ジムニー、アルト、ワゴンRを大ヒットさせた"嗅覚"。退任するスズキ・鈴木修会長(91歳)の「カンピューター伝説」

6月25日の株主総会をもって退任する鈴木 修会長。1930年生まれ、岐阜県出身。銀行勤務を経て鈴木自動車工業(現スズキ)に入社、1978年の社長就任以来、40年以上にわたって同社の経営を指揮。その間で売上高は10倍以上に!

自動車メーカーのスズキを40年以上にわたって牽引した日本屈指の経営者が、6月25日をもって第一線から退くことになった。

今や国内販売の4割を占める庶民の足、軽自動車の魅力を最大限まで引き上げ、持ち前の「剛腕さ」と「しなやかさ」で大メーカーに屈せずスズキを一大企業に育てた、"健全なる独裁制"の裏側に迫る!

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あのカリスマ経営者がついに退く! スズキを40年以上率いてきた鈴木 修会長が6月25日の株主総会をもって会長を退任、それ以降は相談役となる。御年91歳、国際的な大企業を、この年齢まで率いた例は世界的にも珍しい。

そんな希代の経営者について、自動車産業に詳しいジャーナリストの井上久男氏は次のように説明する。

「あの年齢でスーツをピシッと着て、記者の質問にも的確に答えるやりとりは見事なものです。どこか、仕事をしながら"お迎え"が来るのを待っているようにさえ見えましたが、自動車業界が大きく変化していくなかで、息子さん(2015年からスズキの社長を務める鈴木俊宏氏)のチームをつくって任せたほうがいいと判断したのでしょう」

修会長も自らの退任について「独裁制の後は合議制が来るもの」と、自身がある意味で独裁的なトップダウン型であることは認めていた。

「同族経営でも非難されなかったのは、業績が伴っていたからでしょう」(井上氏)

修会長自身は創業家の婿養子で、後継の俊宏社長は修会長の実の長男である。

「創業家といっても株式を大量に持っているわけではなく、ソフトバンクの孫 正義さんみたいなオーナー経営者とは違います。トヨタにおける豊田家に似ていて、スズキという会社における一種の象徴であり、求心力なんです」(井上氏)

修氏が社長に就任した1978年当時のスズキの連結売上高は年間3232億円だった。一方、昨年3月期のそれは3兆4884億円だから、修氏は売上高を10倍以上(!)に引き上げたわけで、この偉業には誰も文句を言えまい。

「修さんは特攻隊員として敗戦を迎えました。戦後に金融機関に勤めていたところを、鈴木家に見初められて婿入りします。ああいう時代の修羅場をくぐり抜けてきた人は、やっぱり勘も鋭い。修さんの経営は理論的なマーケティングというより、"勘"とか"嗅覚"としか思えない部分が大きいです」(井上氏)

実際、スズキがこれまで歩んできた歴史を見ても、修氏の即断即決「カン(勘)ピューター」が炸裂(さくれつ)したエピソードが多い。ちなみにカンピューターとは修氏が好んで使ってきた定番のオヤジギャグである。というわけで、ここでは、そんな「修会長伝説」の一部をご紹介したい。

【伝説1】ジムニーを造ったのではなく、手に入れる!

1960年代まで軽を製造販売していたホープ自動車の最後の製品「ホープON」。その製造権を譲り受けて商品化したのが初代ジムニー

世界にも例のない小型オフロード車のジムニーはスズキの象徴だが、スズキがゼロから考案した商品ではない。もとは1960年代まで軽自動車を製造販売していたホープ自動車、最後の製品「ホープスターON型」である。

当時の修氏は二輪販売のUSスズキの運営で失敗して帰国、いわば島流し気味に東京駐在となっていた。対するホープは自前のエンジンを持たず、三菱から供給してもらうべく交渉したが拒否されて量産できずにいた。

ひょんなことからホープ社長と知り合った修氏は、一存でエンジン供給を約束。その後も本社に詳しい経緯を説明しないまま、部品扱いでホープに数十基のエンジンを販売したという。

当時のホープONの価格は67万円。スズキ・キャリイが29万円の時代だ。競争が激化して自動車事業がホープの重荷になっている(遊園地向けの遊具開発に軸足を移していた)と敏感に勘づいた修氏は「ウチなら30万円で造れる」と製造権を譲り受ける。その設計をもとに完成したのが、1970年発売の初代ジムニーだった。

修氏は生粋(きっすい)の商売人である。自著『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社)で「当時の私には、2輪駆動と4輪駆動の区別もつかなかった」と告白するが、ホープONがトコトコと富士山8合目まで登りきる姿を見て、カンピューターが反応したのだろう。初代ジムニーは発売直後から好調に売れて、わずか3ヵ月で製造権買収金額を回収。USスズキの赤字もすぐに取り戻せたんだとか。

■あると便利なクルマ、それがアルト

スズキV字回復の立役者。社長に就任して間もない修氏が陣頭指揮を執り、商用車登録のバンとして販売され大ヒットした初代アルト

【伝説2】発売延期して再開発したアルトが大ヒット!

