発見された戦艦「比叡」の艦歴を振り返る 切手に描かれた御召艦が鉄底海峡に眠るまで

発見された戦艦「比叡」の艦歴を振り返る 切手に描かれた御召艦が鉄底海峡に眠るまで

1926年、佐世保にて主砲の操作訓練中の「比叡」。練習戦艦に改装される前の、比較的初期の姿(画像:アメリカ海軍)。

海底に眠る戦艦「比叡」が発見されました。「金剛」とともに、のちの国産戦艦の礎を築いたのみならず、御召艦を務めたり、切手にも描かれたりと、現役当時、広く知られていた「比叡」。その一部始終を追います。

発見されたのは旧海軍の「アイドル」艦

 海底に眠る戦艦「比叡」が発見されました。

 2019年1月31日(木)、アメリカの実業家だった故ポール・アレン氏設立の調査チームが、南太平洋のソロモン諸島、サボ島沖「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」と呼ばれる海域の、深さ985mの海底に大型の船体を発見。これが太平洋戦争で戦没した旧日本海軍の戦艦「比叡」だと発表しました。ソナー映像では船腹を上にして転覆しており、前方の約70mの部分が失われているようです。

「比叡」が建造されたのは、明治末から大正初期にかけての時代です。

 1906(明治39)年12月に、イギリスが戦艦「ドレッドノート」(いわゆる弩級戦艦)を竣工させると、日本海軍は保有している戦艦の旧式化を認識、国産で弩級戦艦の建造を進めようとします。ところが、そもそも「弩級戦艦」が何なのか、概念をつかみかねていました。そこでイギリス造船メーカーから提案されていた、弩級戦艦とその技術の導入を図ることにします。

 1910(明治43)年11月、イギリスの造船メーカーであるヴィッカースに発注された巡洋戦艦(戦艦より高速、軽装甲、同等火力)「金剛」は、1913(大正2)年11月5日に神奈川県の横須賀へ到着します。主砲に世界初の14インチ砲となる45口径35.6cm連装砲を4基備え、装甲も当時最新の「ヴィッカース鋼鈑」で、垂直装甲が側面部で最大203mm、水平装甲が防御甲板で最大70mm、機関は直結タービン2基で、6万4000馬力、27.5ノット(50.9km/h)を発揮します。スペックは「ドレッドノート」を上回る日本海軍初の「超弩級」艦(「ドレットノートを超える」の意)であり、のちの第1次世界大戦期にはイギリスから貸与を打診されるほど、「走・攻・守」の三拍子揃った高性能艦でした。

「比叡」は「金剛」型の2番艦で、イギリスから「金剛」の設計図を取り寄せ、パーツの多くを輸入しながら横須賀工廠で建造され、1914(大正3)年8月4日に竣工した、いわばノックダウン生産された艦です。この経験が後の国産戦艦に繋がっていくのです。

 その後、1930(昭和5)年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の制約で、砲塔1基、側面の装甲板を撤去し、上限18ノットに合わせてボイラーも減らした練習戦艦となりました。艦内スペースに余裕ができたため、皇族が座乗される御召艦として改装され、昭和天皇の観閲式での観閲艦や台湾への行幸などに使われます。日本を代表する戦艦として、切手や雑誌にも多く取り上げられた「アイドル的存在」でもありました。

「アイドル」から「戦う」艦へ

 1936(昭和11)年12月末のロンドン海軍軍縮条約切れを待って、「比叡」は、1937(昭和12)年4月から広島県の呉工廠にて、「戦艦」として復活する大改装が施されます。ちなみに「金剛」も、1931(昭和6)年の改装で戦艦へと艦種変更されていました。「比叡」の改装は約3年という時間を掛け、1940(昭和15)年1月31日に完了。機関を換装することで、最高速度約30ノット(55.5km/h)を発揮できる「高速戦艦」となったほか、試験的に塔型構造の艦橋を採用するなど、後の「大和」型建造のテストを兼ねていました。

