところであろう。

 ところが、さいきん、私は、少し考えさせられることを耳にした。証券会社に入社が内定した青年たちが、どんどん入社を断わりにきている、というのである。

 事実とすれば、情ない話だ。株が暴落をつづけ、兜町に冷たい風が吹きはじめたからといって、そのことだけで、一たん身を投じる決心をしたものが翻心するとは、なにごとだろう。最初の決心そのものが、あやふやだったのではないだろうか。

 いまは就職の売手相場である。証券会社に入社を断わりにきた連中は、きっと二股も三股もかけていたにちがいない。連中は売手の権利を行使してサラリーの悪くなりそうな会社を敬遠し、少しよさそうなところに鞍替えしたわけなのだろう。だが、かれらにもし掛け替えがなかったらどうしただろうか。それでもやはり断わりにきただろうか。それなら立派だが、そういうことは考えられない。そのときはかれらは「仕方がないから」最初の予定通り証券会社の社員となったにちがいない。

 私はそう、思うのである。そして、ここにいまの青年たちの、就職に対する考えかたの典型をうかがうような気がするのである。

 就職というものは、結婚と同じくらい、いやそれ以上に人生にとって大切だ、ぐらいは頭のなかでは、だれでもそう思っている。ところがイザとなると、青年たちはわりと軽率に就職先をえらぶ。というより、自分がどういう職業に適しているかという自覚が一般に稀薄なので、入念にえらぼうにも、方法を持たないのである。

 つまるところは、とるにもたらぬような気分的な理由で、きめてしまう。たとえば「寄らば大樹の蔭」というわけで、できるだけ大会社をえらぶのだ。

 そしてその結果は? 怠惰なサラリーマンがまたひとり、ふえるだけのはなしだ。もちろん、はじめのうちは、かれはこの新しい社会で頭角をあらわそうとして、精励恪勤するだろう。しかしもともと「この仕事こそ自分の天職だ」という自覚があったわけではないのだから、いくら働いても社長になれる日が来ないことを知ると、とたんに無気力になる。「無難」という言葉が、それからのかれの金科玉条だ。

■「無難」という名のぬるま湯

 いうまでもなく、こうして、サラリーマンが無難である、無難でしかないということは、本人にとっても、会社にとっても不幸なことである。

 会社はその人を、できたら辞めさせたいと思うだろう。だがそれは思うだけのことで、実際には日本の会社は、本人が刑法にふれる犯罪でも犯さないかぎり、クビにすることにしない。本人の方もぬるま湯の世界から抜け出して、あえて新しい生き甲斐を見つけようとはしない。

 だいたい、日本人は就職先を変えることを極度に恥じるようである。一度就職したらできるだけ、そこで骨を埋めよう、という思想がつよい。昔の「奉公」の観念のなごりなのだろうか。

 それが古くさい考えだ、ということは、実は誰でも気がついていることのはずである。しかし実際はなかなか打破できない。

 結婚に対する考え方は、さいきん、かなり新しくなってきた。性格の合わない者同士がなにも無理して共白髪まで我慢することはないじゃないか、というわけで、離婚がひんぱんのようである。当然のはなしで、その方がお互いの幸福のためでもあるのだ。

 就職だって実は同じことなのである。お互いに選択をあやまった会社と会社員は、それと気がついたら、さっさと別れるべきなのである。あやまちを改むるにはばかることなかれ、だ。

 私の会社では、このあいだ、事務系統の社員募集のため求人広告を出した。そのとき使ったキャッチフレーズは、

「職業をえらぶチャンスが一生に一度というのはもう古い」

 というのだった。それは私の信念でもあるのである。

 私の会社は技術を売物にする会社だから、若い優秀な技術者ならたくさん集ってくる。が、事務系統の人材となると、どうも新卒はきてくれない。そこで、すでにサラリーマンでありながら、「無難さ」にあきたらない人に訴えて、思う存分仕事をしてもらおう、と考えたわけである。

 断わっておくが私とて、できたら、就職は一生に一度の方がいい、とは思っている。初恋から発展した結婚生活が、悔いないものなら、こんなにおめでたい話はないのである。なにもハネムーン最中のあいだを裂くばかりが、私の趣味ではない。

 だが、ここで、アメリカの就職というものをみてみよう。

 前にもいったように、日本人の就職の思想は「奉公」だった。アメリカでは、それが「契約」なのである。

「私はコレコレの仕事をする能力がある」と就職志願者が会社に自分を売り込み、会社がそれを認めたら、そこに契約が成り立つ。契約であるから、もしその人員が違反したら、つまり、「コレコレの仕事」をしなかったら、会社は即座にかれをクビにするのである。その代り、かれが思ったより以上の仕事をした場合、給料でそれに報いることをしなければ、その会社はあぶない。いつなんどき、競争会社が、かれを引き抜いていかないともかぎらないのだ。

