硬派な経済書ながら発売4ヵ月で8刷! 昨今のインフレの本質をとらえた好著

「われわれが長年苦しんでいるデフレの究極的な原因は『人々の気分』。政府や日銀がどれだけ手を打とうと、気分が変わらなければ変化は起きません」と語る渡辺 努氏

最近、食料品や公共料金の価格アップが続いている。なぜ今、物価が上がり始めたのか? 

物価上昇のメカニズムを正面から解説する本が『物価とは何か』(講談社選書メチエ)だ。本書は教養書レーベルから出た硬派な本ながら、今年1月の発売からわずか4ヵ月で7回の増刷を重ね、異例のハイペースで売れている。

著者の渡辺努氏は東京大学大学院経済学研究科教授で、世界に知られた研究者。そんな渡辺氏がベストセラーを生んだ秘密に迫った。

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――たとえ話や具体的なエピソードを通じて、物価という抽象的なものを身近に感じさせてくれるという点で、本書は既存の経済書と異なる異色の本だと思います。冒頭から、私たちの経済活動を夏の夕暮れによく見かける「蚊柱(かばしら)」にたとえたくだりには驚かされました。

渡辺 1匹1匹の蚊は自由に飛んでいますが、それぞれの動きが影響し合い、蚊柱というまとまりになってふらふらと動く姿が見られますね。それはあたかも、人々が働いたり買い物をしたりすることで生まれるお金の動きが関係し合って、モノやサービスの値段が動くのに似ているなと。

――自分が持っている一般的な常識や直観が、具体的なエピソードによってたびたび裏切られるのも快い体験でした。

渡辺 トマトケチャップというごくありきたりな商品が、最も価格の高い四国地方では、最も安い東海地方の倍以上の価格で売られているとか。あるいは1980年代~90年代のスーダンでは常時、年率20~100%強のインフレが起こっていたが、賃金もほぼ同じくらい上がっていたため生活は案外やっていけたとか。

抽象的な話ばかり書いてもしようがないので、興味深いエピソードは極力盛り込むように気をつけました。物価というとつまらないもののように思えますが、常識に反する出来事は今もなお起きているんです。

一方で、学問的に必要なディテールは大胆に省き、私が研究で感じている興奮と感動がじかに伝わる書き方にしました。なので、最先端の経済理論を下敷きにしてはいるのですが、数式はほとんど登場しません。そのため、中学生から感想をいただいたこともあります。

――確かに、教科書的な淡々とした解説とは真逆の内容ですよね。

渡辺 ええ。執筆を始める際に、学者が単に一般向けにレベルを下げて書いた本にはしないようにと、編集者に厳しく言われましたから。なので、経済学界というムラ社会の中から、外にいる一般の人に向かって語るような書き方はやめました。

経済の主役である演者は皆さんであって、私たち学者はあくまで聴衆にすぎません。読者にしてみれば、自分たちの生活について、聴衆から教えを垂れられても聞く気にならないですよね。

ですので、あくまでも皆さんと同じ場所で生活しながら、同時にそれを見ている聴衆であり評論家として知り得たことを語りかけるように心がけました。

――本書の中で最も驚いた記述は、われわれが長年苦しんでいるデフレ、つまり給料が上がらず物価も上がらない世界を直すのは、人々の気分次第だと言い切っていることです。

渡辺 物価も給料も上がらないことを、私は"慢性デフレ"と呼んでいます。これを打破すべく、日本銀行が大規模金融緩和を行なっているという報道を目にされたことがあるでしょう。

しかし金融緩和は、実は金利を何%下げたという数字が大事なのではなく、お金が借りやすくなる、商売がしやすくなるというふうに人々の気持ちをどれだけ変えたかが重要なのです。いくら政府や日銀が手を打とうと、人々の気分が変わらなければ変化は起きませんから。

日本では、消費者は賃金が上がらないと思い込み1円でも安い商品を好むし、値上げは絶対に許さないと目をつり上げます。企業は企業で、値上げをすれば消費者が逃げると思い込み、原価アップを販売価格に転嫁できないので賃金を上げることができません。どちらも思い込みから取った行動が、さらにお互いをガチガチに縛り上げているわけです。

――企業の行動については、ステルス値上げを行なうメーカーの苦悩と悲哀についての記述がありました。深夜まで技術陣が集まり、味や満足度に差し障りのない減量法を延々模索する姿を「異様な光景」だと評されていましたね。

渡辺 誰も喜ばせることのない労働ですからね。ムダな努力だと思いながらも取り組まざるをえない技術者たちが、純粋にかわいそうだと思いました。こんなつらいことをなくしていくためにも、ぜひとも慢性デフレを直さなければいけないと思っています。

――とすると、どうすれば慢性デフレを直すことができるのか、という疑問が出てきます。大規模な金融緩和をいくらやっても、物価は動きませんでした。ほかにも少子高齢化や国際競争力の低下など、いろんな原因がありますが。

渡辺 長年続いている大問題ですから、正直なところ、経済学者だけが考えてうまくいくものでもないと思っていますし、まずは日本政府と日本銀行という、責任を負って政策を行なっている人が知恵を絞るべきです。

ただ、先ほども申し上げましたが、経済の主役は皆さんです。ですから、ここをこうしてくれれば俺の賃金が上がるからやってくれ、などと生活の中から湧き出る意見を、SNSでもなんでもいいので発信していただきたいのです。

もちろん私も研究者として一生懸命考えますが、聴衆の評論よりも主役の直観のほうが優れていることは多々ありますから。

私がこの本を書いたのは、読者が前向きに自分の生活を振り返りながら、ただぼやくのではなく考えていただくための材料を提供したかったからです。

――経済の主役として、日本の経済問題を上手に考えるための参考書だと。

渡辺 最近はこういう話をする機会が多く、まるで社会運動家みたいだと自分でも思うことがあります。ほかの問題は別個に取り組むとして、まずは皆さんに気の持ちようを変えてもらいたいと願っています。

物価と賃金が共に上昇していくメカニズムを取り戻すことで、日本の問題の何割かは解決できます。そのことを知ってもらいたいですね。

●渡辺 努(わたなべ・つとむ)
1959年生まれ。82年に東京大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行。92年にハーバード大学経済学博士。一橋大学経済研究所教授などを経て、東京大学大学院教授。株式会社ナウキャスト創業者・技術顧問。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。 専攻はマクロ経済学。著書に『新しい物価理論 物価水準の財政理論と金融政策の役割』(共著、岩波書店)、『慢性デフレ 真因の解明』(編著、日本経済新聞出版社)、『入門オルタナティブデータ』(編著、日本評論社)など

■『物価とは何か』
講談社選書メチエ 2145円(税込)
物価は安定しているのが理想だ。なのに現実ではなぜ変動するのか? その答えは、考えてみると案外難しい。本書は「人々のインフレ予想にバラつきがあるから」と答えるのだが、さらにその問いを掘り下げ、人々はどのようにインフレを予想するのか、なぜインフレを予想するのかにまで考察を広げる。物価の謎を平易な言葉で、だけれども深く読み解く画期的なマクロ経済の入門書。手に取れば、昨今のインフレがより立体的に理解できるはずだ

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取材・文/日野秀規 撮影/榊 智朗

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