グローバル企業傘下で創薬研究に集中する――小坂達朗(中外製薬代表取締役会長)【佐藤優の頂上対決】

「2万6千分の1の確率」とも言われる新薬開発の世界。十数年に亘る長い時間と費用が掛かるこの過酷な分野で、画期的な新薬を次々と世に送り出しているのが中外製薬だ。その背景には、世界トップの製薬会社ロシュと提携してお互いの長所を生かし合う巧みな経営術があった。

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佐藤 日本の医療用医薬品市場で中外製薬の売上高は第4位ですが、時価総額ではトップになりました。業績が非常に好調な上に、将来性もある、と株式市場から期待されていますね。

小坂 恐れ入ります。いま、私どもの成長を支えているのは、四つの製品です。一つは、関節リウマチなどの薬剤である「アクテムラ」で、免疫に関与するIL−6というタンパク質に作用して、炎症を抑えます。

佐藤 この薬は新型コロナの治療薬としても脚光を浴びました。

小坂 新型コロナウイルスに感染すると、サイトカインストームと呼ばれる免疫の暴走が起こることがあります。IL−6は免疫反応に関わるので、治療薬としての可能性を検討しています。この薬は大阪大学との共同研究から生まれ、2005年に発売したものです。

佐藤 日本発の薬なのですね。

小坂 そうです。そして二つ目は、「アレセンサ」という、特定の肺がんに対する経口の薬剤です。これは2014年に生まれ、世界で非常に多く処方されています。

佐藤 いわゆる抗がん剤ですね。

小坂 はい。そして三つ目は血友病A治療薬「ヘムライブラ」です。この薬は出血をきちんと抑え、投与法が簡便で投薬頻度も少なくてすむ。2018年に発売されたばかりですが、血友病の方のクオリティ・オブ・ライフを改善する点が高く評価されています。

佐藤 一般には馴染みがありませんが、患者さんにとっては画期的な薬なのですね。

小坂 それからもう一つ、20年に発売した「エンスプリング」という薬剤があります。適応症は視神経脊髄炎スペクトラム障害で、アクテムラ同様、自己免疫疾患の薬です。

佐藤 どれも最近、開発された新薬ばかりですね。

小坂 そうです。弊社が提携するスイスの製薬会社ロシュの、世界での売り上げは、アクテムラ、アレセンサ、ヘムライブラの3製品だけで年間6千億円を超えます。

佐藤 すごいですね。世界最大の製薬会社ロシュを通じて、中外製薬の薬が全世界で売れている。ロシュとの提携は、お互いに利益をもたらし、奇跡の提携と言われています。ロシュが中外製薬の株式の過半数を持ちつつも、自主独立経営を維持していることが成長の根幹にある。

小坂 弊社は02年にロシュとの戦略的提携をスタートし、ロシュ・グループに入りました。その前には社内でかなり議論をしました。弊社には国内外の各界専門家を入れた助言機関がありますが、そこからもいろいろ意見をいただきました。

佐藤 当時、会社の状態が悪かったわけではないですよね。

小坂 赤字ではなく、十分に利益は出ていました。

佐藤 それでもその決断をされた。それはなぜですか。

小坂 創薬研究を続けたい、ということですね。提携を模索しはじめたころ、すでに医薬品の研究開発費は高騰し、当社が単独で賄い続けることが難しいとわかっていました。当時の社長の永山とロシュのフーマーCEOが、二人で共に成長する大きな絵を描きました。グループには、アメリカのバイオインダストリーの雄と言われるジェネンテックもあります。弊社としては、そうした環境の中で、より強く成長していくことができると考えました。

佐藤 大きな決断だったと思います。

小坂 株式の50・1%をロシュが取得しましたが、私どもにも譲れない条件がありました。それが自主経営と東証1部上場維持です。

佐藤 グローバル企業に株を握られてしまうと、経営陣が乗り込んできて、彼らのやり方で会社を変えられてしまうこともあります。

小坂 経営の独立には、取締役会の構成が重要ですが、全9名のうち、業務執行取締役3名はすべて社内から出ています。また社外の独立取締役が3名、ここまではすべて日本人です。ロシュからは、ロシュの取締役会議長や医薬品事業のCEOなど3名が入っていますが、いわゆる監督の立場です。

