半沢直樹と池上彰さんも向きあった「左遷」の日本的メカニズム

半沢直樹と池上彰さんも向きあった「左遷」の日本的メカニズム

半沢直樹と池上彰さんも向きあった「左遷」の日本的メカニズムの画像

■「左遷論 組織の論理、個人の心理」(楠木新著、中公新書)

月刊誌「文藝春秋」に「霞ヶ関コンフィデンシャル」という連載がある(一部の霞ヶ関の同業者はこれを「カスコン」と愛称している)。内容は、官庁の幹部人事の観測記事であり、少なくとも私が入省したころには連載が始まっていたことから、20年来の「ロングセラー」と言っても過言ではないだろう。

「カスコン」は、栄達を歩んでいた官僚の転落のストーリーになると特に筆が冴える。例えば、「10年先まで安泰と言われた●●省の人事が風雲急だ。ここにきて××局長と官邸○○氏との間に不協和音が生じ、これまで傍流だった△△局長が次の次官レースに急浮上しているのだ」式の「ここだけの話」を聞かされると、我々末端の職員は、華やかなショーの舞台裏をのぞき見るような気持にとらわれるのである。

「左遷」を生む日本型雇用システム

本書では、この最悪とも言えるケース、すなわち「左遷」のメカニズムを日本型雇用システムの分析を通じ、検討している。

そもそも、何をもって左遷というか、考えてみると案外に難しい。(本書でも言及があるとおり)辞書をひも解いてみると、relegation、demotion(降格、格下げ)などの訳語が充てられているが、これが適当でないのは、左遷の例でよく挙げられる森鴎外の小倉転任(一等軍医正から軍医監への昇任を伴う異動)のことを想起すれば明らかであろう。件の「カスコン」でも大臣との不和が原因で降格までされた局長の話というのは寡聞にして聞いたことがない。むしろ、本書の言うとおり「収入も職能資格も変わらないのに、重要度の低い組織や官職に異動になることも含まれている、というかそのニュアンスが強い」とする方が多くの者のイメージに近いのではないか。

著者は、こうした降格なき冷遇が生まれる背景として、新卒一括採用・同期一斉昇進を基本とする終身雇用システムを挙げる。同期が一斉に昇進する以上、そこに職位による差別は付けられないので、同じ職位でも(同じ「課長」「室長」でも)、いわゆる「花形」ポストに配属されるかどうかで人事上の評価が明らかになるのである。

この問題は、ポストの花形性が必ずしも明らかでない場合に複雑化する。この説得的な事例として、著者はドラマ「半沢直樹」を紹介する。八面六臂の活躍で銀行の危機を救った半沢が昇進にならず、子会社の証券会社の営業企画部長職に出向になり、多くの視聴者が釈然としない思いにとらわれたことは記憶に新しい。しかし、出向といっても必ずしも「島流し」のケースだけでなく、再建企業の支援に送り込まれる場合や新規プロジェクトの立ち上げのために本社肝いりで送り込まれる場合などがあることは、本コラムの読者諸賢ご承知の通りである。極端な抜擢人事を控えることにより、同期や近い年次の社員のやっかみを防ぎ、かつ本人のキャリアアップを図る意図があると考えれば、半沢の処遇を左遷とするのは必ずしも当たらないと著者は論じる。

若いうちはまだいいが・・・

それでも若いうちは、まだいいのかもしれない。人事上の配慮や本人の過信である場合もあるし(なお、本書はこうした場合についても興味深い分析を加えているが紙幅の関係上ここでは言及しない)、何よりもたいていの場合は再チャレンジが効く。しかし、全員がトップになれないピラミッド型組織では、誰もがいつかは、本当に「左遷」される時を迎える。本書では、そうした時の振る舞いについても筆が及び、ジャーナリストの池上彰さんの例を挙げる。

池上さんは、本来報道畑を希望していたが、あるとき報道局長から「週刊子どもニュース」のキャスターへの異動を告げられる。池上さんは、解説委員への異動希望を出しており、当初はこの人事を望んでいなかったとのことである。しかし、このことが「難しくなりがちな社会の出来事をわかりやすく噛み砕いて伝える」専門家として大活躍するきっかけを作ることになるのだから、世の中分からない。本意ならざる処遇を強いられる宮仕えの身としては、肝に刻んでおきたいエピソードである。

筆者は梅の名所で知られる公園の近傍に長く住んでいる。左遷の地で匂い起こせよ梅の花と歌った主も、悲嘆にくれることなく、大宰府の生活を送っていたらどうなっていたのか、そんな感傷が残る読後感だった。

≪経済官庁(課長補佐級) 観音堂≫