1977年に2代目社長(修氏の義父)が亡くなり、続いて3代目社長(叔父)も病に倒れて、当時48歳の修氏はいや応なく4代目社長に就任した。当時のスズキは新型4ストロークエンジン開発に出遅れて販売は低迷。また、日本中が豊かになったことで小型車人気が高まり「軽ばなれ」もささやかれていた。

そんななか、「アルト、47万円!」と叫ぶテレビCMは世間に衝撃を与えた。当時は全国統一価格もまだ珍しく、全国ネットのCMで価格をうたうことだけでも画期的だったのに、軽乗用車の相場が60万円という時代に47万円。

当初は月販3500台ほどと考えていたというが、ふたを開けてみれば月販1万台! 傾いていたスズキの経営はV字回復を果たした。

修氏の社長就任時にはアルトはすでに別の形での開発が進んでいたが、新社長のカンピューターはそこに反応しない。そんな折、自社従業員の多くが軽トラで通勤していることに気づく。

理由を問うと「兼業農家なので荷物を積む必要がある」とか「商用車は物品税(当時)がかからず安いから」といった答えが返ってきて、ここでカンピューターが反応! アルトを商用車登録のバンとすることを思いつき、さらに徹底した軽量化とコストダウンを盛り込んで再開発させたのだ。

アルトという車名はイタリア語で「秀でた」という意味もあったのだが、発表会見で修氏は「あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ、それがアルト」とアドリブでオヤジギャグをかまして、それもアルトの大ヒットにひと役買ったとか買わなかったとか......。

【伝説3】世界最大の自動車メーカー、GMとの資本提携

今でこそスイフトなどの国際的に評価されるコンパクトカーも造るスズキだが、修氏が社長に就任した1970年代までは二輪と軽だけのメーカーだった。

ところが、80年代初頭になるとガソリンが高騰して、大型車天国だったアメリカでも急激に小型車の需要が高まった。スズキも輸出できる小型車の開発を決意するが、そこで修氏は独力で打って出るような無謀な冒険をしない。

1981年、いすゞの仲介もあって当時、世界最大の自動車グループだったゼネラルモーターズ(GM)と資本も含めた提携を結んで「カルタス」をアメリカで売ることになる。

その記者会見で「GMにのみ込まれるのでは?」との質問に「GMとスズキの差は鯨とメダカどころではない。あえて言うなら鯨と蚊。小さな蚊なら、いざというときには空高く舞い上がり、飛んでいくことができます」と修氏が答えたくだりは話題になった。

この提携は25年以上にわたったが、その間に独オペル(=当時の欧州GM)と共同開発も経験した。修氏も「スズキがまともな小型車が造れるようになったのはGMさんのおかげ」と語る。

■どんな小さな市場でも1番であるべし

2007年、インド・ニューデリーで記者発表を行なう修会長。スズキはほかのメーカーに先駆けてインドに進出した。そのシェアは今も約50%を誇る

【伝説4】世界に先駆けてインド進出。シェアは5割!

日本の自動車メーカーでは生産台数・売上高とも4位という規模を持つスズキを支えている市場が、日本とインド(というか、規模的にはすでにインドのほうが大きい)なのは知る人ぞ知る事実だ。

スズキのインド進出は1982年。スズキの四輪車が初めて海外進出したのは75年のパキスタンであり、インド政府との合弁でインドに工場を建設したのは、GMとの提携とほぼ同時進行だった。

パキスタンやインドは、スズキが進出するまで自動車産業においてはある意味で未開の地だった。しかし、そこにあえて乗り込んだ背景には、修氏の「どんな小さな市場でも1番であるべし。2番でもダメで、3番以下は論外」との信念がある。

その背景にあるのは二輪での「HY戦争」の苦い思い出だ。HY戦争とは1979〜83年に勃発したホンダとヤマハによる熾烈(しれつ)な販売競争だが、3番手だったスズキもその不毛な消耗戦に巻き込まれて、大量の不良在庫を抱えた。

