空虚な言葉に欺かれ、「実のある言葉」が負け続けた安倍政権下の7年半<著述家・菅野完氏>

空虚な言葉に欺かれ、「実のある言葉」が負け続けた安倍政権下の7年半<著述家・菅野完氏>

(Photo by Kazuhiro NOGI / AFP)

◆安倍晋三の正体

 この原稿を原稿用紙に万年筆で書いている。

 昔の言葉で言えば「筆一本で生活する」ようになって四年がたつが、現実にこうして「万年筆を動かして、商用原稿を書く」のは初めてだ。いつもは頭に浮かんだ言葉をキーボードにぶつけ、モニターに表示される文字列を自分で読み返し、仕上がった原稿を編集者にメールで送っている。

 しかし今回ばかりはそうはいかない。この原稿はぜひとも手で書かねばならない。手で書き、自分の筆圧を感じ、ある種の肉体的負荷を自分に課さなければならない。

 いささかエッセーめいた書き出しになったが、その理由はこうだ。

 安倍晋三が総理大臣を辞めるという。辞めたければ辞めればいい。総理とて労働者、辞めたいタイミングで辞める権利はある。しかし、それが誰であれ、総理が辞めたとなれば当然のこととして、その政権の総括が求められる。この原稿もまさにそうした当然の要求から生まれているものだし、辞意表明会見からこのかた半月、あらゆる媒体で、あらゆる書き手、あらゆる論者が、安倍政権総括記事を書き続けているのも、そのためだ。

 ただ、安倍によるあの辞意表明会見そのものも、その後うち続く様々な総括記事も、あらゆるものが全て、雲をつかむようなものばかりではあるまいか。

◆本人以外の証言がない「持病」

 たとえば、辞意の最大にして唯一の理由だという総理の「持病」について。

 何をどう調べても、「安倍晋三は、潰瘍性大腸炎である」と断言する人物は、安倍晋三しかいない。物の見事に、誰一人として、「安倍晋三は潰瘍性大腸炎である」と第三者証言を提出してこないのだ。たしかに「第一次安倍政権も同じ理由で、安倍は辞任した」とされてはいるが、それは誤解にすぎない。2007年の辞任会見で彼が辞任の理由としてあげたのは、「テロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断した」というもの。その翌日安倍は緊急入院をする。そしてさらに2週間後、安倍は慶応付属病院で医師同伴の記者会見を行うが、この席でさえ、安倍は「潰瘍性大腸炎である」とは言っていないし、同席した医師2名も具体的な病名をあげることはなかった。その翌年、安倍は『文藝春秋』に手記を寄稿する(2008年2月号)。このとき初めて「安倍晋三は、潰瘍性大腸炎に罹患している」との情報が提供された。しかしそれとて、安倍の本人証言に過ぎない。

 それから12年以上の月日が流れたが、この間、何をどう探しても、診断書の類いが公開された形跡はないし、第三者が「安倍の持病は潰瘍性大腸炎である」と証言した痕跡もない。

 総理に復帰する直前、安倍晋三は、「日本消化器学会」のパンフレットで、安倍の主治医でありその学会の幹部だという医師と対談を行っている。しかしその対談の中でさえ、「安倍晋三は潰瘍性大腸炎に罹患している」と証言するのは安倍本人だけ。対談相手の主治医は、安倍の「症状」について言及するものの、病名は一切口にしない。むしろ、主治医は病名を口にすることを巧妙に避けているようでさえある。やはり、「安倍晋三は潰瘍性大腸炎に罹患している」との情報には、どこをどう掘り返しても、物的証拠も、第三者証言も一切存在しないのだ。ただただ、何の物的証拠もない本人証言だけの情報がそこにあり、そのあやふやなものを根拠に、本人も、周囲の人間も、侃々諤々の議論をしている……何と空虚であることか!

 この空虚さなのだ。この空虚さこそが、安倍政権そして安倍晋三という政治家の特徴であり、この7年半、日本を覆い尽くしてきたものの、正体なのだ。

 書く対象が空虚なものである以上、書く側は、その空虚さとどこまでも距離をとらねばならない。相手が虚であれば、当方は実に拠らねばならぬ。実に拠れば、相手の虚の来し方を伺い知ることができるのではないか。徹底した虚に対するのだから、こちらは徹底した実であらねばならない。実のあるものには重みなり痛みなりの実感があるはずだ。その実感を得るため、この原稿を万年筆で書くと私は決めた。

 自分でも、この理屈の飛躍や子供っぽさは十分理解している。しかし、予定の紙幅を半ば過ぎるまで万年筆を走らせ、軽い肉体的疲労を感じる今、これは間違いではなかったと確信しつつある。

