新しい時代を迎えるためにも、「改革を叫ぶ無能の群れ」を葬り去れ

新しい時代を迎えるためにも、「改革を叫ぶ無能の群れ」を葬り去れ

写真=時事通信社

◆改革を叫ぶ愚者の群れ

 平成の30年が終わる。思えばこの30年、日本はずっと「改革」をし続けてきた。

 記者会見で「平成」の額縁を掲げたのは、当時、竹下登内閣で官房長官を務めていた小渕恵三。昭和と平成をまたいだ竹下内閣は、「税制改革」を旗印に消費税を初めて導入した。その後に生まれた平成の内閣で「改革」を旗印にしなかった内閣はない。

 細川内閣では「政治改革」が叫ばれ、小選挙区比例代表並立制、政党助成金制度などが導入された。大蔵省が財務省と名前を変え、厚生省と労働省が統合するなど大規模な中央省庁再編が行われたのは、橋本内閣の「行政改革」。小泉純一郎が叫んだのは「聖域なき構造改革」。民主党政権ですったもんだあったのは「社会保障と税の一体改革」。

 そして現在の安倍政権。平成の30年を経ても改革が終わってないとみえ、働き方改革だのなんだのと、なにかにつけ改革だ改革だと叫んでいる。

◆改革対象が腐ってるか、改革当事者が無能か

 実に30年である。この30年、猫も杓子も改革を叫び続けてきた。30年も改革をし続け、まだこの国には改革が必要な分野があるというのだ。30年たっても改革が終わらないというのならば、改革される対象がよほど腐っているのか、改革の当事者がよほど無能なのかのどちらかなのだろう。

 長年、この「改革される対象が腐っているのか、改革の当事者が無能なのか」という疑問に悩んできたが、大阪の府知事選・市長選を見て、「ああなるほど、改革を叫ぶほうが無能なのだな」と頓悟(とんご)するに至った。

◆10年ずっと改革を叫んできただけ

 考えてもみよ。大阪で維新なる政治勢力が生まれて10年になる。その間、彼らはずっと改革を叫んできたが、まだ改革し足らないという。そして、改革の行き着く果てに「宿願」だからという理由で、「都構想」なる訳のわからない代物を再び住民投票にかけたいという。一度住民投票で負けたのにもかかわらず、だ。しかもそのためには、首長職を途中で放り投げることもいとわないのだという。「創価学会・公明党に騙されたままでは、死んでも死に切れない」というのが理由らしい。

 都構想は彼らの「宿願」なのだろう。創価学会・公明党との政治的合意がほごにされたのは「死んでも死に切れない」ほど悔しいのだろう。しかしこの両者とも、「知らんがな」の一言で済む、単なる感情論でしかない。感情論を前面に押し出し、感情論を根拠に、自分の職を放り投げ、感情論で、数億円かけて選挙をするというわけだ。こんなもの、維新の好きな言い回しを使えば「民間企業なら通用しない、無能」としか言いようがあるまい。無能が改革するのだから、改革が終わるはずがない。

 5月1日からは新しい元号が始まる。改元は時代の区切りではない。時代を区切るのは人々の営みのありようだ。

 ここいらで新しい時代を迎えるためにも、「改革を叫ぶ無能の群れ」を過去のものとして葬り去る必要があろう。

<取材・文/菅野完>

すがのたもつ●本サイトの連載、「草の根保守の蠢動」をまとめた新書『日本会議の研究』(扶桑社新書)は第一回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞に選ばれるなど世間を揺るがせた。現在、週刊SPA!にて巻頭コラム「なんでこんなにアホなのか?」好評連載中。また、メルマガ「菅野完リポート」や月刊誌「ゲゼルシャフト」(sugano.shop)も注目されている

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