 引きぬきは野球選手だけのことと思ったら、大間違い。ビジネスマンの引き抜き合戦こそ熾烈そのものなのだ。

 だから、アメリカでは職場をかえればかえるほど、その人間は有能だ、というふうに見られる。

 私の知っているある男は、A社からB社にスカウトされ、給料がビーンとはね上った。そしてしばらくたったと思ったら、またA社がかれを引き抜いて、さらに給料が上った。日本でいえば、帰り新参である。周囲から白い眼で見られるのが関の山だが、そんな男がアメリカでは「価値ある男」なのである。

 思うに、人間の幸福というものの一つは、「所を得てフルに働く」ということではないだろうか。ここで幸福論をやらかしているヒマはないが、よほど怠け者の人でないかぎり、この説に首肯していただけると思う。そしてアメリカ人はある意味で幸福なのである。日本人は同じ意味で不幸なのである!!

■人間を買うという思想

 さて――。私のところに事務系統の社員がヨソの会社をやめて入ってくるとすれば、その人はすくなくとも、こうした幸福を求めてやってくる人にちがいない。ここまではアメリカと同じである。

 が、もし採用した人が充分な働きをしなかった場合、私はかれをクビにすることができるだろうか。否、残念ながら、組合がそれを許さないだろうし、大体社会情勢がそれを許さない。日本ではそんなことはできっこないのである。

 つまり、理想をいえば、職業の選択は、アメリカ型がいいと私は思う。が、理想はあくまでも理想なのだ。日本の企業のあり方や労働情勢を考えあわせると、とても、ジャズや西部劇を輸入するようには、アメリカの職業思想をそのまま輸入するわけにはいかないのである。

 だいたい思想というものは、輸入したり輸出したりできるものではない。だから、最初から私だって、アメリカの経営者を模範としているわけではない。

 むしろ私は思う。日本の経営者は、それらしく、自分の方法で、人材をフルに活用しなければならない。日本的な条件のなかで社員を「無難なサラリーマン」から「意欲あるビジネスマン」へと、レベル・アップすることに努めなければならない――と。ではそれにはどうすればよいのか。

 話は横道にそれるようだが、さいきんはどこの会社でも、ラインだとかスタフだとかいって、マネージメントの研究をやっている。組織をつくって職務分掌をきめて、そこに新しい能率主義を見出そうとしているようである。これもアメリカが御本家の経営技術なのだが、少しケチをつけると、もともと日本人向きの技術とはいえないのだ。

 というのは、アメリカでは、前に述べたように、会社が人を傭うのは、物を買うのと同じことなのである。物を買うということには、むずかしくいえば、その物の価値が要求されてるという前提がある。人間が買われる?場合も「コレコレの仕事をする」という能力への要求がある。それがつまり、買われる人間のポジションだ。

 となるとアメリカでは、人間よりもポジションが先にある、といってもいいだろう。会社の組織だとか職務分掌だとかいうものが先にあって、人間はあとからはめこまれるのである。野球のポジションのことを思っていただけばいい。セカンドがひとり抜けたから、補充しなければならん、ということと、この仕事をする人間がいないから一人入れよう、ということと、まったく同じことなのである。ラインとかスタフなどはこうしたアタマの国の産物だ。

 ところが、日本では事情はまるきり違う。経営者は、大学を出たての海のものとも山のものともわからない人間を採用するのである。採用したら、さっきの話で、しまったと思ってもやめさせるわけにはいかないし、とんだ拾い物だった、という場合だってあるわけだ。つまり、仕事より人間が先にあるのである。

 こうみてくると、アメリカの雇傭形態はブロック建築にたとえることができるだろう。まず枠があって、経営者はそこにはまる石を探す恰好なのだ。ところが、日本のサラリーマンは、石にたとえれば、大きいのもあり小さいのもあり、とがったのも丸いのもあるといったあんばい。経営者は入社試験をしてできるだけ形のそろった石を揃えようとするのだが、もちろん理想どおりにはいきはしない。だから、日本の経営者がアメリカと同じようにブロック建築を作ろうとしたら、まちがいである。では何を作ればいいか。――石垣をつくればいいのだ。

 石垣というものは、不揃いの石をうまく組み合せて、はじめて丈夫なものが出来上るのだそうである。日本の経営者の使命は、名城を築いた建築家のように、いろいろな形の石をいかに組み合せるか、ということにつきるのではないだろうか。

■あなたの特徴は何か

 具体的にいうと、日本ではいわゆるアメリカ式に、課長は何をする、部長はなにをするという職務分掌を作る必要はないのではないか。この人はなにができるということの認識の方が経営者としては大事ではないか。

