菅政権下の日本を暗示する、官邸前の光景。ハンスト25日間で気づいたこと

菅政権下の日本を暗示する、官邸前の光景。ハンスト25日間で気づいたこと

TK_Garnett / PIXTA(ピクスタ)

◆ハンストの最中、頭に浮かんでいたこと

 尾籠ろうな話かつ男性諸氏にしかわからぬ話で恐縮ながら、街には「立ち小便ができる街」と「立ち小便が出来ぬ街」がある。

 この差は人通りの多少に関係がない。人目があるから小便をするしないという分別がうまれるわけではなく、人目があろうとする場所ではするし、しない場所ではしない。

 また、清潔感の問題でもない。汚く不潔で人通りがなくとも、なぜか立ち小便しにくい場所もあれば、綺麗で華やかで人通りがあるにもかかわらず立ち小便をやらかす不逞の輩が続出する街もある。

 行政の行き届きの差や、警察の目が光っているかどうかも関係ない。交番の裏で立ち小便に及ぶ連中もいるではないか。

 こう考えると、立ち小便の分別は誠に微妙だ。具体例をあげてみよう。朝の3時である。貴方はしこたま飲んだ。もう、へべれけである。しかも冬の朝方。周囲は寒い。人っ子ひとり歩いていない。その状態で、貴方は、祇園甲部の歌舞練場の脇で立ち小便ができるか?  同じ歌舞練場でも宮川町なら先斗町ならどうだ。では、同じ花街で、神楽坂ならどうだ。ええい。汚い街にいこう。大久保通りを西にくだって、歌舞伎町ならどうだろう。歌舞伎町でも風林会館のあたりと、もっと先のラブホテル街の入り口では違いはないか。山手線に乗って渋谷でおりて宮益坂方面と道玄坂方面で違いはないか。NHKに向かう方面ではどうだ……。

 今思うと、25日間にわたる首相官邸前でのハンガーストライキの期間中、私は頭の中のどこかで、ずっとこのことばかりを考えていた。冗談やケレンで言っているのではない。本当に私は、ずっと「立ち小便」のことを考えていた。

 日本学術会議への内閣総理大臣による人事介入は、明々白々たる、法律違反である。この法律違反は、凡百の左翼や自称「リベラル」たちがこぞって指摘する「学問の自由に対する侵害」などという美辞麗句ぎみなピントのずれた指摘とは別次元にある、さらにシビアで深刻な問題なのだ。

◆歴史上稀に見る無法な為政者、菅義偉

 菅総理は総裁選の最中に「公務員が内閣の方針に反対するなら退いてもらう」と言っている。また一方で「我々は選挙で選ばれたのだから、前例踏襲をよしとせず、さまざまな改革に着手する」とも言っている。そして日本学術会議については「会員は公務員である」と言いのけている。この3つを合わせて考えると「日本学術会議を根拠づける日本学術会議法の条文と、同法に基づくこれまでの国会答弁では、内閣総理大臣による人事介入は厳に禁じられるところであるが、我々は選挙で選ばれた以上、法律や前例に囚われることなく、その方針に反対する公務員の首をはねていくわけで、日本学術会議に人事介入するのは、法はどうであれ当然である」と言っているに等しい。

 これほど無法な為政者は前代未聞といっていい。あの習近平でさえ、チベットやウイグルや内蒙古を弾圧するのに、前もって法律を用意する。香港の言論人やプロテスターを弾圧する際に、北京政府が「香港国家安全維持法案」なる法律を新たに用意した姿を我々はつい最近目撃したばかりだ。

 その権力掌握の過程を後年「Machtergreifung (マハトエアグライフング)」=「権力乗っ取り」と揶揄されることになるナチスによる権力掌握でさえ、当事者であるヒトラーもゲッペルスもその最中には「完全に合法であること」を主張していたし、「あんなものは泥棒である」とこき下ろす後年の史家でさえ「法の欠陥をついてはいるものの、合法といえば合法である」と主張せざるをえない手順を踏んでいる。

 しかしながら菅首相は「合法か非合法かは、自分たちが選挙で選ばれた以上、問題ではない」と嘯うそぶいているのだ。習近平やヒトラーよりも醜悪とするほかあるまい。

 そう考えた私は、この菅首相による「法の支配の否定」を糾弾するためにも、そして「学問の自由が毀損される」と腕を組んで斜に構えるだけでなにもしない言論人たちに掣肘を加えるためにも、「合法か非合法かなどどうでもいいと嘯く相手に、常の手段で対抗できるわけがあるまい」と、ハンガーストライキを決行するに及んだ。

 相手は既存の法を無視すると宣言する輩だ。それは語の全き意味での「暴力」。確かに「ペンは剣より強し」だが、ペンが剣より強いのは、その剣がペンの隣でふるわれている場合に限る。剣がペンそのものを標的にする場合、いかにペンでも剣には勝てない。剣の対象となったペンはその瞬間は黙らざるをえず、ペンの強さの発揮を他者=たとえば海外のジャーナリストや、後世の史家に委ねねばならぬ。今次の菅首相による剣の発動は、学者のみならず目下の日本でペンを握る人全てを対象としている。その末席に連なる自分としては、菅義偉による血祭りにあげられるぐらいならば、暴力は暴力でも「自分に向けた暴力」で、それに対抗するしかあるまいと、考えたのだ。ハンストに突入したのは10月2日の19時。それから25日間、当初の3日間だけはオレンジジュースを飲んだものの、その後は、水と塩と経口補水液とコーヒーだけで過ごし、最後の5日間は完全に水と塩だけを摂取しながら、雨の多い今年の10月の大半を官邸前の路上で費やした。その経過については別稿にゆずるとして、さてこそ、立ち小便の話である。

