速い速い駆逐艦「島風」! 旧海軍がスピードを追及した理由と、一点モノで終了のワケ

速い速い駆逐艦「島風」! 旧海軍がスピードを追及した理由と、一点モノで終了のワケ

1943年5月5日、京都府北部、宮津湾外を全力で公試航行中の「島風(2代目)」。撮影時の速力は39.9ノットと記録されている。

小型艇などはともあれ、3000トンクラスの艦船で40ノット(約74km/h)を出すとなると、21世紀のいまでも相当速いといえるでしょう。旧日本海軍が駆逐艦「島風(2代目)」で目指したものは、そうしたハイレベルの速さでした。

艦船の速力はどれくらい?

 艦船の速力は「ノット」という単位で表され、1ノットは1.852km/hに相当しますが、実際のところどれくらいの速さで航行しているのでしょうか。

 一般的なコンテナ船での最高速力は24ノット程度で、現代の軍艦でも30ノット前後が普通です。40ノットが出せるのはジェットフォイルなど一部の高速船に限られ、海上自衛隊のはやぶさ型ミサイル艇でも最高速力は44ノット(81.5km/h)です。船舶にとって40ノットという速力は、ハードルが非常に高いのです。

 40ノットは約74km/hで、クルマではやや速いといったところでしょうか。しかし何もさえぎるもののない海の上を、車の数百倍から数千倍の重さの船がこの速力を出すと、ずっと速く感じます。

 この40ノットに挑戦していたのが、かつての日本海軍です。しかもミサイル「艇」のような排水量200tクラスの小型艇ではなく、1000t以上もあるような駆逐艦の話です。なぜそんなに速い船が必要だったのでしょうか。

 日本海軍は太平洋戦争のはるか前から仮想敵にアメリカを想定し、太平洋でアメリカ戦艦群との決戦に勝利する方法を研究していました。戦艦同士の決戦を行う前に、アメリカ戦艦戦力を少しでも削っておこうというのが「漸減(ざんげん)作戦」で、軽巡洋艦、駆逐艦で編制された「水雷戦隊」による、戦艦に対する魚雷攻撃は日本海軍の大きな柱でした。駆逐艦の性能を高め、魚雷の威力を高めることが一大目標になります。

 魚雷攻撃を成功させるには、敵艦に先回りして有利な位置に付くことが大切で、日本海軍は俊足駆逐艦の建造に力を注ぎます。1917(大正6)年度に計画された八四、八六艦隊計画で生まれた公試排水量(弾薬定数、燃料・水など消耗品は3分の2状態)1300トンクラスの峯風型では、ついに最高速力39ノット(72.2km/h)を実現し、なかでも峯風型「島風(初代)」は最高速力40.7ノット(75.4km/h)をたたき出します。いまから約100年前の話です。

 ところが、この成果を根底から覆す事故が立て続けに起こります。

艦艇設計に影響を与えたふたつの大事件

 1934(昭和9)年3月12日に発生した「友鶴事件」では、艦体傾斜90度から110度まで耐えられるはずだった千鳥型水雷艇「友鶴」が、わずか40度の傾斜で転覆沈没し、死者72名、行方不明者28名を出します。その1年後の1935年9月26日に発生した「第四艦隊事件」では、演習中の第四艦隊が台風に遭遇し、沈没こそありませんでしたが41隻中19隻が損傷、艦首切断や艦橋破壊など大破した艦もあり、死者54名を出しました。

「友鶴事件」「第四艦隊事件」の2大事件は日本海軍を震撼させます。その原因として艦の安定性不足、強度不足など、それまでの艦艇設計に無理があることが明らかになったのです。多くの艦で安全対策工事が行われ、船体の強化改造、武装の削減などが行われた結果、主力駆逐艦となることが期待された吹雪型でも、38ノットから35ノットまで速力が低下しました。

 ちなみに、その後、日本海軍は終戦に至るまで、台風で被害を受けることはほとんど無くなりましたが、アメリカ海軍ハルゼー提督指揮下の第3艦隊が1944(昭和19)年12月18日台風(「コブラ台風」または「ハルゼー台風」とも)に遭遇し駆逐艦3隻が沈没、空母8隻ほか13隻が損傷、航空機186機損失、死者790名を出し、半年後の1945(昭和20)年6月5日にも再び台風に巻き込まれ、沈没艦こそ無かったものの35隻が損傷、航空機76機、死者6名の被害を出しています。

速い! 安い(燃費)! 言うことナシ!

