旧海軍「潜水空母」はどんな飛行機を積んだ? 秘密兵器「晴嵐」と米本土空襲の偵察機

旧海軍「潜水空母」はどんな飛行機を積んだ? 秘密兵器「晴嵐」と米本土空襲の偵察機

藤田信雄兵曹長(左)と零式小型水上偵察機(画像:アメリカ海軍)。

航空母艦+潜水艦である、旧日本海軍の「潜水空母」ですが、どのような航空機を搭載していたのでしょうか。「史上唯一のアメリカ本土空襲」を実施したのも、その潜水艦の搭載機でした。

唯一のアメリカ本土爆撃、実行したのは潜水艦搭載機

 旧日本海軍による真珠湾攻撃から半年後の、1942(昭和17)年9月9日早朝(現地時間)のことです。

 午前5時半過ぎ、アメリカ・オレゴン州ブルックキングス市近郊の森の上空を、小型の水上機が飛行していました。前夜の雨でもやがかかり、その姿は地上からは良く見えませんでしたが、機体には、はっきりと日の丸の標章(国籍マーク)が描かれていました。焼夷弾が投下されて森林地帯に火災が発生し、監視員は敵機来襲の報を発しましたが、火災自体は大したことはありませんでした。

 これが「伊二十五」潜水艦から発進した、藤田信雄兵曹長が操縦する零式小型水上偵察機による、初のアメリカ本土空襲でした。森林火災を企図して投下されたのは2発の焼夷弾(計155kg)で、約2年後から始まる、アメリカ軍のB-29による日本本土空襲の苛烈さに比べればゼロに等しいものでしたが、「敵機がアメリカ本土を空襲する」というのは史上初めてのことで、全米に与えた心理的インパクトは無視できないものでした。その後、2019年現在に至るまで、この旧日本海軍の零式小型水上偵察機以外にアメリカ本土を空襲した軍用機はありません。

 現代では奇想天外に見える、「潜水艦への航空機搭載」ですが、その着想は第1次世界大戦中からありました。

そもそもは偵察のための航空機搭載

 潜水艦は海に潜って姿を隠すことができますが、反面、艦橋が低いため偵察できる範囲が狭く、レーダーやソナーが発展途上だった当時は、敵を発見しにくいことが難点でした。そこで潜水艦から小型の水上機を飛ばして、偵察範囲を広げようとしたのです。

 しかし、狭い潜水艦内に格納庫を設け、飛行機も狭い空間に収まるよう、組み立て式にしなければなりません。各国が研究しましたが、技術的困難に比べて成果が少ないという判断から廃れていきます。他方、広大な太平洋を作戦海域にしていた旧日本海軍は、潜水艦に飛行機を載せることにこだわります。

 1933(昭和8)年、旧日本海軍は「巡潜1型」と呼ばれる潜水艦に水上偵察機を1機搭載できる、試験艦「伊五」を完成させます。水上機を海に下ろして発進させるのではなく、カタパルトで射出できるようにして、その運用に天候の影響を受けにくくなったのが特徴でした。「伊五」の試験で実戦化できると判断した旧日本海軍は、巡潜2型、3型、甲型、乙型、伊四百型(潜特型)という「潜水空母」を実戦配備します。前出の伊二十五は乙型です。

 潜特型以外の潜水艦に搭載された航空機は、専用に開発された「零式小型水上偵察機」です。最高速度246km/h、エンジン出力340馬力、60kg爆弾を2発搭載するのがやっとという小型機でしたが、戦争初期には偵察任務で成果を上げていました。最大の武勲が、冒頭で触れた、藤田兵曹長機による史上初のアメリカ本土空襲です。

奇想天外兵器「晴嵐」

 複数の航空機を運用でき「潜水空母」の名にふさわしいのが、伊四百型です。搭載された水上攻撃機「晴嵐」は、零式小型水上偵察機とは比べものにならない高性能機で、敵戦闘機に追尾されるなどの緊急時にはフロート(機体下部の浮舟)を投棄して速度を上げるという、特殊な構造になっていました。エンジン出力1400馬力、最大速度は474km/h(フロート投棄時560km/h)、通常は250s爆弾を搭載しますが、フロートを取り付けなければ最大で800s爆弾か航空魚雷を装備できました。ただしその際、機体は使い捨てになります。

 伊四百型はこの「晴嵐」を3機搭載できました。潜水艦の狭い格納庫内に収まるよう、同機の主翼は90度回転して後方に折り畳め、垂直尾翼と水平尾翼も下向きに畳めます。エンジンはドイツのダイムラー製をベースにしたアツタ32型 水冷V12エンジンが搭載されていたものの、扱いには高い精度が必要で、当時の日本の技術力では稼働率が低いという難点がありました。

 潜水空母の弱点は、飛行機を発進させているタイミングで敵に攻撃されることです。巡潜型から零式小型水上偵察機を発進させるのに、浮上から最短10分といわれています。伊四百の場合、「晴嵐」3機の発進完了まで、訓練開始当初は丸1日かかったといい、これではとても使い物になりません。そこで、水冷式エンジンの特徴を生かし、事前に加熱したエンジンオイルや冷却水を注入して暖機運転時間を節約するなど、潜航中の事前作業を工夫し、また猛訓練を重ね、実戦参加直前には、全機発進を20分以内に完了可能なまでの時間短縮に成功しています。

アメリカの「白星」マークを付けた日本の「晴嵐」

 しかし、本格的な潜水空母である伊四百型の戦力化目途がついた1945(昭和20)年には、日本の敗色は覆い難いものになっていました。設計段階ではアメリカ東海岸まで遠征し、通商破壊作戦を行うことになっていましたが、もうそんな状況ではありません。

 一矢でも報いようと、アメリカ艦艇が集まる西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)を攻撃目標とし、伊四百型の「伊四百」と「伊四百一」が1945(昭和20)年7月23日、青森県の大湊港を出撃。攻撃予定日は8月17日に定められました。

 この時「晴嵐」は銀色に塗装され、アメリカ軍の白星標章(国籍マーク)がつけられていました。戦時国際法違反ですが、警戒厳重なウルシー環礁への奇襲成功率を少しでも上げるための、苦肉の策でした。伊四百と伊四百一の2隻合わせても、「晴嵐」は6機です。無事生還できる可能性は低く、最初からフロートは取り付けず限度一杯の爆弾を搭載する、事実上の特攻です。

 しかし攻撃予定2日前の8月15日、日本は降伏を宣言し、ウルシー環礁攻撃も中止されます。「晴嵐」は、整備員自らの手でフロートに穴を開けられ、翼も折りたたんだまま、カタパルトで海に射出され沈んでいきました。戦時国際法に違反する機体の廃棄を急いだともいわれていますが、「白星」標章は、廃棄直前に日の丸へ塗り直したとの証言もあります。

 ちなみに1942(昭和17)年9月に、「日の丸」を付けた零式小型水上偵察機でアメリカ本土を空襲した藤田中尉(終戦による特進)は、戦後1962(昭和37)年に「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として、焼夷弾を落としたオレゴン州のブルッキングス市から招待され、市民から大歓迎を受けています。1997(平成9)年にはブルッキングス市の名誉市民称号を贈られますが、その年に85歳で亡くなりました。

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