◆官邸前で寝泊まりし気がついたこと

 初日10月2日は19時からスタートしたということもあり何事もなく夜を迎え、そのまま路上で就寝した。翌朝、屋根のない路上の寝床には、当然のように朝日が燦々と照りつける。爽やかな朝の日光に叩き起こされたのがたしか5時ごろ。早朝のこととて、官邸前の歩道には人影ひとつもない。ただ歩哨に立つ機動隊員が暇そうにあくびをしているだけであった。

 その時である。「あ。ここ、立ち小便できるな」とふと気付いたのだ。伸び放題に放置されている雑草。誰も拾う人とてなく錆びたまま転んでいる空き缶。雨と雑踏でしかたなく路上にこびりつく紙ゴミ。汚れるがままに放置される官邸の煤けた外観。これで放置自動車の1台でもあれば、目に飛び込んでくる光景は完全にスラム街のそれだ。それになんだこの悪臭は! 掃く人も拾う人もいないために雑踏にふまれ臭いを撒き散らす銀杏の群れ。それに加えて、施工の荒さから常にカタカタ音をならすマンホールから立ち昇る下水の臭いがないまぜになったものすごい悪臭が、容赦無く鼻腔を襲撃してくる。いつもの朝なら大きく伸びをし深呼吸の一つでもするところだが、とてもそんな気にならない。とにかく臭く、汚く、荒れ放題に荒れている……それが、我が国の官邸前の現実だ。

 いろんな映画のことを思い出していた。スパイク・リーの『Do the Right Thing』で「マイノリティーの街」として描かれるあのブルックリンの片隅より、現実世界の日本の官邸前の方がはるかに汚い。小津の『秋刀魚の味』で東野英治郎がやっているあの中華屋は「空襲の焼け跡が未だに残る汚い場末」として描かれるが、おそらくいまの首相官邸前の方が汚く不潔だろう。杉村春子は婚期を逃したことではなく、環境の不潔さに慄おののいて泣き崩れるはずだ。

◆「公共」が失われた空間

 冒頭で、「立ち小便できる街か否か」の線引きを見極めるため、祇園甲部、宮川町、先斗町、神楽坂、歌舞伎町、渋谷など具体的な町の名前を出した。どの街でなら立ち小便できるかどうかは諸兄それぞれのご判断があろう。が、先にも触れたように、その線引きは、街の美観や人通りの多寡や治安によって決まるものではあるまい。おそらくそれは、「手入れのされてなさ」「放置のされっぷり」つまりは、「誰もその街を自分の領分だと認識していない様子」によって決まるもののはずだ。

 なればこそ、冒頭であげた実際の街や、映画の舞台となった街で、私自身は、おそらく立ち小便することはない。スパイクリーはあのブルックリンの片隅を、間違いなく「コミュニティ」として描いているし、東野英治郎がラーメンを作るあの場末は場末といえども「商店街」「街場」であり、そうである以上、そこには共同体がある。渋谷や歌舞伎町は野放図にみえても、そこには華夷秩序にも似たゆるやかなコミュニティが存在しているし、祇園、宮川町、先斗町、神楽坂などの花街は、花街なればこその強固かつ堅牢な自治組織が存在する。つまりこれらの街は、「自分の街であり、自分の領分である」と認識する人々が、「自分がそう認識する以上、自分と同じように『自分の街であり自分の領分である』と認識する他人が存在するはずだ」との前提にたって行き交う街である。そしてそう認識する人々が行き交う場所を、人は、「公共」と呼ぶ。「公共」であれば、なるほど、立ち小便は叶うまい。

 しかし官邸前にはその肝心の「公共」の雰囲気がない。官邸、議員会館、国会記者会館、内閣府、内閣官房などなど、まさに我が国の「中枢」ともいうべき施設がひしめき合う街角であり、それらの施設に出入りするおそらくは我が国最高学府を卒業したであろう人士が行き交うに街角であるにもかかわらず、誰もがその街角を「自分のもの」「自分がそう認識する以上、他者もそう認識する場所のはずだ」と認識していない。そう認識する人がいなければ、それは「公共」な空間たりえず、誰もが「自分の領域である」と思わないのであれば、それは「私的な空間」ですらない。強いて言うならば、「無主の地」だ。そうとしかいいようがないほどに、官邸前は放置され、荒れ放題になっている。25日間のハンスト期間中、あの道路に面するどの施設からも、歩道を掃く人が出てくる姿を目撃しなかった。「無主の地」なればこそだろう。

 そんな「公共」のない「無主の地」で、我が国の公共政策は立案され遂行されている。

 そしてその頂点で首相は「意に反する公務員は首を切る」と嘯いている。その光景が、どんなスラム街のどんな薄暗い路地裏でおこなわれるどんな薄汚い犯罪よりも醜悪なものになるのも、いたしかたあるまい。

<文/菅野完>

初出:Forum21 11月号

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