大地震で助け合った日本とニュージーランド、ヒーローだった日本の援助隊


ニュージーランドは、結構日本と似たところがあるのをご存じでしょうか。たとえば、国の形、島国であること、赤道を挟んで北半球と南半球のほぼ同じようなところに位置すること、そして湧き出る温泉を楽しめること。

と、ここまではいいのですが、どちらも火山国であり、地震国でもあるという、あまり喜べない共通点もあるのです。

ニュージーランドに住む筆者が知る日本人の間では、「ニュージーランドで地震があったら、必ず日本でも地震が起こる」というジンクスがあります。本当にそういうケースは何回かありましたから、まんざらジンクスでもないのかもしれません。

中でも2010年9月4日と2011年2月22日に起こったカンタベリー地震と2011年3月15日に起こった東日本大震災はよく「対」として考えられています。

■日本の援助隊は多数の死者を出したCTVビルで活動

東日本大震災がそうであったように、カンタベリー大地震も発災から10年を迎えました。

10年前の2月22日、マグニチュード6.3の地震が、クライストチャーチ市を含むカンタベリー地方で発生。震源地が市の中心部に近かったことや、地下5キロと比較的浅いところだったため、中心部に大きな被害を引き起こしました。

中心部のほぼ真ん中にあったCTV(カンタベリーテレビ)ビルは崩壊し、日本人28人を含む115人が亡くなりました。この地震による犠牲者数は全部で185人。その半数以上がCTVビルで命を落としたことになります。

そのCTVビルは、ニュージーランド政府からの支援要請で、日本からやって来た国際緊急援助隊(JDR)が救援活動を行った場所の1つです。

日本政府は発災日の午後には調査チームを送り出しました。JDRもそれを追うようにまず第一陣が翌日、第二陣、第三陣が期間を少しずつずらしてやって来ました。

2月24日から3月11日にかけて滞在し、ニュージーランドを支援してくれたのです。派遣人数は、計約130人に上りました。その迅速な対応にニュージーランド側は目を見張り、そして感謝しました。

■最後の最後まで続けた「捜索」活動

CTVビルで、当初JDRは24時間体制で捜索・救助活動に専念したそうです。3月3日にはニュージーランド政府が、捜索・救助活動から遺体発見にフェーズを移すことを発表したのですが、JDRが行った活動は最後まで「捜索」活動だったと、隊員の1人は話しています。

捜索・救助活動にしても、がれき撤去作業にしても、ニュージーランド側は、進んだ技術を持つ日本サイドに期待していたといわれています。

さらにJDRは定期的に会見を行い、日本から駆け付けた行方不明者の家族やマスコミに対しての情報提供も行いました。現場に立ち入ることを許されない犠牲者の家族に代わり、花を預かり、献花もしたそうです。

第二陣はCTVビルでの活動を第一陣から引き継ぐと同時に、市内の復旧を念頭に入れた捜索支援活動を担当しました。第三陣は建物の解体作業を行う前に、今一度捜索と所持品の回収を行いました。これを終え、捜索は完了です。

JDRの活動目的は生存者を救出することでしたが、残念ながら生存者は見つかりませんでした。地元の消防団員や救援隊員と共に、無残な姿で残るCTVビルに向かって、各陣ともJDR隊員は黙祷を捧げ、活動を終えました。

■ヒーロー待遇で迎えられたJDR

実際、真摯で前向きな活動を行ったJDRですが、活動地であるクライストチャーチに到着するまでにすでに市民から大歓迎を受けていました。機内では、機長自ら、隊員の搭乗を機内放送で乗客に知らせると、大きな拍手がわき起こったそうです。

またニュージーランドに着き、空港内を移動している時、人々は握手を求めたり、拍手を送ったりしました。皆心から感謝の気持ちを伝えていたのです。活動現場近くにある教会の牧師さんは、周辺に住む人々の感謝の気持ちを代表し、全隊員に心温まるメッセージ入りのカードと、プレゼントを贈りました。