このときに修氏は「1番じゃないと、やられるだけだ」と悟ったという。そういえばスズキの欧州拠点のハンガリーも東欧の旧共産国家であり、90年の進出決定時には、まだ乗用車工場がない国だった。ここでも1番乗りである。

話を戻してインドである。かねて国民車構想を計画していたインドの調査団が、提携先を探して来日した。スズキもすでに立候補はしていたが、修氏も本音ではあまり期待していなかったという。

しかし、自慢のカンピューターが反応したのか、修氏はふと「30分だけでも話しておこう」と思い立ち、GMとの話し合いのための訪米直前に調査団と直接対面した。後に、インドが最終的にスズキを選んだ理由が「トップが直々に話を真剣に聞いてくれたのはスズキだけだった」ことが判明する。

インドには今や世界中のメーカーが参入しているが、将来的には中国に次ぐ巨大市場になるはずのインドで、スズキはいまだに50%以上の圧倒的シェアを持つ。

■オヤジギャグから「ワゴンR」誕生!?

当初は「ジップ」という車名が内定していたが、修氏のカンピューターは反応せず、最終的に「ワゴンR」が選ばれた。写真は初代

【伝説5】セダンもあるし、ワゴンもあーる

アルトに続いて、その後の軽の姿形をすっかり変えてしまったスズキの軽といえば、1993年発売のワゴンRだ。「ミニバンブーム到来」に確信を得たスズキの開発部門が、最初に商品化を検討したのは87年。

ただし、当時はバブル景気真っただ中で、若者はとにかく背の低いクーペに憧れていた。修氏のカンピューターも反応せずに商品化は見送られた。

そうこうしているうちにバブルが崩壊して、日本の景気も一気に冷え込んでいく。開発部門は87年以降もデザインや設計をブラッシュアップし続けていて、そこに修氏の「もっとシンプルに安く」という号令が加わって、初代ワゴンRが完成したそうだ。

ワゴンRという車名の名づけ親はずばり修氏で、前出の『俺は、中小企業のおやじ』にもその顛末(てんまつ)が記載されている。すでに「ジップ」という車名が内定していたが、カンピューターはいまひとつ反応しない。「ああいうクルマは世間でなんと呼ばれるんだ?」との修氏の問いに社員は「ワゴンです」と答えた。それではと「ワゴンONE」、「ワゴンL」、「ワゴンS」といった候補が出るなかで、最終的に残ったのがワゴンRだった。

それを選んだ理由を修氏は著書で「スズキにもセダンがある、セダンもあるけど、ワゴンもあーる、だからワゴンあーる(R)」と振り返っている。またまたオヤジギャグなのだが、ワゴンRという名前も、このクルマが男性が乗っても恥ずかしくない軽になれた理由のひとつだろう。ワゴンR登場前の軽は「女性が乗るもの」という固定的なイメージが強かったのは否定できない。

【伝説6】GMからVW、ついにトヨタと資本提携

2008年のGMとの提携解消からわずか1年後の早業で、スズキは2009年に欧州の巨人、フォルクスワーゲングループ(VW)と包括提携を結ぶ。

中国を得意とするVWとインドで強いスズキのコンビは、世界的にも「完璧な相互補完関係」と評価され、当初は対等のはずだったのに、VWは提携後に出資比率の引き上げによる敵対買収の動きを見せる。そこで修氏は即座に提携解消を決断するも、数年にわたる法廷争いが続く。

一説にはVWとの提携をもって修氏は俊宏社長に全権を委譲するつもりだったらしいが、その思いは叶(かな)わなかったわけだ。15年にはVWとの裁判を決着させ、スズキを"身ぎれい"にした修氏は、続いて16年にトヨタとの資本提携に動く。

「これは歴史ドラマみたいな話で、最後の最後は(豊田)章男社長と修さんによる、創業家同士のウルトラCみたいな形で提携が決まりました。修会長が辞めるだけじゃなく、自身を支えてきた役員の大半も辞めたり異動したりして、代わりにトヨタ出身の石井直己氏が専務・社長補佐兼経営企画室長に就任します。"これからはトヨタとやっていけ"と、俊宏社長がやりやすい環境をつくったともいえるでしょう」(前出・井上氏)

これまでも何度か一線を退くと思わせて、VWとの訴訟や燃費不正問題など、スズキに危機が訪れるたびに前線復帰を繰り返してきた修氏だが、今回の退任はさすがに本気っぽい。というわけで、最後に若輩者から敬意を込めて「修会長、お疲れさまでした!」と申し上げたい。

取材・文/佐野弘宗 取材協力/川喜田 研 写真/共同通信社 時事通信社

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