「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」

「潜水空母」伊四百型はなぜ生まれ、何を残した? 旧海軍、乾坤一擲の「秘密兵器」

伊四百型潜水艦は3隻が竣工した。写真は相模湾沖で撮影された伊四百、左奥にアメリカ海軍の駆逐艦「ブルー」(画像:アメリカ海軍)。

旧日本海軍の伊四百型潜水艦は、実際の戦闘を経験しないまま終戦を迎えました。しかし従来の潜水艦とはスペック、役割、ともに一線を画しており、のちの世に与えた影響は計り知れないといいます。

旧日本海軍の秘密兵器、秘密のまま終戦

 太平洋戦争において、日本が無条件降伏を宣言した1945(昭和20)年8月15日から2週間が過ぎた、8月30日の明け方のことでした。太平洋の三陸沖で、アメリカ海軍の潜水艦「セグント」は、水上航行する見慣れない大型の潜水艦を発見し、発光信号を発して停船させます。

「セグント」の乗員はこれに接近して、その巨大さに驚愕します。謎の大型潜水艦の正体は、日本海軍の秘密兵器、「潜水空母」伊四百型の2番艦である「伊四百一」だったのです。当時、アメリカ海軍の潜水艦としては大きいほうである、パラオ級潜水艦「セグント」は全長95m、水上排水量1526トン、水中排水量2424トンでしたが、伊四百型は全長122m、水上排水量5223トン、水中排水量6560トンなので、「セグント」の乗員がその大きさに驚くのも無理はありません。

 軽巡洋艦「球磨」が常備排水量5500トンでしたので、軽巡洋艦なみの大きさのイメージです。1959(昭和34)年11月に、アメリカの原子力潜水艦「トライトン」が就役するまで、伊四百型は世界最大の潜水艦でした。通常型潜水艦では、2012(平成24)年に就役した、中国の潜水艦発射弾道弾実験艦032型(NATOコード名「清」、水中排水量6628トン)まで破られていません。

目指せニューヨーク! 潜水艦の役割を大きく変えた伊四百

 第2次世界大戦当時の潜水艦は、偵察や、敵の艦船を魚雷や大砲で攻撃するのがおもな任務でした。しかし伊四百型が目指したのは、水上攻撃機を搭載しアメリカ東海岸まで進出して、沿岸部や物資を乗せた商船を攻撃する「通商破壊」を行うという、壮大なものでした。

 太平洋戦争の開戦当初、日本海軍は国力の限界から、アメリカ海軍との短期艦隊決戦に勝利し、早期講和に持ち込む戦略でした。しかしアメリカは艦隊決戦を挑もうとはせず、段階的にじわじわと島々や海域を奪回していく作戦を採ります。

 日本は長期戦になるほど不利になります。そこで、アメリカの世論が日本艦隊との早期決戦を要求するよう“あおる”ため、ワシントン、ニューヨークなどアメリカの政治や経済の中枢が集まるアメリカ東海岸を直接攻撃する作戦が立てられます。直接の被害は限定的でも、ニューヨークやワシントン上空に「日の丸」をつけた攻撃機が飛来して爆弾を落とし、また東海岸沿岸の船舶を攻撃すれば、アメリカ世論に大きな影響を与えることが期待できるというわけです。

 この破天荒とも思える計画推進には、山本五十六長官の意向も強く働いていたといわれます。山本長官はアメリカの国力を知り抜いており、短期決戦から早期講和の流れを作りたかったのです。伊四百は従来の潜水艦の任務を超えた、「戦略的任務」を託されていました。

 1942(昭和17)年、6月の「ミッドウエー海戦」敗戦後に策定された、戦備に関する「改マル5計画」において、「潜特型」と呼ばれる大型潜水艦の整備計画が決定されます。これが伊四百型です。計画では、水上攻撃機2機搭載、航続距離3万3000海里(約6万1000km)、連続行動期間4か月という物凄い性能。ちなみに地球1周は約4万kmなので、単純計算で地球を1周半できます。この「潜特型」の潜水艦を18隻建造し、2個潜水戦隊を編成することになっていました。

戦況の悪化で任務も変化

 その後、戦況の悪化によって「潜特型」の建造計画は縮小変更され、1943(昭和18)年12月に建造数は5隻となり、代わりに搭載できる水上攻撃機の数を、2機から3機へ増やすことになります。建造も急がれ、1944(昭和19)年12月30日に伊四百、1945(昭和20)年1月8日に伊四百一の2隻がようやく竣工します。しかし、竣工したからとすぐに戦力化できるわけではありません。

 1945(昭和20)年になると、当初の目的であった短期決戦にアメリカ世論を誘導するという、アメリカ東海岸での作戦はもはや無意味となります。同盟国ドイツが降伏しヨーロッパ戦線の戦火が収まると、大西洋方面のアメリカ艦隊が太平洋戦線に転進してくるのを妨害するため、パナマ運河攻撃も構想されますが、これもアメリカ艦隊の動きに間に合わないと判断されて中止されます。

 それでもこの秘密兵器で一矢でも報いようと、同年7月20日に伊四百と伊四百一は、アメリカ海軍機動部隊の泊地である西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)に向け、青森県の大湊を出撃しました。攻撃予定日は8月17日とされていましたが、その2日前の8月15日に日本は降伏を宣言、両艦は合流にも失敗し、攻撃を断念します。苦労して開発された専用の水上攻撃機「晴嵐」も、実戦でエンジンに火を入れることなく海中投棄し、2隻とも日本へ帰還することになりました。

 そして伊四百は8月29日、アメリカ駆逐艦「ブルー」に、伊四百一は前述のように8月30日、アメリカ潜水艦「セグント」に、それぞれ拿捕されます。

戦後の潜水艦に与えた影響

 これら「潜水空母」にアメリカ海軍は強い関心を示し、1946(昭和21)年1月、伊四百と伊四百一の2隻および、水上攻撃機2機を搭載できる潜水艦「伊十四」をハワイに持ち帰り、徹底的に調査します。しかしソ連(当時)もこの「潜水空母」に関心を持っていることが明らかになると、アメリカ海軍は演習と称して、1946(昭和21)年6月までに、魚雷の標的にして3隻とも沈めてしまいます。そのころすでにアメリカとソ連による、戦後覇権をめぐる冷戦は始まっており、ソ連に情報を渡したくなかったのです。

 伊四百型の影響なのかは明らかではありませんが、それまで飛行機を潜水艦に載せることに関心の無かったアメリカ海軍は、潜水艦に地上を攻撃できる巡航ミサイルを載せる研究を始めます。1953(昭和28)年7月には、潜水艦「タニー」から核巡航ミサイル「レギュラス」を発射するテストに成功しました。これは伊四百の「晴嵐」が核巡航ミサイルに変わっただけ、ともいえるでしょう。ちなみにこの「レギュラス」は、ドイツが開発したV-1飛行爆弾の発展改良型とされています。

 この後、潜水艦に戦略ミサイルを搭載する技術が急速に進歩し、潜水艦は戦略核戦力を担う柱になっていくのですが、アメリカ軍内部の政治的に見ると、それまで空軍の占有物であった核爆弾を海軍も取り扱えるようになり、海軍の発言力が増すきっかけにもなっています。

 伊四百は単に技術面だけでなく、政治的、軍事的にも後世に大きな影響を残した、別の意味での「超弩級」の潜水艦だったといえるかも知れません。

【図】オリジナリティあふれる「伊四百」の断面図

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