お上の意向に逆らうから「反発」? 記者の無意識のバイアスを問い直す
2021年02月13日 08時33分 ハーバー・ビジネス・オンライン

Wellphoto / PIXTA(ピクスタ)
◆「お上」に逆らうから「反発」?
「野党は反発」などの形で多用される「反発」という言葉遣い。その「反発」という言葉が用いられる文脈を、今回はさらに考えてみたい。前回は、菅義偉首相の長男らの総務省幹部との会食問題について、野党の動きを「反発」と表現する一方で、菅義偉首相については「色をなして反論」と、「反発」とは表現しなかった例を取り上げた。
この「反発」という言葉をめぐっては、「政治と報道」をめぐる昨年の短期集中連載の第8回でも、事例をとりあげつつ詳しく検討している。
●上西充子「【HBO!】「対戦ゲーム」のように国会を報じることで見えなくされていること 」(ハーバー・ビジネス・オンライン、2020年12月12日)
上記の記事で紹介したように、「田村憲久厚生労働相は『(アベノマスクについては)国民から感謝やお礼の声もいただいている』と反論した」や、「(安倍)首相は『私がウソをついているというのであれば、(ウソだと)説明するのはそちら側だ』などと拒否し続けた」のように、野党であれば「反発」と表現してよさそうな場面で、首相や大臣については「反発」という言葉が避けられていることが注目される。
では、「反発」という表現を用いる場合と用いない場合は、どう使い分けられているのだろうか。どうやら多くの場合、「お上」が示す反応については「反発」という言葉は避けられ、「お上」の意向に逆らう側には「反発」という言葉が使われているように思われるのだ。
「いや、大本営発表の時代じゃあるまいし」と思うのだが、たぶん、記者の方々も無意識のうちに使い分けをおこなっているのではないだろうか。その記者の方々に無意識のバイアスを問い直していただくためにも、以下で具体的に検討していきたい。
◆「反発」は個人に対しては使わない?
まず、首相については「反発」の言葉を使わないが野党については「反発」の言葉を使うのは、「反発」が個人の動きを表す言葉ではないからだ、という仮説を考えてみよう。確かに「野党は反発」「野党議員らは反発」などと使われる場合が多い。しかし、反証例はすぐに見つかる。
例えば、以下の記事は、大西健介議員個人について、「反発」と記されている例だ。
●水道「民営化」採決強行 きょうにも成立 衆院委で与党(朝日新聞デジタル、2018年12月6日)
“国民民主党の大西健介理事は「水メジャーとの癒着の疑いが浮かび上がっている。特定の利害関係のある企業に水を売り渡す、そういう恐れがある。拙速なやり方で法案を強行することは間違っている」と反発した。”
さらに、個人について「反発」を使っている例は、野党議員に限らない。下記はお笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳氏について「反発」という言葉が使われた例だ。
●ロンブー淳さん、聖火走者を辞退 森氏発言に反発 (毎日新聞、2021年2月4日中部朝刊)
“田村さんは大会組織委員会の森喜朗会長が2日、自民党のスポーツ政策を推進する会合で行った発言を疑問視。「オリンピックはコロナがどんな形であっても開催するんだという理解不能な発言をされていて、同意しかねる」などと発言した。さらに「有名人は田んぼを走ったらいいんじゃないか」と発言したことについて、田村さんは「農家の方にも失礼だと思う」と批判した。”
文中には「批判」とあるが、見出しは「反発」だ。
◆「反発」は記者が評価に踏み込まないための表現?
