幻の東京五輪と豪華貨客船NYK三姉妹の憂鬱 新田丸、八幡丸、春日丸が臨んだ太平洋戦争

幻の東京五輪と豪華貨客船NYK三姉妹の憂鬱 新田丸、八幡丸、春日丸が臨んだ太平洋戦争

日本郵船の「新田丸」。1940年3月23日竣工し、中国航路に就航するも、およそ1年半で日本海軍に徴傭された(画像:日本郵船歴史博物館)。

1940年の「東京オリンピック」に向け、日本郵船は豪華貨客船を建造します。擬人化ポスターも残る「NYK三姉妹」の誕生です。しかし時代は戦争へ。3隻の豪華貨客船もまた、そうした時代の奔流に押し流されていく運命にありました。

五輪見据えインバウンド需要狙う貨客船の誕生

 2020年には「東京オリンピック・パラリンピック」が開催されますが、1940(昭和15)年9月の「第12回オリンピック大会」も、東京で開催されることになっていました。

 2019年現在の東京は世界中からの選手団、観光客を受入れる体制づくりに大わらわですが、そのあたりは1940年大会を控えていたころも同じでした。当時、旅客輸送も手掛けていた海運会社の日本郵船は、外国人客の増大を見越して欧州航路の輸送能力を増強しようと、快速貨客船の新造を計画します。こうして設計されたのが新田丸級貨客船「新田丸」「八幡丸」「春日丸」の三姉妹です。船名は日本郵船の英称である「Nippon Yusen Kaisha」の頭文字、NYKを配したものにもなっています。

 ネーミングからも日本郵船の期待度が分かりますが、この船には別の顔もありました。「優秀船舶建造助成施設」制度によって、建造費の3分の1について政府からの助成を受ける代わりに、戦時には空母に改装して海軍に徴傭されることを前提に設計されたのです。

 そうした出自の船ですが、他方で豪華客船としての誇りも持っています。一等客室はすべて海に面した外側に配置され、外航客船としては世界で初めて、一等客室と一等、二等公室に冷暖房装置が取り付けられました。二等、三等室のグレードも2万トン以下の客船としては最上のものと評されたレベルの船だったのです。

 こうして1938(昭和15)年5月9日、「新田丸」は起工しました。ところがその2か月後の7月15日に日本政府は、日中戦争などの情勢から「東京オリンピック」の開催権返上を決定します。期待の「NYK」豪華客船の前途に、暗雲が垂れ込めはじめます。

 第一船「新田丸」は1940(昭和15)年3月23日に竣工、サンフランシスコ航路に就航しますが、7度の航海ののち1941(昭和16)年9月12日付で日本海軍に徴傭され、1942(昭和17)年11月25日、空母に改造完了し「冲鷹」と名乗ることになります。第二船「八幡丸」は1940(昭和15)年7月31日竣工、アメリカ西海岸との航路に就きますが、こちらも1941(昭和16)年11月22日付で海軍に徴傭され、翌年5月31日に改造完了、「雲鷹」となります。第三船「春日丸」は1940(昭和15)年9月19日に進水後、商業航路に就くことなく空母への改装工事に入り、1942(昭和17)年8月31日付で「大鷹」となります。3隻いずれも甲板に艦橋のない全通式平甲板の、のっぺりした外見となりました。

 平時には快速貨客船で、戦時には空母へ改装というのは、貧乏な日本にはよい考えのように見えたのですが、いざ改装してみると小さくて、客船としては快速でも空母としては鈍足で使いがたいことが判明します。そこで前線には出ず、おもに飛行機輸送に使われることになります。いきなり表舞台から降ろされたような扱いに見えますが、飛行機をそのまま運べる艦はとても重宝されました。

 飛べる飛行機を遅い船で運ぶのは一見、不合理に見えます。しかし自ら飛行して移動するには、燃料や整備などのコストが掛かります。また戦闘機などの単座機はひとりだけで航法計算をやらねばならず、何も目標のない海上では少しの計算ミスが行方不明につながります。実際、戦闘任務ではなく飛んでいただけで行方不明になった機は相当数に上るのです。当時、故障も含めると、飛ばしただけで3%から5%が損耗したと言われており、その数は馬鹿になりません。

 また船で輸送するといっても、貨物船ではバラバラに分解して積載することになり、現地で再び組み立てる手間が掛かりました。しかし空母ならほとんど完成形のまま輸送できます。加えて、目的地が近くなったら発艦して基地に飛ぶこともできるなど、多くのメリットがありました。1942(昭和17)年8月から翌年12月までの約1年半で、この3隻が南方へ輸送した陸海軍の飛行機は約2000機に上り、航空作戦に大きく寄与しました。

シーレーンを守る護衛空母のはずだったが

 日本海軍は戦争中盤から、ようやく海上交通路(シーレーン)護衛の大切さに気が付きます。1943(昭和18)年12月15日付で3隻は海上護衛総隊に配属され、総隊司令部直属の護衛空母となることが決まりますが、その直前の12月3日に「冲鷹」はアメリカ潜水艦の雷撃で沈没してしまいます。残った「大鷹」「雲鷹」の運命を暗示しているようでした。

「護衛空母」の任務は、アメリカ潜水艦から輸送船団を守ることで、九七式艦上攻撃機を12機から17機搭載し、爆雷や爆弾を装備して、夜明けから日没まで2時間から3時間のローテーションで2機程度が哨戒しました。ただし攻撃機は対潜レーダーを装備しているわけでもなく、哨戒といっても上空からの目視による監視で、パイロットも経験が浅く実際の戦果はほとんどありませんでした。船団に、味方の飛行機が周囲を飛んでいるという安心感を与える程度の効果だったようです。

 護衛空母も、夜間は一転して護衛される立場になります。アメリカ潜水艦はレーダーを駆使して夜間攻撃してくるのに対し、日本に有効な対抗手段はありませんでした。

 空母は潜水艦にとって目立つ標的です。1944(昭和19)年8月18日に「大鷹」、9月17日には「雲鷹」と、相次いで敵潜水艦から雷撃を受けて沈没してしまいます。

 ちなみに客船改造空母は、海軍の徴傭が解かれれば再び客船に復旧できるよう、構造上考慮されていたそうです。しかし、平和の海で船客を運ぶ機会は二度と訪れませんでした。

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