 やがて、仮想敵であるアメリカのノースカロライナ級戦艦は、最高速力が27ノットであると判明し、駆逐艦の速力優位性を失いつつある日本海軍は危機感を強めます。そこで1939(昭和14)年に、公試排水量3000トンクラスながら速力40ノット強という、高速駆逐艦「島風」が計画されます。「島風」という艦名は、40.7ノットを記録した峯風型「島風」にちなんだものです。

「島風」には、高速を発揮して敵戦艦に見つかりにくいように迂回接近し、遠距離から秘密兵器「九三式魚雷」(いわゆる「酸素魚雷」)を一斉に発射する奇襲戦法が期待されました。そのため機関は従来よりも高温、高圧のボイラーとし、タービンも羽数が増やされて、それまでよりも約1.5倍の7万5000馬力を発揮。全力公試では40.37ノット(74.8km/h)を記録します。さらに、燃料などを軽くした過負荷全力公試では、先代の記録を上回る40.9ノット(75.7km/h)をたたき出しました。過負荷全力公試のため非公式にはなりますが、日本駆逐艦史上最速です。

 また高性能ボイラーで燃費も良くなり、吹雪型の航続距離が14ノットで5000海里(9260km)だったのに対し、「島風」は18ノットで6000海里(1万1110km)と、「速くて低燃費」の良いことずくめでした。

もてあました秘密兵器「酸素魚雷」

「島風」は発射できる魚雷の多さもポイントで、5連装魚雷発射機を船体中央に3基搭載して左右舷どちらにも15発が発射できました。これは従来の駆逐艦の2隻ぶんに相当する威力で、重雷装艦「北上」「大井」の20発に次ぐものでした。

 搭載した「九三式魚雷」は48ノットで射程2万mにも及ぶもので、それまでの「九〇式魚雷」と比較しても、射程は約3倍を誇りました。しかし48ノットで2万m進むには約13.5分掛かり、最大射程で移動目標に命中させるのは至難であることがわかります。1940(昭和15)年と41(昭和16)年に実施された水雷演習でも、遠距離雷撃は効果が薄いと判定されています。敵の距離や位置を正確に測る高性能測距機や射撃管制能力を持つ巡洋艦クラスならともかく、駆逐艦クラスにはオーバースペック気味であり、「島風」に搭載された雷撃発射指揮装置も従来の短射程魚雷搭載駆逐艦と同じものだったため、遠距離雷撃の有効性に疑問が呈されるようになります。

 戦艦同士の決戦が起こらず「漸減作戦」の可能性も低くなると、水雷熱は急速に冷めていきます。「島風」同型艦は16隻建造される計画でしたが、実際には1943(昭和18)年5月に竣工した「島風」1隻のみとなります。初陣は1943年7月の「キスカ島撤退作戦」で、レーダーを装備し、俊足であったことから、第一水雷戦隊司令官の木村昌福少将が特に要望したと言われます。霧にまぎれながらの作戦は困難でしたが、陸海軍将兵5000名以上の撤退に成功しました。

 その後は艦隊や輸送船団護衛任務がほとんどで、1944(昭和19)年10月24日の「レイテ沖海戦」では、撃沈された戦艦「武蔵」の救援も行っています。この時期、制空権はアメリカが握っており、期待されていた重雷装も俊足も存分に発揮する機会は訪れず、1944年11月11日にフィリピン中部レイテ島北西部のオルモック湾で空襲を受け、撃沈されます。竣工から1年6か月後のことでした。

【動画】船速40ノットの世界、海自ミサイル艇「わかたか」ブリッジより

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