 A課長は非常にヒューマン・リレーションは熟達しているけれども、技術的には満足できない。B課長は技術的には申し分ないが、ヒューマン・リレーションはだめだ、ということがあるとする。この違った能力を理解してA課長にはC補佐を、B課長にはD補佐をつける、というのが、石垣造りの初歩のようである。おのおのの特徴をいかに組み合せて、強力な体制をつくるか、これだけが経営者の仕事のすべてだと思う。

 ――日本で、就職という問題を考えつめてくると、以上のような理想図がうかんでくる。

 もちろん、ここに述べたのは人を使う側の理想図だ。だが、使われる側にとっても、事情はまったく変らないはずである。

 冒頭にのべたように、日本のサラリーマンは、出世できないというあきらめを持ったとき、怠惰な、典型的なサラリーマンになる。元来そう出世に執着があるわけではないのだが、出世ということぐらいしか生き甲斐がないとしたら、これも無理のないことだろう。かれはまだ、仕事で自分の能力を出し切ることの快感に童貞なのだ。

 そもそも日本人一般が、自分の能力というものに認識や誇りを持たないのである。あらためていう、不幸な人種である。

 スイスの靴屋は、一人一人が自分は誰にも負けない靴をつくるのだ、という誇りを持っている。学校にいかないことを恥じたりはしない。アメリカのホテルのボーイは誰にも負けないサービスをする自負がある。だからソトでお客とあっても対等で口を利くのである。しかも靴をつくる能力とサービスをする能力はそれぞれに尊いもので、どちらがより尊いというものでもない。ビジネスの能力もまたしかり、なのである。

 私は思う。日本でもそういうことになってはじめて、前述した石垣というものも、可能になるのではないだろうか。

 学校を出た、求人が沢山きているからどこに入ってもいいのだが、ここなら会社も大きいしサラリーがよさそうだから、ここに決めよう、というのでは困るのである。

 自分はコレコレのことができるし、この会社ならさせてくれそうだから、でなくては困るのである。

 入社試験の面接で、私がいつも志願者にきくことは、こうだ。

「あなたの特徴はなんですか」

 あんまり単刀直入なので、相手は大てい目を白黒させている。たしかにむずかしい質問かもしれない。けれども、私としては、この質問に即答できるような、自分の能力に対する認識を、若い人たちに持ってもらいたいのである。

 しかし、私は悲観はしていない。おいおいかれらは、日本のビジネスマンは、自分の能力をフルに発揮することの快感となじみになるようになるだろう。自分という石はどういう大きさのごく平形の石で、だから石垣のどこにはめこまれたら理想的であるかを認識するようになるだろう。近代企業のあり方が、いやがおうでも、それを要請するだろうからである。

 これからの企業は個人の特性をこそ、評価する。個人の方も、人間の値打ちはその能力にあるということを自覚しなければならない。

 そうなった暁には、「無難なサラリーマン」という日本的なイメージは、無意味なものになるだろう。サラリーマン小説や映画などははやらなくなるにちがいない。健全な社会がはじまるのである。

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■《解説》「改革やチャレンジの妨げになってきた『石垣』」

城繁幸(人事コンサルタント)

 ソニー創業者の一人である盛田氏が56年前に書き上げた本コラムだが、いくつかの点で非常に先見性に富んだ内容となっている。

 まず、なんといっても60年代の時点で当時の若者の安定志向を痛烈に批判している点だ。「若者の内向き志向」が取りざたされることの多い昨今だが、今の70代も同じ批判をされていたのだから現在の若者もあまり気にする必要はないだろう。

 また、年功序列、終身雇用を柱とする日本型雇用が、一定期間が経てばただ組織にしがみつくだけの人材を大量に生み出す副作用があると断じている点も鋭い。現在の日本企業における重要な人事上の課題の一つは、バブル期に大量採用した50歳前後の社員の士気をいかに高めるか、であると言っていい。とっくに出世競争も終わり、日々ルーチンワークに精を出す(というかそれ以外やろうとしない)彼らの問題を、盛田氏は半世紀以上昔に予言していたことになる。

 日米の人事の違いに関する洞察も的を射ている。氏の言うように、米国は流動的な労働市場から、職務を基準にブロックを積み上げるように人を採用し、組織を組み立てる。それに対して、日本は様々な特徴を持つ人材を石垣のようにくみ上げるべし、との氏の指摘は事実、その後の日本型雇用の一つの指針となり、高度成長期に確立したと言っていい。

 だが、あまりにも上手く組みあがりすぎてしまった石垣は、それ自体、変革やチャレンジの妨げともなる。経営不振の末、3年前にソニーは脱年功序列の人事制度改革に舵を切り、管理職ポストの大幅な見直しに踏み切ったが、それは石垣を崩し米国流のスタイルを取り入れることに他ならない。

 氏の予言した「自分の仕事に誇りを持ち、100%の能力を発揮することに喜びを見出す新サラリーマン」なるものは、少なくとも筆者の知る限り、21世紀の今もマジョリティとしては誕生していないように見える。

(盛田 昭夫)

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