 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日の「真珠湾攻撃」には、その高速性能を生かして、空母機動部隊の護衛として参加しました。足の速い空母機動部隊に随伴できる貴重な戦艦として、以後「ミッドウェー作戦」にも参加するなどしましたが、主砲で敵戦艦と撃ち合う場面も無く、次々と艦載機を発進させる空母の脇で、海戦の主役が戦艦から航空機に移っていく有様を目撃し続けたのでした。

 やがて1942(昭和17)年11月、日本軍はアメリカ軍との、ガダルカナル島をめぐる熾烈な攻防戦を繰り広げていました。戦況は、同島にあるヘンダーソン飛行場から飛来するアメリカ機の攻撃で、日本軍は輸送が妨害され、不利な展開でした。そこで足の速い「比叡」と同型の「霧島」を主力とする艦隊が、夜間にヘンダーソン飛行場へ忍び寄り、砲撃して破壊しようと行動を開始します。11月13日の、月の無い闇夜に始まった「第3次ソロモン海戦」です。

 午前1時30分(現地時間)より始まった、のちに「第一夜戦」と呼ばれる戦闘は、日米双方で足並みが乱れ、統制のとれない出会い頭での戦いでした。飛行場への砲撃は果たせず、敵味方の識別もままならない混戦となり、「比叡」は敵艦を砲撃するため探照灯(サーチライト)を使用しました。闇夜の灯火は当然、目立ちますし、言うまでもなく敵にとっては良い的。そのため敵弾が「比叡」に集中します。命中弾は80発以上を数え、「比叡」は操舵不能に陥り、艦橋を中心に上部構造物へ大きな被害を受けました。

 主砲や機関は無事だったため、退避すべく舵の復旧作業が進められましたが、夜明けと共に開始された空襲によりその主砲や機関にも損傷を受けるなどし、午後になるともはや復旧不能と判断され、総員退艦と注水による自沈が命じられました。

「比叡の最期」に新発見か?

「比叡」が属する第十一戦隊の司令官は、13日の16時に雷撃処分(魚雷による攻撃で沈めること)を命じますが、連合艦隊司令部は雷撃中止命令を出すなど、対応が混乱します。戦隊の戦闘詳報には魚雷が発射されたか否かの記載がありません。こうして総員退去後、夕闇が再び迫り、生き残った艦はヘンダーソン飛行場の砲撃に向かう味方艦隊との同士討ちを避けるため、「比叡」から離れて退避します。これ以降の「比叡」の姿は確認されておらず、沈没時の詳しい状況は分かっていません。「比叡」は太平洋戦争で戦没した、最初の日本戦艦でした。

 注水自沈により静かに沈没したと想像されていましたが、今回、発見された姿は前部70mが失われており、なんらかの爆発があったと見られています。ひょっとしたら雷撃が実施されていたのかも知れません。

「ガダルカナル島」の名前は、太平洋戦争の開戦当初は、日本軍関係者にもほとんど知られていませんでした。しかし、アメリカとオーストラリアの交通線をカバーできる、飛行場が建設可能なほとんど唯一の島であったことから、日本軍とアメリカ軍とのあいだで激戦地に。最初の飛行場(ルンガ飛行場)は日本軍が設営しましたが、アメリカ軍に奪われ、拡幅されて「ヘンダーソン飛行場」と改称されます。「比叡」の砲撃目標はこの飛行場でした。

 ガダルカナル島の北方に存在する海域(海峡)には、「比叡」を始め、日米の艦船、航空機が多く沈んでおり、「海底を鋼鉄の残骸が埋め尽くしているようだ」ということから、「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」と称されるようになりました。現代ではスキューバダイビングの人気スポットにもなっており、日本人も多く訪れています。しかし、多くの人々が眠る墓所であることも忘れないようにしたいものです。

【写真】インド洋をゆく南雲機動部隊、「比叡」の姿も

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