◆空虚な言葉との戦い

 「緊張感をもって注視していく」「あらゆる可能性を検討していく」「迅速に対応していく」「丁寧に説明していく」……。

 特定機密保護法、安保法制、森友、さくら、そしてコロナと、この7年間、様々なことがあった。しかし、その全てにおいて、政権サイドは、この「していく4点セット」で乗り切っている。いやむしろ、この「していく4点セット」以外、何か実のあるものがあった試しはない。そして、注視、検討、対応、説明「していく」とは言うものの、その「していく」先がどこにあるのか、「していく」結果、何があるのかの説明などない。おそらく当人たちにはその意志さえないのだろう。「していくしていく」と連呼し続け、ひとまずその場をしのぎ、次の「していくしていく」を仕込む……。この7年半とは、これの連続であった。

 まるでそば屋の出前だ。注文した蕎麦がなかなか届かない。仕方なしに客は、店に電話をする。店側の返答はいつも「今、仕込んでます」「今、出ました」ばかり。しかし蕎麦は一向に届かない。腹を立てた客はまた店に電話するほかない。すると今度は、「あなたのような客をクレーマーと言うのです」「隣町のあの悪夢のようなそば屋より、ウチの方がマシです」と店側が反論するのだ。電話口では、運良く店内に入ることができた常連客の「そうだそうだ。そば屋の大将の言う通り! お前みたいなのがクレーマーだ。隣町の悪夢のそば屋よりマシじゃねーか。何を文句つけてんだ。我慢しろ」とやじる声が聞こえてくる。それで客が「もう結構です!」と焦れたら儲けもの。今日の出前客を逃したとて、また次の日がやってくるではないか。そしてまた次の日も同じ手口でごまかしごまかししのげばいい。売上の減少など構うことはない。出前に気を使わなくとも、店内にいる常連客を大事にしていれば何とか店は経営していける。さしずめ、我々有権者は、そんなそば屋の幼稚な詐欺に騙され続けてきた愚かな客なのであろう。

 しかし、そんなそば屋でも、渋々蕎麦を届けざるを得ない時がやってくる。かくてようやく届けられたのが、アベノマスクであり、Go toトラベルキャンペーンであり、そして特定給付金であった。届いた蕎麦は、不味く、汚れており、伸びきっている。何よりも、届く前に誰かが箸をつけた様子さえあるではないか。ここにいたって客は初めて、このそば屋のそば屋ならざることを知った。そしてそば屋の方でも、これ以上、詐術が続かぬことを悟ったのであろう。

 空虚な言葉を振りまくだけの「していく4点セット」による詐術は、かくて終焉を迎えた。言葉ではなく言葉ならざるもので実を見せねばならぬに至って、詐術の機構はその動きを止めざるを得なかったのだ。しかし、空虚な言葉によってのみ形成されるこの機構の動きを止めるのもまた、空虚な言葉でならねばならなかったのだろう。そのために周到に用意された最後の空虚な言葉が、誰もその真相を伺い知ることのできない「持病」だったわけだ。

◆「実のある言葉」が負け続けたという現実

 しかし私はそれを笑うことができない。「空虚な言葉が7年間、日本を支配し、空虚な言葉でその支配が終焉を迎えたにすぎない」と、ニヒルに笑うことがどうしてもできない。このことは、とりもなおさず、この7年半、「実のある言葉」が「空虚な言葉」に負け続けてきたということでもあるのだから。

 我々は負けたのである。経綸さえない空虚な政治家が矢継ぎ早に繰り出す空虚な言葉に、我々がぶつける実のある言葉は一切通用しなかったのだ。それが現実だ。それこそが、逃れられない「実のある」結果だ。

 万年筆でこの原稿を書くと決め、その通り書き進めた結果、私は今、実体のある肉体的苦痛に打ちひしがれている。しかしたどり着いたのは「空虚さの由来」ではなかった。むしろ、私に今、実感をもって迫ってくるのは「負けたのだ。完全に負けたのだ」という、徹底した敗北感だ。

 だが、この敗北感こそ、一度、体に叩き込んでおく必要があった「実のある」ものなのだろう。

 空虚な言葉との戦いは、これからも続くはずだ。いやむしろ、これからこそが本番かも知れぬ。何せ次の総理は、そば屋の大将ではなく、この7年半のあいだ電話口に立っていたそば屋の丁稚だ。言葉はこれからますます空虚になっていくに違いない。

 これからますます苛烈を極めるであろう空虚な言葉との戦いにまた再び臨むためには、こうして、万年筆で原稿を書き、肉体的実感をともなって、相手の空虚さと自分の非力さを見つめることがどうしても必要だった。それが「筆一本で生活する」ものの、覚悟であり決意であるはずだ。

 そして覚悟は決まった。

 菅義偉、待っていろ。今度こそ、この筆で、そのそっ首を叩き斬ってやる。

<文/菅野完>

<提供元/月刊日本2020年10月号>

【月刊日本】

げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。

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