旧陸軍戦車、終戦後はどうなった? 本土決戦用の九五式と九七式戦車、その後の奉公先

旧陸軍戦車、終戦後はどうなった? 本土決戦用の九五式と九七式戦車、その後の奉公先

警視庁の「装甲車」の原型である九七式中戦車(画像:月刊PANZER編集部)。

1945年の太平洋戦争終結時、日本国内には本土決戦に備え、かなりの数の戦車が残されていました。その一部は、軍が解体されたのち、兵器としては無力化されつつもさまざまな形で活用されたといいます。

旧軍の主力戦車、第二のご奉公先

 海外では、テロやクーデター、大規模騒乱などが起きた際に、治安維持などで、その国の軍隊が戦車を街中に展開させることがあります。

 日本でも、安保闘争の激しかった1960(昭和35)年から1970(昭和45)年にかけて、陸上自衛隊は戦車の上に金網でやぐらを組み、砲塔には放水銃を取り付けるなどして、治安出動が発令された際には戦車を警備車代わりに使う想定をしていました。しかし、幸いにして出動することなく終わっています。

 このように、「戦車というと軍隊が使用するもの」というイメージが強いかもしれませんが、なにも戦車を使うのは軍隊ばかりではありません。実は過去、日本の警察も戦車を運用していたことがあったのです。

 といっても日本の警察が戦車を装備していたのは、太平洋戦争が終結した直後の、昭和20年代から昭和30年代にかけての10年程度で、あまり長くはありませんでした。

 使用していたのは、旧日本軍の九七式中戦車と九五式軽戦車ですが、両車は太平洋戦争中、日本の戦車戦力のまさに中心として生産・配備されたもの。九七式が2123両、九五式が2378両と(数字は資料により諸説あり)、日本製戦車の生産数第2位と第1位です。

 九七式中戦車は、1937(昭和12)年に正式化された重量約15tの中型戦車。それよりもひと回り小型でなおかつ軽く、防御力や攻撃力は九七式に一歩劣るものの、そのぶん機動性が高い軽戦車が、1935(昭和10)年に正式採用された九五式軽戦車(重量約7.4t)でした。

 太平洋戦争末期には、本土決戦に備えて国内に温存されたため、戦後も相当数が稼働状態にありました。

戦後の歴史にも刻まれる、九七式中戦車ベースの「装甲車」

 敗戦にともない軍が解体されると、兵器は軒並み必要性を失いましたが、戦車は国土復興のための建設機械として、砲塔や機関銃を外した上で再利用されることになります。

 たとえば、車体前面に上げ下げのみ動く機械式の排土板(ドーザー)を装備。この排土板はワイヤーと滑車で操作し、車体から伸びるワイヤーを引っ張れば排土板は上がり、逆に下げたい場合はワイヤーの緊張を緩めることで排土板自体の自重で降りる単純な構造でした。

 砲塔を外した部分は密閉されることなく、開いたままのオープントップであり、「更生戦車」の名称で民生用(軍事用に対し、一般向けであること)のブルドーザーとして使われました。

 ちなみに、元となった九七式中戦車自体にも、排土板を装備した車体が存在していました。このような前例があったからこそ、戦後もブルドーザーとして比較的早期に転用できたのでしょう。

 この更生戦車は、民間企業だけでなく地方自治体も所有しており、たとえば東京都は障害物除去用の牽引車として使ったり、さらには1949(昭和24)年の大雪の時には除雪車としても出動させたりしています。

 一方で、当時の日本は治安が悪化しており、警視庁も暴徒鎮圧用に戦車転用の警備車両を装備していました。それは更生戦車と同じく、砲塔を外した旧軍の九七式中戦車の車体に排土板を取り付けたもので、「装甲車」と呼ばれました。

 本車は1948(昭和23)年の「第三次東宝争議」にて、東宝砧撮影所の入り口に廃材などで構築されたバリケードを撤去する際に出動しており、記録映画や記録写真にその姿が収められているため、戦車改造の装甲車としては比較的有名です。

より洗練されていた九五式軽戦車ベースの「工作車」

 一方、前述した九七式中戦車ベースの装甲車を補完する目的で、1953(昭和28)年ごろ、九五式軽戦車の車体を改造した装甲車が警視庁に配備されました。正式名称は「工作車」といい、前述した九七式中戦車ベースのものが「装甲車」と呼ばれていたのとは対照的です。

 本車は名称とはうらはらに、九七式中戦車を流用した「装甲車」よりもずっと警備車両らしい外観を有しているのが特徴です。まず、車体前面に排土板は装備しておらず、よって車体中央部からワイヤーなどが外に伸びていません。

 また砲塔を外した車体中央部には、固定式の乗員室が設置されていました。これは大型で、なおかつ「装甲車」とは異なり屋根もある密閉式で、さらに三方向に視察用スリット、左右には円形の銃眼のようなものまで設けられていました。

 ただし軍用ではないため、車体前面の操縦手用ハッチは大きく開くようになっており、車体前面には大型の前照灯とモーターサイレン(「ウー」音のサイレンのこと)が装備されるなど、明らかに前述の九七式中戦車改造の「装甲車」よりも本格的な改造が施されていました。

 このように「工作車」は「装甲車」よりも洗練されていたため、「装甲車」よりも長い期間、警視庁で使用された様子が見られます。

 それでも装軌式(いわゆるキャタピラ式)という構造上、やはり整地された場所が多い都市部では、使い勝手に制約があったようで、やがてトラックベースの各種警備用装甲車が登場すると、これに更新される形で、昭和30年代前半には姿を消しました。

北の大地で最後のご奉公

 ちなみに北海道においては、その後も九五式軽戦車の車体を流用した、民生用車両が使われ続けていました。例えば1954(昭和29)年には、北海道中央バス(北海道小樽市)の石狩線(石狩〜花畔間)において、積雪にともなってバスが走れなくなった場合、代わりに馬(ば)そりを改造し客車に仕立てた雪上バス「バチバス」を製作し、九五式軽戦車の車体を改造した牽引車で引っ張る形で、冬季の住民の交通手段として提供していました。

 これ以外にも北海道中央バスは、車体前面に排土板を取り付け除雪車として使用するなどしており、九五式軽戦車改造の車体以外にも、九七式中戦車や一式中戦車などを改造し、1960(昭和35)年ごろまで使用していた記録が残っています。

 このように、意外に思われるかもしれませんが、旧軍戦車は戦後の一時期、民生用でも使われ続けていたのです。

【写真】「更生戦車」ズラリ、かつての戦車工場

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