世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで

世界のビッグ7、戦艦「長門」の一部始終 旧海軍の象徴がビキニ環礁に沈むまで

竣工直後の長門型戦艦。艦橋は低く、煙突も屈曲していない(画像:アメリカ海軍)。

戦艦「大和」「武蔵」は秘密兵器として秘匿され、戦後まで国民に知られなかった一方、戦艦「長門」は表舞台に立ち、長く連合艦隊の旗艦を務め、旧海軍の象徴でもありました。世界のビッグ7にも数えられた「長門」の一部始終を追います。

日本海軍の象徴、「長門」

 いまでこそ、「20世紀における日本の有名な戦艦は何?」と聞けば多くの人が「大和」もしくは「武蔵」と答えるでしょう。しかし、太平洋戦争当時は、そうではありませんでした。「大和」も「武蔵」も厳しい情報統制のなかで建造され、一般の人びとには全くといっていいほど知られていなかったのです。それでは当時の人たちにとって、一番なじみ深い「日本海軍の象徴」といえる戦艦は何だったのかといえば、それは「長門」でした。

「長門」が完成したのは、1920(大正9)年のことです。完成当時は世界最大の戦艦で、主砲も最大クラスの41cm連装砲(対外的には16インチ、40.6cm)、速力も最高26ノット=48.152km/h(同じく23ノット=42.596km/h)と、その前に建造された伊勢型(36cm連装砲、新造時23ノット)から見ても驚くほどの高スペックを持った戦艦となりました。

 これはイギリスの造船技術を学び、金剛型戦艦の2番艦から4番艦を国内で完成させたことにより(1番艦「金剛」のみイギリスで建造)、向上した日本の技術を詰め込んだ結果でした。

 長門型2番艦の「陸奥」も同等のスペックを持った戦艦となりました。当時は大艦巨砲主義が最盛期を迎えていた時代です。高まる列強の戦艦建造競争によってどんどん巨大になっていく艦体と主砲口径、その最たるものが長門型戦艦で、本型の登場が世界初の軍縮条約となった「ワシントン海軍条約」締結のきっかけになったといわれています。

「世界7大戦艦」のひとつに数えられた「長門」

「長門」の完成直後、「ワシントン海軍軍縮条約」が採択され、世界の海軍は「ネーバルホリデー(海軍休日)」と呼ばれる時代に突入します。これは、列強各国とも行き過ぎた大艦巨砲主義によって国家予算が圧迫され、経済に悪影響が出てきたために締結された条約です。

 これにより、41cm以上の主砲を搭載した3万5000トン以上の大型戦艦の建造は制限されたため、長門型2番艦の「陸奥」は、同条約によって廃艦になるのを防ぐために、未完成の状態で日本海軍へと引き渡されました。そして、当時建造された大型戦艦、日本の「長門」と「陸奥」、イギリスの「ネルソン」と「ロドニー」、アメリカの「コロラド」と「メリーランド」「ウェストバージニア」、この7隻を指して「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」という言葉まで生まれたのです。

 わずか10年前まで、大型戦艦の建造技術を持たず、イギリスの力を借りて戦艦を建造していた日本が、(「ワシントン海軍軍縮条約」という時代の流れがあったとはいえ)世界のトップ7に名を連ねる巨大戦艦を2隻も造り上げたのです。あっという間に「長門」と「陸奥」は、「日本海軍の象徴」「日本の誇り」として、国民から親しまれていくようになります。

 その「長門」の最初の見せ場は、戦場ではなく災害派遣でした。1923(大正12)年9月に起こった「関東大震災」です。

 当時、中国北東部の渤海湾で演習中だった「長門」をはじめとする連合艦隊は、すぐさま救援物資を積載し、東京へと向かいました。ただし、前述したように「長門」の公表最高速度は23ノット。しかし実際には26ノット以上のスピードが出せたといいます。外国の軍艦にその秘密であるスピードがばれないように、外国船が近くにいるときにはスピードを落とし、ほかの船が周囲にいなければスピードを上げて、東京へと急いだといいます。こうして大災害に見舞われた東京に駆けつけました。

 その後、大規模な改装を繰り返し、装甲や機銃の増設などが行われます。一番の変更点は「屈曲煙突」の設置で、排煙問題が解消されたため、この煙突の形状は以後の艦艇建造の主流となっていきました。

戦後にたどった数奇な運命

 太平洋戦争が勃発すると、「長門」は連合艦隊の旗艦として、「陸奥」と共に第一戦隊へ所属しました。真珠湾への攻撃命令「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文もこの「長門」から打電されました。

 しかし、その後「長門」の出番は極端に減っていくことになります。実際、大艦巨砲主義の時代は終わりを迎えつつあり、空母や潜水艦を相手とした演習では苦戦することが多くなりました。

 そして長門型を凌ぐ大型の新鋭戦艦「大和」が就役すると、旗艦は「大和」へと移され、「ミッドウェ―海戦」後には第1戦隊から第2戦隊へ移管され、以後は日本本土で待機することが多くなります。

 1944(昭和19)年10月、「長門」は「レイテ沖海戦」に参加しますが、大きな活躍はできず、以後人員輸送や給油活動がおもな任務となりました。そして1945(昭和20)年8月の終戦、「長門」は空襲により中破してはいたものの、日本海軍で唯一生き残った(航行可能な)戦艦となりました。

 アメリカに接収された「長門」は、さらに数奇な運命をたどることになります。終戦翌年の3月、アメリカの核実験の標的艦となるため、「長門」はマーシャル諸島に向けて出港しました。

 目的地のマーシャル諸島ビキニ環礁へ到着すると、アメリカの戦艦「ネバダ」や日本の軽巡洋艦「酒匂」などとともに核実験の標的とされました。2回にわたる大爆発を受け、それでも「長門」は沈みませんでした。これに対し日本では、「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」などともてはやされましたが、ほかにも数多くの艦艇が沈むことなく残っていたので、一概にはいえません。

 そして、「長門」は2度被爆した翌日の夜、誰にも知られることなくひっそりと沈没しました。爆発の衝撃からゆっくりと浸水が広がっていたものと思われます。翌朝、関係者が確認すると、すでに海上に「長門」の姿はなかったといいます。

「長門」は現在、海底で静かに眠り続けています。核実験から65年、いまではこの海域は、沈船が多いことから有名なダイビングスポットとなっており、観光客に人気の場所に様変わりしています。戦前、「ビッグ7」としてもてはやされたほかの大型戦艦もすでになく、海中に没しているとはいえ、「ビッグ7」のなかで現在も見ることができるのは、いまやこの「長門」だけだといいます。

【写真】終戦後に撮影された「長門」のブリッジ

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