期待と失望が交錯した民主党政権時代のメディアと政治を振り返る<「言葉」から見る平成政治史・第6回>

期待と失望が交錯した民主党政権時代のメディアと政治を振り返る<「言葉」から見る平成政治史・第6回>

photo by Corpse Reviver via wikimedia commons(CC BY-SA 3.0)

◆期待と失望が交錯した3年3ヶ月

 2009年9月から2012年12月までの3年3ヶ月は日本政治ということでいえば、期待と失望がないまぜになった時期だった。それと同時に、現在につながる政治社会的基盤が概ね完成をみた時期でもあった。 小泉内閣とその後の短命内閣の混乱を経て、90年代初頭に構想された二大政党制がいよいよ具現化することに期待感も高まった。民主党への期待感は一朝一夕に高まったものではなかった。

 今ではすっかり忘れられてしまっているが、2000年代前半を通じて民主党は寄せ集め所帯ではありながら、各界との人的交流、ネットワーキングを行い、対立軸を形成した。マーケティング手法に導入し、外資系PR企業や従来と異なるPRパーソンの採用などによって、新しいキャンペーン手法を模索した結果だった。新しい政治を表現するにふさわしい新しい政治の言葉の模索でもあった。民主党政権でも著名なテレビジャーナリストを内閣広報室の審議官として登用するなど官邸の広報への注力は認められた。小泉内閣と当時の自民党は新しい情報発信手法の戦略と手法を探してきたが、民主党もそれらと切磋琢磨しながら戦略と手法を磨いてきた。

 いつの時代にも業界関係者、地元の名士、官僚OBなど政界進出を考える人は一定の割合で存在する。与党に現職国会議員が多数存在するとき、それらの新規参入者らは当然ライバルになるから疎まれがちだ。求心力ある野党が新規参入者らの受け皿になることができれば、新規参入者たちは野党からの出馬を真剣に検討する。当時の民主党がそうで、人々の改革への期待感もあって政界進出を希望するものの格好の受け皿となった。

 本来、日本の与党一強状況にはスタビライザーが組み込まれているのだが、現在は様々な事情でそれらは機能しておらず、政治システムと与党内外の競争を基底に置いた緊張関係は極めて脆弱な状況にある。

「政治の言葉」という点でいえば、2005年のいわゆる郵政選挙で大敗した民主党だったが、NPOや市民社会との密な関係を活かしながら、わかりやすさと身近な言葉を多用した新しい政治の言葉を模索した。鳩山総理が就任の所信表明演説で言及した「新しい公共」は権威と大文字の政治、経済、社会に軸足を置いた自民党政治と当時の民主党を明確に区別した旗印となった。

 新しい政治の言葉を模索したのは民主党だけではなかった。もうひとつの象徴は2008年大阪府知事選挙に立候補した橋下徹だ。橋下はいわゆるタレント弁護士だったがその切れ味鋭い論調が世論に支持されていたが、政界に進出。大阪都構想の実現と身を切る改革を標榜しながら、さらに2000年代の少数政党などから急速に人材を確保し政策面での妥協と変更を重ねながら国政への進出を果たした。民主党政権のもとでは、少数政党ながら巧みな交渉術と政治手腕で2012年に大都市地域特別区設置法を成立させた。

 同法を背景に、大阪都構想実現の是非を問う住民投票を2015年に実施した。結果は僅差で否決。橋下は政界引退を発表したが、現在に至るまで政権との距離が近い論客として大きな存在感を見せている。

◆メディアの中心がインターネットにシフト

 言論の流通を支える新しいメディアであるインターネットの普及とメディア環境はどうか。ブロードバンドの普及が一巡し、各通信キャリアはスマートフォンへのシフトを本格化させていった。東日本大震災をきっかけに、公的機関も広報のツールとして本格的に注目し、広告費を含めて日本のメディアの中心がいよいよインターネットを中心としたものに実体化し始めた。現在では国民的ツールとなったLINEの誕生も震災直後の2011年のことであった。

 インターネットの利用者は1億人手前でやや頭打ち、人口普及率でいうと80%程度といったあたりだ。この数字は少子高齢化が進む日本では、乳幼児や後期高齢者等を除く、ほぼ全ての人に概ねインターネットが普及したといえる。

 モバイル端末からのインターネットアクセスは今よりも低調だが、この後のスマートフォン普及によって爆発的に改善することになる。

◆政治もインターネット広報が本格化

 政治の世界でもインターネットを使ったキャンペーンが広がりを見せる。インターネットは選挙制度改革によって無党派層の支持獲得の重要性増大などとも関連しながら、「政治の言葉」にも影響を与えたと考えられる。

 1994年8月に当時の総理府が「首相官邸ホームページ」を開設し、各政党もホームページを用意するようになっていった。小泉内閣のもとで官邸広報手法の一環として、メールマガジンが準備され、当時の安倍官房副長官が編集長を務めている。

 そうはいっても、この時期の政治のネット利用はあくまで傍流であった。当時の公職選挙法はインターネットを使った選挙運動(以下、「ネット選挙」)を禁止していたからである。日本では選挙運動は「特定の選挙について、特定の候補者の当選をはかること(そのために相手候補者を当選させないことも含む)を目的に選挙人に働きかけること」とされている。それ以外の政治家の活動は政治活動と呼ばれる。

 日本ではポスター、ビラの大きさや枚数、証紙の貼り付けなどが要請され、定められた手法以外で選挙運動を行うことはできなかった。インターネットの普及と関心の高まりのなかで、政治での利用も模索されたが、旧自治省は当時の公選法に照らして選挙運動への利用については法改正が必要との見解を示していた。

