トヨタ「MR2」(初代) 国内初の量産ミッドシップは手ごろな「僕らのスーパーカー」

トヨタの初代MR2は国内初の量産ミッドシップ 「WRC」参戦の計画も夢と終わる

記事まとめ

  • トヨタ「MR2」は日本初の量産ミッドシップカーであることを強くアピールしていた
  • MR2を4WD化されたモンスターマシン「222D」でWRCに参戦する計画もあった
  • 事故死をきっかけにグループBの廃止決定により、MR2のWRC参戦は夢と終わった

トヨタ「MR2」(初代) 国内初の量産ミッドシップは手ごろな「僕らのスーパーカー」

トヨタ「MR2」(初代) 国内初の量産ミッドシップは手ごろな「僕らのスーパーカー」

1984年6月8日に発売されたトヨタ「MR2」(画像:トヨタ)。

その名が示すとおり、ミッドシップで2シーター、しかも手ごろな価格を実現した「MR2」は、日本のクルマ史を語るうえで外せない1台でしょう。

名前に「-(ハイフン)」はいらない 国産ミッドシップの先駆け

 まだスーパーカーブームの余韻が残る1983(昭和58)年の東京モーターショー。トヨタが参考出品した「SV-3」というスポーツカーに多くの若者が釘付けになりました。ミッドシップレイアウト、2シーターのキャビン、リトラクタブルヘッドライト、低いノーズによるシャープなスタイリングなど、まるでスーパーカーのような特徴を持っていたからです。

 さらに驚くべきは、そのコンセプトカーが翌年となる1984(昭和59)年6月、ほぼそのままの形で発売されたこと。それがトヨタ「MR2」でした。その名は、「Midship Runabout 2seater」の略であり、日本初の量産ミッドシップカーであることを強くアピールしていました。

 トヨタが「MR2」で目指したのは、本格的な走りが楽しめながらも現実的な価格のスポーツカーであること。この欲張りな理想が実現可能であることを示したクルマがありました。1972(昭和47)年に発表されたフィアット「X1/9」です。

「X1/9」は、古今東西の手頃なスポーツカーがそうであったように、量販車のコンポーネンツを最大限活用して作られていました。最も特徴的なのは、FF車のパワートレインをそのまま後方に配置することで、安価なミッドシップカーに仕立てられていたことです。また北米では、「X1/9」やMG「ミジェット」など欧州の軽量なスポーツカーが人気だったことに加え、オイルショックや小型な日本車の台頭などの理由から、コンパクトなアメリカ車が送り出されるようになっていました。そんな時代背景からGMも、「X1/9」と同じ手法のミッドシップカー「ポンティアック・フィエロ」を1983(昭和58)年に投入。もちろん、「MR2」も同様に、同時期に発売された80系「カローラ/スプリンター」のFFモデルのものを流用しています。

幻の4WD仕様モンスターマシン「222D」!

「MR2」のパワーユニットには、1.5Lと1.6Lの2種類を採用。メインに据えられたのは、当時、新開発であったツインカム16バルブの「4AG」。この1.6Lの直列4気筒DOHCエンジンは、最高出力130ps(グロス値)を発揮するもので、最後のFRレイアウトとなった、「カローラ レビン」と「スプリンター トレノ」に初搭載されたスポーツエンジンでした。決してパワフルではありませんが、940kg(1600G・MT車)と軽量だった「MR2」では、軽快な走りが楽しめたことでしょう。

 このように憧れのミッドシップカーを誰でも手に入れられるようにした「MR2」は、「1984-1985 日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど高い評価を受けました。

 トヨタは、「MR2」を「スポーティ・パーソナルカー」という新ジャンルのモデルとして訴求を図ったこともあり、「レビン」や「トレノ」、「セリカ」などのトヨタのエントリースポーツと異なり、モータースポーツベース車が設定されることはありませんでしたが、実は世界的な脚光を浴びる可能性がありました。それが幻に終わった「WRC(世界ラリー選手権)」参戦計画です。

 当時、トヨタはFRレイアウトを持つ3代目「セリカ」を改造範囲の広いカテゴリーであったグループBに投入。しかしながら、アウディ「クワトロ」の誕生以降、もはや4WDでなければ勝つことが難しくなり、早急に4WD仕様のラリーカーを投入する必要性に迫られていました。

 そこで白羽の矢がたったのが、なんと「MR2」。ライバルにもコンパクトなボディと運動性能に優れたミッドシップレイアウトを採用したマシンが多かったため、当然の判断だったともいえるかもしれません。2L直列4気筒DOHCターボの3S-GTEをミッドに収め、4WD化されたモンスターマシン「222D」へと生まれ変わりました。

「MR2」はなにを残したのか

 大きく張り出したブリスターフェンダーに固定式ヘッドライトのフロントマスクなど外観はかなりワイルド。参戦カテゴリーは、1985(昭和60)年に設定が決定されたグループBより、さらにレギュレーションの自由度が高いグループSを想定していました。

 しかし、1986(昭和61)年にランチア「デルタS4」を駆るヘンリ・トイボネンの事故死をきっかけにグループBの廃止が決定。より過激なマシンで戦われることの予測されたグループSが実現されるはずもなく、「MR2」の「WRC」参戦は夢と終わったのでした。

 堅実なイメージのトヨタが日本のミッドシップスポーツカーの先駆者になったことは、当時としても大きな衝撃だったことでしょう。その誕生の背景には、フィアット「X1/9」が北米で商業的に成功したことも大きいと考えられ、「ポンティアック・フィエロ」も発売当初、販売が絶好調だったことからも、自動車大国アメリカのニーズを上手くくみ取って開発されたものだったようです。実際、初代「MR2」の生産台数の多くが輸出されています。

 トヨタが「MR2」を発売したことが、のちの国産ミッドシップスポーツカー誕生へ大きく影響を与えたことは間違いないでしょう。リトラクタブルヘッドライライト、ミッドシップレイアウト、幻のグループSマシン……口プロレスでも決して、他車に負けることのないエピソードを持つ僕らのスーパーカー。それが「MR2」。多くの人に手頃な価格で、ミッドシップスポーツカーの魅力を教えてくれた偉大な存在だったのです。

【写真】「MR2」のプロトタイプ

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