東京メトロ赤坂見附駅、乗り換えが便利な構造は「幻の地下鉄」の名残だった

東京メトロ赤坂見附駅、乗り換えが便利な構造は「幻の地下鉄」の名残だった

銀座線の新橋〜渋谷間を運営していた東京高速鉄道の電車。同社は赤坂見附〜新橋間の建設も計画していた(2018年6月、草町義和撮影)。

東京メトロの赤坂見附駅は、銀座線と丸ノ内線が同じホームで乗り換えできる便利な構造。最初は丸ノ内線が乗り入れる計画はなく、別の地下鉄が乗り入れるはずでした。

銀座線の運営会社が新宿乗り入れを計画

 東京メトロの赤坂見附駅(東京都港区)は、渋谷からやってきた銀座線と、新宿からやってきた丸ノ内線が同じホーム上で横並びになり、再び分かれて銀座線は日本橋方面、丸ノ内線は東京駅丸の内方面に向かっていきます。階段を使うことなく乗り換えることができ、地下鉄ネットワークの機能を何倍も高めています。

 この赤坂見附駅ですが、1938(昭和13)年に現在の銀座線の駅として開業したときから、2本の路線の乗り換えに対応した構造でした。しかし、丸ノ内線に相当する路線の建設が決まったのは、銀座線の赤坂見附駅が開業してから数年後のこと。銀座線の駅として開業した時点では、丸ノ内線がここに乗り入れる計画がなかったことになります。もう1本分の路線の乗り入れスペースは、もともと何のために建設したのでしょうか。

 現在の銀座線は、浅草〜新橋間を建設した東京地下鉄道と、新橋〜渋谷間を建設した東京高速鉄道の路線が新橋でつながって作られた路線です。このうち1934(昭和9)年に設立された東京高速鉄道は、渋谷〜東京間と新宿〜築地間に地下鉄を建設する権利を東京市(現在の東京都)から譲り受けました。

 同社はこの権利をもとに、新橋〜渋谷間を結ぶ「渋谷線」と、赤坂見附〜新宿間を結ぶ「新宿線」の建設を計画。渋谷、新宿という私鉄の二大ターミナルと都心をY字状につなぐ構想でした。赤坂見附駅は渋谷線から新宿線が分岐する駅として、2本の地下鉄路線が乗り入れられる構造で計画されたわけです。

 こうして現在の銀座線 新橋〜渋谷間にあたる渋谷線が、1938(昭和13)年から翌1939(昭和14)年にかけて開業しました。しかし、新宿線は工事に着手されることなく、幻に。東京高速鉄道は1941(昭和16)年、東京地下鉄道と統合される形で帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現在の東京メトロ)に生まれ変わります。

「幻の新宿線」スペース活用で建設費を圧縮

 営団地下鉄は丸ノ内線の原型となる新線計画を立案。戦時中の1942(昭和17)年、赤坂見附駅付近の建設工事に着手します。しかし、戦況の悪化により具体的な工事は何も進まないまま中止に追い込まれてしまいました。そのため、新宿線用のホームは空襲から車両を守るための留置線として使われていたそうです。

 こうして戦後、「三度目の正直」として着工されたのが現在の丸ノ内線です。すでに完成していた赤坂見附駅のスペースを使うことができたため建設費用を抑えることができ、工事も迅速に進みました。

 ただし、東京高速鉄道が建設した赤坂見附駅を、そのまま流用したわけではありません。建設当時は後の急激な利用者増加を想定していなかったため、ホーム幅がわずか5mしかありませんでした。このままでは乗り換え客であふれてしまうことから、ホームの幅を最大で15mに広げています。

 拡張の名残はいまでも見られます。赤坂見附駅のホーム四ツ谷寄りに立ってみると、銀座線側に柱が2本あり、少し離れて丸ノ内線側に柱が1本立っていることに気づきます。柱が2本立っている部分が、開業当時にホームとして使われていた空間です。

 ちなみに、表参道駅も銀座線と半蔵門線が同じホームで乗り換えできる構造になっていますが、銀座線の建設時には別の路線が乗り入れることを想定していませんでした。そのため、半蔵門線の建設に際してはホームの移設を伴う大規模な改良工事が行われており、かなりの手間と時間がかかりました。

 一方、建設当初の赤坂見附駅と同じ理由で同じ構造をしているのが、半蔵門線の住吉駅(東京都江東区)です。営業列車はホームの片側にしか発着せず、反対側の線路は留置線として使われています。この留置線は、住吉から南下して有楽町線の豊洲駅に至る新線構想(有楽町線の分岐線)に対応するため、準備されたスペースです。

 近年、江東区主導で住吉〜豊洲間を整備しようという動きが具体化しつつあります。このホームも赤坂見附駅と同様、いつか陽の目を見ることになるのでしょうか。

【図】乗り換えしやすい赤坂見附駅の構造

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