市民だけではありません。ジョン・キー元首相や、アナンド・サティアナンド元総督夫妻といった、国内のキーパーソンも、感謝とねぎらいの言葉をかけました。

■一瞬にして立場が入れ替わった3月11日

状況が落ち着き、各国の捜索救援隊が帰国する中、ニュージーランド政府はJDRに対しても感謝の意を表しつつ、3月10日を活動の終結日とするよう勧めました。JDRはそのアドバイスを聞き入れ、11日の帰国を決めます。ほっと一息つけるはずの11日、JDRを迎えたのは東日本大震災でした。

東日本大震災発災が伝えられると、一瞬にして立場が入れ替わりました。今度はニュージーランドが日本を助ける番です。

ニュージーランド政府は日本政府の要請で、都市型捜索救助隊(USAR)48人を派遣することを決めました。これは国内のUSAR隊員の3分の1に当たります。まず6人が地震翌日の3月12日に、残りの隊員も14日までに現地入りを果たしました。

日本に派遣されることになった隊員たちは、寸前まで全員が依然として続くカンタベリー地震の余震の中、復旧作業に従事していました。自分たちの留守中に大きな余震が起こり、被害が出ても対応できるよう準備し、日本に向かったのです。

■過酷な状況でも、日本のために

ニュージーランドをはじめとする4カ国が捜索・救助を担当したのは、宮城県の南三陸町でした。高さ約20mにも及ぶ津波が町の中心部を襲い、住宅の約70%がほぼ全壊、町役場や病院、警察署、消防署といった公的施設にも甚大な被害が及んだところです。

ニュージーランドのUSARの任務は、まず生存者がいる可能性が高い場所を特定。生存者を発見した場合は救助作業を行い、安全なところまで移動させるというものでした。活動は、がれきが山積し、気温が零下まで下がることもある過酷な環境の下行われました。

他国の捜索救助隊が撤収を始めたのと同時期に、ニュージーランドのUSARも帰国を決めます。ニュージーランドに戻ったのは3月21日。オークランド空港に到着した時、閣僚や一般市民、隊員の家族など大勢の人が集まり、その貢献をたたえ、出迎えました。

日本で救援にあたったUSARのリーダー、ミッチェル・ブラウンさんは、出発前、放射能汚染の心配があることに触れ、活動に危険性が伴うことを承知の上で、今回の任務に臨むことを表明していました。これは隊員たちも同じ気持ちでした。

生存者を見つけ出すことこそできませんでしたが、ニュージーランドの隊員たちは厳しい環境の中で、捜索・救助活動を展開しました。その真摯な態度こそが、日本に感謝する気持ちをそのまま伝えるものでした。

■地震をめぐり、強まった両国の絆

地震の際、お互いの国を思って行われたのは救援隊の交換だけではありませんでした。東京にいるニュージーランド人がまずカンタベリー地震の被災者のために募金活動を始めました。ラグビーワールドカップと同年だったため、関連組織や企業が寄付をしてくれたといいます。

そして起こった東日本大震災。在日ニュージーランド人は、集まったお金の半分をカンタベリー地震の被災者、もう半分を東日本大震災で被災した子どもたちのためのためのホームステイプログラム、「サポート・アワ・キッズ」の設立に当てました。

カンタベリー地震のために、日本政府がニュージーランド赤十字社に対して行った緊急無償資金協力は 50万NZドル(約3000万円)だったそうです。一方、 ニュージーランド政府が東日本大震災のために、日本赤十字社を通して援助を申し出た際の義援金額は、100万NZドル(約6000万円)でした。

大地震という不幸な出来事をほぼ同じ時期に経験したニュージーランドと日本。それを縁にお互いの国のことを思いやる関係になりました。今は新型コロナウイルスが二国の間に立ちはだかっていますが、特別に育まれた両国の絆は、これからも弱まることはないでしょう。

●参考資料

  • NHK東日本大震災アーカイブス 宮城県南三陸町( https://www9.nhk.or.jp/archives/311shogen/summary/local/06/ )(NHK)
  • ニュージーランドからの義捐金の寄付( https://www.mofa.go.jp/mofaj/saigai/shien/new_zealand110321.html )(外務省)
  • Support for Japan( https://www.beehive.govt.nz/release/support-japan )(2011年3月22日 リリース/ニュージーランド政府)

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