「反発」という言葉は、「反論」「批判」「抗議」「疑問視」などの言葉に比べて、そのような行動に出た根拠にあえて目を向けない表現だ。そのような表現を用いるのは、「反発」している者の行動の是非や正当性をあえて問わないため、という仮説もなりたつだろう。報道が公正中立を守り、特定の勢力に加担しないためだ、と。
しかし、もしそうであるなら、首相についても「色をなして反論」と言わず「反発」というべきだ。だが、野党や世論に対して、「首相は反発」とか「官邸は反発」とか「政権は反発」などと報じる例は、見かけない。……と書こうとしていたら、見つけた。次の例だ。
●森友学園への国有地売却、参院委で追及(朝日新聞、2017年3月2日)
南彰記者と三輪さち子記者によるこの記事では、次のように安倍晋三首相(当時)について、「反発」という言葉が使われている。
“――野党側は、名誉校長だった首相の妻昭恵氏の影響力を例示し、同学園の「広告塔」と表現した。首相は反発した。
小池氏 首相夫人は籠池氏といつから知り合いで何度会っているのか。
首相 いつか分かりませんよ。妻は私人なんです。妻をまるで犯罪者扱いするのは不愉快ですよ。
小池氏 犯罪者扱いなんてしていない。言葉を撤回して下さい。
首相 そういう印象を受けた。尋問調におっしゃるから。“
この時の安倍首相のように、感情的に相手を理もなく非難する、こういう反応は「反発」と表現するのにふさわしく思える。
他方で、いくら野党議員が感情を押さえて論理的に問題を指摘しても、それを「野党は反発」と表現するのはおかしいし、政府与党が強引に議事進行したり法案を強行採決したりしようとするのに抗議する野党の動きを「野党は反発」と表現するのもおかしい。
そのように「野党は反発」という表現を用いることは、中立にとどまり、敢えて評価に踏み込まないための表現であるというより、野党の側に理があることに敢えて目を向けないための表現であるように見える。
なぜなら、野党の批判や抗議行動に対しては、「かみついた」「いらだちをぶつけた」などという感情的な表現が平気で使われるからだ。
“従来通りの答弁に枝野氏がかみついた。「連日おっしゃっている。2カ月前からおっしゃっていることの繰り返しなんですよ」”
●(時時刻刻)首相、変えず・答えず・認めず 増えぬ検査、与党も苦言 衆院予算委(朝日新聞2020年4月29日)
“言葉ばかりの反省に「何をしにここに来られた」「相変わらず変わっていない」といらだちをぶつけた辻元氏。”
●「桜」疑惑 安倍氏国会質疑(東京新聞、2020年12月26日)
(筆者の記事で紹介したもの)
野党は、「かみついて」「反発」する。それに対して政府は「反論」し、もしくは「かわす」。そういう政治報道の言葉遣いには、政権寄りのバイアスがかかっているように見える。
◆「反発」するのは、感情的な人たち?
「いや、実際、野党の反応は感情的だし」と思う人もいるかもしれない。では、これはどうだろう。
●五輪の理念どこへ…森氏辞任求めネット署名、広がる反発:朝日新聞デジタル(2021年2月5日)
“東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)の女性蔑視発言とその後の対応への反発が広がっている。森会長は発言を撤回、謝罪したが、個人を尊重し、差別を許さない五輪憲章に共感し、大会に関わってきた人たちからの批判はやまず、辞任を求める声も出ている。”
「いや、反発じゃないし。批判だし」と思わないだろうか。見出しは「広がる反発」と書かずに「批判広がる」と書けばいいし、本文も「反発が広がっている」と書かずに「批判が広がっている」と書けばいいのに、なぜ、そうしないのだろう。
一方、同じ問題を取り上げた毎日新聞は、「反発」ではなく「批判」という言葉を使っている。
●クローズアップ 「女性蔑視」発言 「森氏辞任を」世論うねり ボランティア大量辞退/署名14万筆/スポンサー「遺憾」(毎日新聞、2021年2月10日)
“東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)の女性蔑視発言とその後の対応への批判がやまない。”
“市民による抗議も勢いを増す。”
こちらの方が、しっくりくるのではないか。
◆言葉が変われば、受けとめも変わる
「反発」と「批判」。どちらの言葉が使われているかによって、読者による問題の受けとめは変わってくる。言い換えれば、言葉遣い一つで、その問題に対する読者の認識を操作することもできてしまう。言葉にはそれだけの力がある。ぜひ報道各社には、「反発」という言葉遣いを見直していただきたい。
上述の田村淳氏の聖火ランナー辞退の報じ方をもう一度見てみよう。
●ロンブー淳さん、聖火走者を辞退 森氏発言に反発 - 毎日新聞(2021年2月4日中部朝刊)
●田村淳さん、聖火ランナー辞退 森氏の「五輪やり抜く」発言批判 - 毎日新聞(2021年2月5日東京朝刊)
同じ田村淳氏の対応を伝える毎日新聞の記事でも、別の記者による別の記事では、「反発」ではなく「批判」が用いられていた。どうだろう。「批判」というほうが、その発言主体が尊重されている印象を受けないだろうか。
さて、ここで思い出されるのが、今回の一連の問題の中での森喜朗氏(東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長)と二階俊博氏(自民党幹事長)の次の発言だ。
●森喜朗「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」