佐藤 信頼できるパートナーだったわけですね。

小坂 現在、ロシュの保有比率は約60%まで増えていますが、その経営方針は非常にディセントラライズド(分散型)で、イノベーションはもちろん、マネジメントもその国に任せている。

佐藤 それはスイスの会社だからかもしれませんね。彼らは自身がスイス人であることに強い誇りを持っていますが、同時に国際的に広く開かれています。現地に行くと、英語がよく通じますし、ヨーロッパの中のアメリカみたいなところがある。

小坂 スイスは国が小さく、自国の市場だけではやっていけません。ですから必然的にグローバル企業になっていきますね。ロシュも非常に国際化されていて、マネジメントの幹部となると、CEOはオーストリア人ですし、医薬品事業のCEOはアメリカ人で、スイス人は数えるほどしかいません。

佐藤 提携が始まった02年は、日本の一つの転換点だったと思います。実は私が鈴木宗男事件に絡んで逮捕されたのがこの年でした。鈴木さんは言ってみれば、伝統的保守政治家です。政治権力によって中央にある利権を、土木建設業を通じて地方に分配していく。そうしたやり方をしているところへ、効率性を重視する新自由主義の波がやってきた。それは政治経済にも外交にも影響を与え、何事もグローバル化を前提に考えなければならなくなりました。だから鈴木さんがこの年に排除されたのはとても象徴的なことだと思うのです。

小坂 製薬業界も、弊社とロシュとの戦略的提携後、グローバル化を見据えた業界再編が起きました。大きなところだと、05年に山之内製薬と藤沢薬品が合併してアステラス製薬となり、07年には第一製薬と三共が第一三共となりました。確かに02年あたりを機に、製薬業界も大きく変わったと思います。

■創薬に専念できる体制


佐藤 具体的にロシュとの提携のメリットはどこにあるのですか。

小坂 まず日本においては、ロシュが扱う薬剤すべてが弊社に入ってきます。ロシュは年間1兆円以上の研究開発費を投じていますが、それによって生まれた薬剤が、グループのジェネンテックの薬剤を含め、すべて入ってきます。ファースト・リフューザル・ライト(第一選択権)を得ているからです。

佐藤 それで国内では非常に安定的なビジネスができるわけですね。

小坂 一方、海外では世界中に張り巡らしてあるロシュの販売網が使えます。

佐藤 先ほどの、成長を支える4種類の薬も、その販売網を使って世界で展開されている。

小坂 その通りです。世界各国で独自に販売のインフラを作るには、ものすごくお金と労力が必要です。そしてさらに重要なのは、新薬開発です。新薬は基礎研究から始まり、動物実験、3段階の臨床試験を経て薬としての承認を申請します。弊社は基礎研究からプルーフ・オブ・コンセプト、つまり、研究段階で構想した薬効の臨床における有効性の立証までを自社で行い、最終段階の大規模臨床試験であるフェーズIIIは、ロシュのグローバルネットワークを通じて実施します。このフェーズIIIの実施には多額の費用がかかり、会社の規模が重要になってきます。

佐藤 なるほど。そこはロシュに任せてしまったほうが効率がいい。

小坂 弊社はあくまで創薬にこだわり、研究開発を続けます。ロシュとの提携で、イノベーションに経営資源を集中できる体制なのです。

佐藤 ただ創薬は非常に難しいですよね。新薬ができるのはどのくらいの確率ですか。

小坂 2万6千分の1と言われています。また一つの新薬を開発するのに、だいたい9年から17年、費用は数百億円から2500億円くらいかかります。薬を反対から読むとリスクとなりますが、やはり非常にリスクの高いビジネスであることは間違いないですね。

佐藤 その中で中外製薬は次々と新薬を出されている。他社とは違う方法論があるのですか。

小坂 創薬には、二つのアプローチがあります。一つは疾患領域を決めて、社内外のリソース(資源)を投入していく。例えば、循環器とかがんとか、先に領域を決めて、そこから新薬を開発していきます。

佐藤 治療すべき部位から考えるということですね。

小坂 もう一つは、技術から入る。薬剤を分子量で分類すると、500以下の低分子医薬、500〜2千程度の中分子医薬、そして約15万の抗体医薬と大きく分けられ、それぞれに必要な創薬技術があります。競争力のある技術を有し、それを生かすことで、どんな疾患でもいいからアンメット・メディカル・ニーズ(まだ治療法が見つかっていない疾患に対する医療ニーズ)のあるところで創薬する。

