学園ないのに「大泉学園駅」「一橋学園駅」なぜ? 成城学園と玉川学園は実現したが…

学園ないのに「大泉学園駅」「一橋学園駅」なぜ? 成城学園と玉川学園は実現したが…

駅名どおりの学園がある小田急線の玉川学園前駅付近(2020年1月、内田宗治撮影)。

東京都内に位置する小田急線の成城学園駅と玉川学園駅は、駅の近くに成城学園や玉川学園があります。しかし西武線の大泉学園駅と一橋学園駅は、近くにその名前の学校がありません。学園のない学園駅ができた経緯を探ります。

近くに「大泉学園」がない大泉学園駅

 西武池袋線の大泉学園駅(東京都練馬区)。奇妙なことに、駅付近に「大泉学園」という名の学校がありません。同じ西武鉄道の多摩湖線で、一橋学園駅(同・小平市)にも、近くにそうした学園の名が付く学校が存在しません(後述する一橋大学小平国際キャンパスはあります)。「一橋」と名の付く学校としては、JR中央本線の国立駅(同・国立市)が最寄り駅となる一橋大学が有名なので、西武多摩湖線の駅に一橋の名が冠されていることに違和感を抱かされます。

 東京都内にはこのほか学園の名が付く駅がふたつあります。小田急小田原線の成城学園前駅(世田谷区)と玉川学園前駅(町田市)です。成城学園前駅のすぐ近くには私立成城学園の敷地が広がっていますし、玉川学園前駅では、駅前から私立玉川学園の敷地が続いています。このふたつの駅は、その名のとおりの学園があり納得がいきます。

 では、学園がない大泉学園駅と一橋学園駅は、なぜその名が付いているのでしょうか。

 大泉学園駅も一橋学園駅も、実は駅付近に大学が移転してくるはずでした。大泉学園駅近くに一橋大学(当時の名称は東京商科大学)、一橋学園駅近くに明治大学です。駅名と大学名が不一致で混乱しそうですが、事実です。

 大学誘致を働きかけていたのは、西武グループの創始者、堤 康次郎です。堤は1920(大正9)年、不動産開発を手がける箱根土地株式会社を設立します。

大泉学園都市に東京商科大を誘致した箱根土地だったが……

 1923(大正12)年に発生した関東大震災によって東京の下町が焼け野原になり、都心から郊外への移住が盛んになります。箱根土地は震災後すぐに、現在の大泉学園駅から約2km北、雑木林だった現・練馬区大泉学園6丁目から8丁目、埼玉県新座市栄3丁目から5丁目の土地50万坪を購入し、「大泉学園都市」の名で1924(大正13)年から分譲を開始しました。

 学園都市と名付けたのは、神田一ツ橋(東京都千代田区)にあった東京商科大学が移転先を探していたため、それを誘致して分譲地の文化的イメージを高めようとしたためです。同大学が分譲地近くの石神井に運動場用の土地を購入していたことから、誘致に成功すると考えたようです。

 大泉学園都市は、北側に大学や野球場、馬場、公園の設置を予定し、住宅用分譲地の中心には幅の広い道路(現在の大泉学園通)を造り、その両側を一区画広い所では300坪で分譲していきました。

 西武池袋線は、当時、武蔵野鉄道という会社の経営で、まだ堤が経営する会社の鉄道ではありませんでした。箱根土地は1924(大正13)年、東大泉駅(1933年、大泉学園に改称)をつくって寄付し、駅から分譲地まで乗合自動車を走らせるという便宜も図ります。

 ところが東京商科大学の移転先が国立駅近くの現在地になり、分譲時の学園都市という名だけが残ってしまったのです。

 時代が下り、当時の分譲地は所有者による土地の分割が進みましたが、碁盤目状の道路は当時のままで、落ち着いた住宅地となっています。

「一橋大学駅+小平学園駅=一橋学園駅」の歴史

 箱根土地はもう1か所、現在の一橋学園駅一帯を「小平学園都市」として開発していきます。関東大震災で、明治大学の神田駿河台校舎(東京都千代田区)が焼けたため、一部を小平に移転する計画にあわせたものでした。また女子英学塾(現・津田塾大学)が、震災前の1922(大正11)年に移転用地として小平の土地を取得済みだったことも開発決定に影響しています。

 箱根土地は約60万坪の土地を確保して、1924(大正13)年に明治大学と契約を交わします。南北に通る幅の広い道路(現・西武多摩湖線沿い)を中心に、西側の一部に大学を配置する計画です。

 1925(大正14)年から本格的分譲を開始しましたが、翌年、明治大学側から契約を撤回され、こちらも目算が狂い出します。

 当時近くの狭山丘陵で、東京の水道用水を確保するための人造湖、村山貯水池(多摩湖)の完成が迫っていました。新しい観光地となることが予想され、箱根土地は小平学園都市へのアクセスと観光客輸送を目当てに多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)を敷設します。1928(昭和3)年に国分寺〜萩山間が開業、小平学園都市のほぼ中央に小平学園駅(現・一橋学園駅の約200m萩山駅寄り)を開業させます。

 幸いなことに明治大学の代わりに東京商科大学予科の誘致に成功し、1933(昭和8)年開校。同大学予科はその後、一橋大学小平分校(教養課程など)となりましたが、1996(平成8)年に廃止。2003(平成15)年からは一橋大学小平国際キャンパスとなっています。同キャンパスは国際共同研究センターのほか、国際学生宿舎などがあるだけなので、一橋大学がここにあるという認識が一般に薄いのが現状です。

 1966(昭和41)年に小平学園駅と、その400mほど国分寺駅寄りにあった一橋大学駅(1949年に商大予科前から改称)とを移転統合し、現在の一橋学園駅となりました。両駅のあいだに現在の駅を設け、統合前の駅名から2文字ずつ取った駅名にした形です。

学園都市開発が実現した成城学園前駅と玉川学園前駅

 もう一方の小田急電鉄の成城学園前駅と玉川学園前駅は、それぞれの私立学校が、学園都市開発を行ったことによるものです。

 関東大震災後、牛込(新宿区)にあった成城学校(現在の成城中学校・同高校)は郊外へ移転を計画、同校主事の小原國芳の主導で1925(大正14)年、現在の地に一部が移転します。翌年、成城学校から独立して成城学園が誕生しました。小田急線はそのあとの1927(昭和2)年に開通し、同時に成城学園前駅が設置されます。小原は小田急や地元地主と折衝して、駅を中心に大規模な分譲を行っていきます。高級住宅地のイメージが定着している成城学園駅周辺はこうして開発されました。

 玉川学園前駅周辺も小原の主導で、玉川学園により学校と周辺の学園都市開発がなされます。同駅の駅舎と土地は玉川学園による寄付で1929(昭和4)年に開業しました。

 私学自らが都市開発を実行したのは、成城学園と玉川学園が最初であり、その後もほとんど例がないとされます。

 学園の付く駅には、それぞれのドラマがありました。

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