(2月3日、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会にて)
(「『女性がたくさん入っている会議は時間かかる』森喜朗氏」朝日新聞、2021年2月3日)
●二階俊博「そのようなことですぐやめちゃいましょうとか、何しようか、ということは一時、瞬間には言っても、協力して立派に仕上げましょうということになるんじゃないか」
(2月8日、記者会見にて)
(「二階幹事長、ボランティア辞退は『瞬間的』 五輪巡り」朝日新聞、2021年2月8日)
この森会長の発言は、女性は考えなしに発言したがるような言い方だし、二階幹事長の発言も、ボランティアの人たちは考えもなしに瞬間的な反応で辞退を申し出ていると見ているような言い方だ。
どちらも相手に対する敬意を欠いている。麻生太郎副総理兼財務大臣は2月9日の衆院予算委員会で立憲民主党の山本和嘉子議員に問われて、
「ボランティアは大きな大会をやるときに必要な大きな力だ。そういった方々に対する敬意を欠いている」
と答弁したという。批判を受けての対応であり、オリンピックの円滑な運営に向けての発言だろう。
●森喜朗氏の女性蔑視発言 平沢復興相「五輪開催に支障なし」 麻生氏は「不適切」(毎日新聞、2021年2月19日)
さて、記者の皆さんに問いたい。「反発が広がっている」という言い方は、市民への敬意を欠いているとは思わないだろうか。「野党は反発」という言い方は、野党議員への敬意を欠いているとは思わないだろうか。
敬意を欠いているつもりはないと言うのであれば、「反発」という言葉遣いを自制していただけないだろうか。
◆【追記】 「政府内で反発の声」
ここまでを書き終えたあとで、森喜朗会長の後任人事に関するニュースで「政府内で反発の声」という表現が出てきた。
●川淵氏“後継指名” 政府内で反発の声 (日テレNEWS24、2021年2月12日)
“東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会は、12日午後3時から臨時の会合を開き、森会長が女性蔑視発言について自ら謝罪し、正式に辞任を表明する予定です。また、新しい会長の選考について話し合いが行われます。
政府内からは、森会長が川淵氏を後継指名したことについて反発する声があがっていて、人事を白紙に戻し再調整すべきとの意見が出ています。
組織委員会が会長人事を白紙に戻そうとした背景には、政府内から森会長の後継指名に「密室だ」「透明性がない」など強い反発の声があがったことがあります。
(中略)
立憲民主党の幹部は「遅きに失した。菅総理がまったくリーダーシップをとれなかった」と述べるなど、野党側は批判を強めていて、今後の政権運営にも影響を与えることになります。“
「政府内」について「反発」という表現が使われており、さらに「野党側」については「反発」ではなく「批判」という表現が使われている。
さあ、困った。お上の意向に逆らうから「反発」、というこの記事の見立てが崩れてしまう……と思ったのだが、考えてみれば、見立てを撤回しなくてもよいのかもしれない。なぜなら森会長の後任に川淵三郎氏をあてるという件は森会長が川淵氏に依頼したものだったが、川淵氏が記者に語ったところによれば、菅義偉首相は「もっと若い人を、女性はいないか」と語っていたらしく(下記の記事を参照)、その菅首相の意向に森会長が従わなかったからこそ、川淵氏が後任となる見通しだったからだ(結局、川淵氏が後任の会長となる案は撤回されたが)。
●バッハ氏が女性共同会長提案 川淵氏「森氏から聞いた」(朝日新聞、2021年2月11日)
つまり、力関係で見ると菅首相よりも森会長の方が「上」であると見られ、森会長が川淵氏を後継指名したことについて、政府内から「反発の声」があがった、と表現することは、「反発」=「お上に逆らう」という図式からは、やはり、はずれてはいない。会食の場における上座と下座の位置関係を考えると分かりやすい。
森会長の後継人事はやり直しとなったし、菅首相の長男による「接待」疑惑はさらに深まったし、いろいろと政治が動く情勢となってきた。「反発」という言葉が政治報道にこれからも頻出するのか、それとも表現の見直しが進むのか、皆さんもぜひ、注視していただきたい。
2021/02/14追記
この記事に関し、対外的な記事において「日本政府は反発」といった表現はあり、その場合に記事執筆者が相手を「日本政府より目上」と考えているとも思えず、議論の前提自体が揺らぐ、という趣旨のコメントをいただきました。ご指摘の通りで、この点は再考し、次回の記事で触れたいと考えています。
<文/上西充子>
【上西充子】
Twitter ID:@mu0283
うえにしみつこ●法政大学キャリアデザイン学部教授。共著に『大学生のためのアルバイト・就活トラブルQ&A』(旬報社)など。働き方改革関連法案について活発な発言を行い、「国会パブリックビューイング」代表として、国会審議を可視化する活動を行っている。また、『日本を壊した安倍政権』に共著として参加、『緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説 「安倍政権が不信任に足る7つの理由」』の解説、脚注を執筆している(ともに扶桑社)。単著『呪いの言葉の解きかた』(晶文社)、『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ)ともに好評発売中。本サイト連載をまとめた新書『政治と報道 報道不信の根源』(小社刊)も近日発売。