佐藤 得意分野を生かすことから創薬を考えるわけですね。

小坂 どちらがいいということはありませんが、弊社は後者です。技術ドリブン(技術主導型)ですね。

佐藤 得意分野はどこですか。

小坂 抗体医薬です。バイオテクノロジーで人工的に作った抗体を医薬品として利用するもので、病原を狙ってピンポイントで働きますから、副作用が少ない。弊社はバイオ医薬品を1980年代から手掛け、さまざまな抗体のエンジニアリング技術を開発し、薬を生み出してきました。

佐藤 例えばどんな薬ですか。

小坂 先ほどのアクテムラやヘムライブラが抗体医薬品です。

佐藤 その技術がいまの中外製薬を支えている。

小坂 次代の創薬では、中分子医薬に取り組みます。抗体医薬は分子量のサイズが大きく、薬として十分な量を腸で吸収することが難しいので、基本的に経口投与できません。細胞の中に入っていけませんし、遺伝子組換え技術を用いて製造するため非常に高価です。これに対し、中分子医薬は、低分子医薬のように化学合成が可能で、細胞膜を通過して細胞に入るようにすることもできます。これからは中分子医薬の創薬にも力を入れていきます。

■イノベーション人材


佐藤 創薬中心に会社を動かしていくと、やはり人材が非常に重要になってきます。人材のマネジメントではどんなことに留意されていますか。

小坂 イノベーションのためには、やはり多様化が必要です。ジェンダー、ナショナリティ、そして経歴と、さまざまな人たちが交じり合うダイバーシティ(多様性)のある環境で創薬していく。その上で欲しいのは、自分で勉強して成長してくれる人材ですね。そしてイノベーションを楽しむことのできる人がいい。

佐藤 従業員7500人ほどのうち、研究者はどのくらいでしょう。

小坂 千人ほどいます。

佐藤 研究開発者の処遇は大変ではありませんか。例えば、青色発光ダイオードを発明した中村修二氏は勤めていた会社に訴訟を起こしました。あるいは、ノーベル賞学者の本庶佑氏は共同研究した会社を訴えている。いずれも発明の対価を巡ってですが、こうなると成功しても会社に与えるダメージは大きいし、働いている人たちも不愉快な気分になってしまう。

小坂 弊社ではイノベーションで特許を得た場合、売り上げや特許期間などを加味して、それなりの対価を出すきちんとしたルールがあります。

佐藤 そこは重要なポイントですね、そしていかに「健全な愛社精神」を育むかが重要になります。

小坂 愛社精神は大事ですね。いまはエンゲージメント(関わり・参加)という言い方もあり、そのベースはもちろん愛社精神ですが、やはり時代の流れで変わってきたところがあります。社員のエンゲージメントを高めるためにもっとも大事なのは、会社が何のために存在するのか、つまりミッションを明確にして、しっかり社員に伝えることだと思います。弊社の場合は、画期的な医薬品やサービスを通じて、世界の医療と患者さんに貢献していくことです。それが伝われば、自分のやっている仕事がどう社会の役に立っているかがわかる。

佐藤 人事においては、退職者の活用を進めておられますね。

小坂 06年から退職者の再雇用制度を設けていたのですが、昨年、制度を刷新し、対象を拡大しています。自己都合で他の会社に転職した人でも、戻りたければ復帰してもらいます。

佐藤 他流試合をしてきた人たちは、モノの見方が違いますからね。

小坂 やはり多様な人材ということです。退職した元社員に情報を提供し、関係を保つ制度にしています。

佐藤 同時にDX(デジタルトランスフォーメーション=変革)にも力を入れておられますね。

小坂 19年度の本決算で、DXが社会を変え、産業を変え、中外製薬を変えると話しましたが、こうした組織改革はトップから発信しないと進みません。

佐藤 女性の執行役員を日本IBMからヘッドハンティングされたことが話題になりました。

小坂 彼女を中心とするデジタル・IT統轄部門を創設し、昨年3月に「CHUGAI DIGITAL VISION 2030」というロードマップを発表しました。まずはデジタルの基盤を強くします。これは人もシステムも対象とします。そしてセカンドステップでは、研究から開発、生産、営業、管理部門まで、バリューチェーンのすべてをDXで効率化していく。さらにその次には、AI(人工知能)を使って創薬を行います。