 当時の民主党は挑戦者らしく2000年代を通して、ネット選挙の解禁を主張し、自民党は概ね否定的な立場だった。一般に現職政治家や与党は選挙制度改革や選挙区改正を好まない。たとえばこの間の参議院の選挙区の合併、いわゆる合区を巡る動きを見ると、強力な反発や巻き返しを招きがちである。合区問題はその後、最近の選挙制度改革の流れに反した議席増、比例特定枠の導入等を含んだ公選法改正という結末を迎えたことは記憶に新しい。

 このような状況を踏まえて、経済団体やIT業界などは繰り返しネット選挙の導入を主張し、当時の民主党も同調したが、結局ネット選挙の解禁は2013年の第2次安倍政権を待たねばならなかった。

◆「新しい政治」を模索した民主党政権の失速

 もちろんネット選挙以外にも、民主党は「古い政治」に対して、「新しい政治」をぶつけようとし、またそのための政治の言葉を用意した。前章でも取り上げた「消えた年金問題」や、マニフェスト政治などを手がかりにしながら、日本政治に新しい息吹を持ち込もうとしたのである。それらはそれなりに熟慮され、プロの手によってデザインされたもので、小泉総理の言葉ほどのインパクトこそ持ち得なかったものの、それなりに広がりを見せ、社会に強い期待感を与えた。

 2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙の投票率は69.28%と小選挙区制が導入されてからもっとも高い数字を記録し、民主党は308議席を獲得した。また同年9月の鳩山内閣発足時の内閣支持率は72%に達し、民主党支持率も42%であった。

 だが期待感は長くは続かなかった。2009年がピークで、完成すると同時に綻びを見せることになった。政権が動き出すやいなや統治の知恵と手法、経験の不足が露呈した。

 子ども手当などマニフェストに書かれていた目玉政策を実現するための財源は十分に確保できなかった。新語・流行語大賞にも登場した「埋蔵金」を発掘することはできなかったのである。

 政治主導を掲げて事務次官会議の廃止など官僚機構の改革に着手するも、混乱を招き、事業仕分けなど衆目を意識し過ぎたことで政治ショーと化した施策も少なくなかった。

 徐々に「新しい政治」と民主党に対する期待感は失われていった。挙げ句の果てに、鳩山内閣は普天間基地移転に関する一貫しない発言の責任をとるかたちで辞職した。新しい政権は一年に満たない在任期間の短命政権であった。

 民主党の政党支持率も低調で、2011年に入ると自民党の逆転を許すようになった。2010年の参院選直前に突如、政界で鬼門とされる消費税増税に思いつきで言及したことも影響し敗北を喫したことで、安定した政権運営がいっそう難しくなった。

※出典「NHK放送文化研究所・政治意識月例調査・2009年」より

◆大きな転機となった「東日本大震災」

 加えて、2011年の東日本大震災の復旧復興が重なった。原発事故も重なり未曾有の規模の災害になった。他の政権であったとしてもそれなりに混乱したことは疑いえず、また自衛隊の初動など阪神淡路大震災の経験を踏まえてかなりの改善は見られたが、民主党政権に対する不信感は増す一方だった。国家存亡の危機に際して政権の求心力が増すともいわれるが、すでに2010年に内閣支持率と不支持率が逆転していたこともあってか、政権に対する評価は顕著な改善は見られなかった。

 2012年12月突如、民主党政権、つまり2000年代の非自民政権は3年3ヶ月で幕をおろした。民主党政権が従前の期待に応えられなかったことに対する社会と有権者の不信感は根深く、現在にまでその影響が認められる。現在の各野党の主たる顔ぶれは、やはり当時の民主党政権の顔役とかわらないことと無関係ではないだろう。

 ただし民主党政権の、あまり認知されていない成果についても言及すべきであろう。

 当時の民主党政権とNPO等との近さは東日本大震災復旧復興における市民社会の知恵の活用に貢献した。特定非営利活動促進法(通称、NPO法)の迅速な改正によって、税制優遇を受けられる認定NPO制度の柔軟化や認定基準の緩和、NPO法人設立申請手続きの簡素化や地方自治体への権限委譲等、現在にまで影響する重要な法改正だった。

 ソーシャルメディア等の公的機関における活用が本格化したのもこの時期にあたる。復旧復興に関連して、オンラインでの情報発信が積極活用されたことは特筆すべきだ。

 菅内閣のあとを継いだのが、野田内閣だった。ただし野田内閣にはもはや政権運営においても取りうるオプションはほとんど残されていなかった。野田内閣は2012年12月突如辞意を表明した。社会保障の充実、安定化と、安定財源確保、財政健全化の同時達成を目指した社会保障と税の一体改革に関する三党合意はのちの消費税増税の礎にもなった。だが、民主党のあとを継いだ民進党分裂などもあって、現在では顧みられることもなくなりつつある。

 この時期の「政治の言葉」は「新しい政治」とそこから発せられる新しい言葉に対する希望と失望に満ちている。次回、それらを個別に論評する。

<文/西田亮介 photo by Corpse Reviver via wikimedia commons(CC BY-SA 3.0)>

にしだ りょうすけ●1983年、京都生まれ。慶応義塾大学卒。博士(政策・メディア)。専門は社会学、情報社会論と公共政策。立命館大学特別招聘准教授等を経て、2015年9月東京工業大学着任。18年4月より同リーダーシップ教育院准教授。著書に『メディアと自民党』(角川新書)、『なぜ政治はわかりにくいのか』(春秋社)など

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