幻になった「京阪電車の梅田行き」 いまなお残るその痕跡

幻になった「京阪電車の梅田行き」 いまなお残るその痕跡

梅田にも難波にも乗り入れていない京阪電鉄だが、かつては梅田に乗り入れる計画があった(2017年5月、草町義和撮影)。

関西大手私鉄の多くは「キタ(梅田)」か「ミナミ(難波)」の繁華街にターミナルを設けていますが、京阪電鉄はどちらにも乗り入れていません。しかし、かつては梅田への乗り入れ計画があり、その痕跡が意外な場所に残っています。

現在の京阪線から1km以上離れた場所

 大阪市の中心部を一周する、JR西日本の大阪環状線。その桜ノ宮〜京橋間に「京阪電鉄乗越橋」があります。

 しかし、京阪電鉄の線路はここから約1.3kmも離れたところにあります。過去に京阪電鉄が運営していた廃止路線が、ここをくぐっていたという事実もありません。にもかかわらず、なぜJR線の橋りょうが「京阪電鉄」を名乗っているのでしょうか。

 京阪電鉄はかつて、「キタ」こと大阪の梅田に乗り入れようとしていたことがありました。この「京阪電鉄乗越橋」は梅田乗り入れ計画の名残です。

 京阪電鉄は明治末期の1910(明治43)年、大阪市内の天満橋にターミナルを置き、淀川の左岸(南東側)を通って京都に至る路線を完成させます。これが現在の京阪本線です。さらに同社は大阪〜京都間に「ライバル鉄道」が参入しにくいよう、淀川の右岸(北西側)を通る新線(新京阪線)も計画。先に開業した京阪本線の天満橋ターミナルを起点に北上し、淀川の右岸にわたって京都方面に向かうことが考えられました。

 鉄道省(現在の国土交通省)は1919(大正8)年、京阪電鉄に対して新京阪線の営業を許可しましたが、このころ、大阪(梅田)〜京橋〜天王寺間の国鉄城東線(現在の大阪環状線)を高架化する計画も浮上していました。そこで京阪電鉄は、新京阪線のターミナル予定地を天満橋から梅田に変更。ルートの一部は城東線の高架化が完了したあとに残る、地上線の敷地を使うことにしました。

 大阪の繁華街のひとつとして発展していた梅田に乗り入れれば、利用者も増えます。また、城東線の地上線敷地を購入できれば、一般の民家や商店を撤去して線路を建設するよりは安上がりというメリットもありました。

関東の地震が京阪の構想に影響

 まず1922(大正11)年4月までに、新京阪線の上新庄から梅田の少し手前にある葉村町(現在の大阪環状線・大阪〜天満間のほぼ中間)までを結ぶ梅田線と、京阪本線の森小路付近から天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅付近)までを結ぶ城北線、さらに梅田線と城北線が交差する赤川で両線を接続する連絡線の営業が許可されました。

 同年10月には、京阪電鉄が新京阪線を運営する子会社「新京阪鉄道」を設立。京阪電鉄と新京阪鉄道が分担して、それらの路線を建設することになったのです。

 このうち梅田線のルートは、上新庄から南下して桜ノ宮付近で城東線の下をくぐり、地上線敷地につなげるルートで整備することに。そこで城東線の高架化工事では、京阪電鉄をまたぐための橋りょうも建設することされることになりました。

 しかし、梅田乗り入れプロジェクトは順調には進みませんでした。

 1923(大正12)年に関東大震災が発生すると国は財政難に陥り、城東線の高架化プロジェクトが凍結されました。城東線を高架化できなければ、京阪本線や新京阪線が梅田に乗り入れるための土地も確保できません。

 そこで新京阪鉄道は、現在の阪急京都線、阪急千里線の十三〜淡路〜千里山間を運営していた北大阪電気鉄道に目を付けます。同社は現在の阪急千里線・天神橋筋六丁目(天六)〜淡路間の建設を計画していましたが、新京阪鉄道はこの計画を譲り受けたうえで、淡路駅から新京阪線に合流するルートの新線計画を追加。梅田乗り入れのめどがつくまでは天六にターミナルを設け、天六〜淡路〜京都方面のルートで新京阪線を建設することにしたのです。

 1928(昭和3)年に入ると、城東線の高架化プロジェクトが再開。同年8月には梅田線の葉村町から現在の阪急百貨店うめだ本店付近までの区間も営業が許可され、ようやく梅田乗り入れのめどがたちました。11月には天六にターミナルを設けた新京阪線も開業します。

現在は湾岸方面への延伸構想が進行中

 しかし、昭和不況の影響を受けて京阪電鉄は経営難に陥り、新京阪鉄道の経営も芳しくありませんでした。1930(昭和5)年には、経営再建のため京阪電鉄と新京阪鉄道が合併。梅田乗り入れプロジェクトを推進する余裕はなくなっていました。

 また、京阪電鉄は1932(昭和7)年、京阪本線の蒲生駅を城東線の京橋駅近くに移転。城東線に乗り換えしやすくすることで、梅田へのアクセスルートを確保したのです。こうなると、京阪電鉄が自力で梅田に乗り入れる必要性も低くなります。

 いっぽう、城東線の高架化は工事が進み、京阪梅田線をまたぐための橋りょうは1932(昭和7)年に完成しました。京阪線をまたぐ橋ということで「京阪電鉄乗越橋」と名付けられましたが、肝心の京阪電鉄は戦時中の1942(昭和17)年、梅田乗り入れのための営業許可を国に返上。橋の下を京阪電車が通ることはありませんでした。

 こうして京阪電鉄の梅田乗り入れは幻に終わり、新京阪線も戦時中から戦後にかけての統合、分離を経て阪急電鉄の京都線に生まれ変わりました。ただ、1963(昭和38)年に京阪本線の天満橋〜淀屋橋間が延伸開業。2008(平成20)年には中之島線・天満橋〜中之島間も開業し、大阪の中心部への乗り入れを図っています。

 京阪電鉄は中之島線をさらに西へ延伸する構想も持っています。これは大阪湾の人工島「夢洲(ゆめしま)」へのアクセスを見据えたもの。夢洲は大阪万博(2025年開催予定)の会場になることが決まり、さらにはカジノを併設した統合型リゾート(IR)を整備する構想もあります。

 ただ、大阪万博の会場輸送は、大阪メトロ中央線を延伸して対応する方針がほぼ固まっています。京阪中之島線の延伸が実現するかどうかは、IR構想の進展次第ということになるでしょう。

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