佐藤 DXがただの効率化に終わらないことが大切です。

小坂 その通りで、DXが付加価値を生み出していかないといけない。弊社の場合は、AIなどのデジタル技術で画期的な新薬作りをすることが最終目標です。

佐藤 AIを使うと、どのくらい期間や費用を短縮できそうですか。

小坂 まだ始まったばかりで何とも言えませんが、プロセスの効率化や優れた新薬候補物質の発見に活用できます。将来は期間・費用が大きく短縮できることを期待しています。


■製薬を基幹産業に


佐藤 今回のコロナ禍では、日本からワクチンが生まれませんでした。これはどのへんに原因があるのでしょうか。

小坂 弊社は新型コロナのワクチン開発はやっていませんが、やはり欧米の動きを見て、どうしてこんなに差がついたのか、という思いにはなりましたね。要因の一つは、欧米が未知の感染症やテロへの対策として研究をしていたことがあるでしょう。02年のSARS、12年のMERS流行があり、またアメリカ政府などはバイオテロ対策として感染症研究に大きな投資をしてきました。

佐藤 それはロシアも同じですね。経済力から言ったら、ロシアがワクチン開発で欧米と並ぶことは考えられません。でも生物兵器の研究をしていますから、その積み重ねが新型コロナワクチン「スプートニクV」として出てきた。

小坂 もう一つは、アメリカ、ヨーロッパとも創薬ベンチャーが非常に多いことですね。政府から支援を受けているところもあり、そうした会社と大手企業が提携したりする。ファイザー社のワクチンは、ドイツのビオンテック社の開発したmRNAワクチンが元になっていますが、同社はトルコ出身のサイエンティストが作ったと聞いています。

佐藤 まさに多様性ですね。

小坂 これをファイザーが引き受け、非常に大きなエンジンで、通常、5年から10年かかるところを1年未満で開発した。製造についてもファイザーだからすぐ量産できたのです。

佐藤 億単位のワクチンを作るには大規模な設備が要りますからね。

小坂 残念ながら日本の場合、ベンチャーに対する政府の支援も弱いし、大企業との提携も少なく、ベンチャーが育つ風土自体ができていない。

佐藤 ベンチャーは中小企業ですから、銀行からお金を借りると、個人で連帯保証しなければならなくなります。そうすると失敗できませんから、二の足を踏む人も出てくる。

小坂 それからマインドセット(思考様式)もまだまだです。アカデミアとビジネスが繋がっていない。

佐藤 確かに大学では、ビジネスに必要な知識を研究者にまったく与えていません。

小坂 実は世界で創薬できる国は、10カ国くらいしかありません。

佐藤 一応、日本はそこに入っている。

小坂 それどころか、アメリカに次いで2番目の実力があります。ただ、これからはそうでなくなるかもしれない。今年から日本では毎年薬価の改定があり、薬の値段がどんどん下がっていきます。しかも特許があるものでもどんどん価格が落ちていく。そんな国は日本くらいです。

佐藤 国家財政の大部分は社会保障費、それも医療費と介護費です。制度を維持するにはそこを削るしかないと考えられている。

小坂 いまの日本の薬剤市場はだいたい10兆円で、これが大きく増えるとは思っていません。ただその中でメリハリはつけてほしい。やはり画期的な新薬は、その価値に見合う価格をつけていただきたいですね。

佐藤 それは正当な要求です。

小坂 日本の製薬産業は、自動車産業に次いで税金を多く払っています。資源の少ない日本にあって、知的財産である製薬は、大きく成長する可能性があります。医療の質の向上や経済成長、そして安全保障の問題も含めて考えれば、製薬産業を日本の基幹産業にしていくべきだと思っています。

小坂達朗(こさかたつろう) 中外製薬代表取締役会長
1953年東京生まれ。北海道大学農学部卒。76年中外製薬入社。国際部、ニューヨーク駐在を経て、95年英国の中外ファーマ・ヨーロッパ副社長。2000年医薬事業戦略室長、02年執行役員経営企画部長となりロシュとの提携交渉の事務リーダーを務める。12年社長兼COO、18年社長兼CEO、20年より会長兼CEO。21年3月より現職。

「週刊新潮」2021年4月22日号 掲載

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