鎖国経済から世界に飛び出した明治ベンチャーに学びたい日本の未来

ルールで縛り付けられた社会は、経済の成長を止めるどころか、気づかないうちに経済を衰退させてしまうと、国際政治アナリストで世界経済にも詳しい渡瀬裕哉氏は語ります。歴史を振り返って、徳川幕府の行った規制施策から「自由な社会の重要性」を考えます。

※本記事は、渡瀬裕哉:著『無駄(規制)をやめたらいいことだらけ-令和の大減税と規制緩和-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

■戦国時代の領国経営に重要だった国際貿易

徳川幕府が日本を完全に掌握する前、日本と外国との交易は、各地の大名にとって大きな収入源でした。江戸時代より前は、東南アジアまでが日本の商圏です。外国との新しい関係を開拓しようとした伊達政宗は、メキシコにまで使節を送っています。この使節は、さらにメキシコの宗主国スペイン、次いでローマを訪れ、スペイン国王やローマ教皇との接触を果たしました。

▲伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡 出典:ウィキメディアコモンズ

もっと言えば、戦国時代は各大名が海外との交易で力をつけています。なかでも目立つのは、織田信長がポルトガルなど南蛮の宣教師を保護し、西洋文化を好んで取り入れていったことです。このほかにも、16世紀半ばに九州で一大版図を築いた大友氏が、中国や南蛮との貿易で経済力を蓄えています。

国際的な貿易、つまりグローバルな力は、日本国内の戦国時代の抜きがたい背景なのです。徳川幕府の長きにわたる統治機構を築いた初代将軍・徳川家康も、豊臣秀吉の政権下で移封となった関東の自領に、大陸との貿易拠点を作ろうと企図しています。当時の領国経営にとって、交易が重要だったことがわかります。

■経済成長をあえてさせないための政策とは?

徳川幕府の支配が確立すると、最初に行った政策のひとつに、外洋航行が可能な船の禁制があります。家康の最晩年、元和元年(1615)に徳川幕府は、武家・朝廷・寺社に対して基本法規を定めました。武家に対する規範は『武家諸法度』として知られています。

家康の死後も、歴代将軍のもとで改正されますが、幕末まで影響したのは寛永12年(1635)、第三代将軍の家光のときに加えられた「大船建造の禁」です。第二代将軍の秀忠が発し、家光の時代に確立しました。

▲徳川家光肖像(徳川記念財団蔵) 出典:ウィキメディアコモンズ

古くからある日本独自の様式を持つ船を和船といい、江戸時代より前には海外との交易に耐える大型船もありました。徳川幕府は、西国大名の水軍力を抑えることを目的に、五百石積み以上の船の建造を禁止し、これ以降、江戸時代を通じて、和船は国内の沿岸水運に特化していきます。

この禁制により、軍船だけでなく商船にも規制は及び、外洋航海ができる大型船は造られなくなりました。本来は大名の水軍力を削(そ)ぐという目的による規制が、実質的に鎖国政策の柱として機能した一例です。徳川幕府は、他藩の外洋船建造を禁じることで、貿易と、貿易を通じて入って来る情報を独占したのです。

江戸時代後期の外国船との関わりは、江戸時代初期に定められた禁制を揺さぶりました。嘉永6年(1853)の大型船建造の全面規制解除まで紆余曲折がありました。従来の支配体制を維持したい人たちにとっては、非常に困った状況だったのです。自分たちの権力を維持するためには、国内で各藩が勝手に貿易をするのは不都合ですし、外国の情報がどんどん入ってくるのは困ります。

ところが、人・モノ・金・情報が入ってくることは、経済成長につながります。幕府に批判的な新興勢力や、生活が豊かになるとうれしい庶民にしてみれば、幕府が布(し)いている規制は迷惑です。

実際に、江戸時代の経済は、好景気やバブルのような活況を背景に、商品経済の発展がもとになって庶民の生活を潤したり、お伊勢参りなどの国内旅行ブームが起きたりした時代もあり、好況と幕府の規制による引き締めを繰り返しています。庶民にとっては、事あるごとに倹約だの我慢しろだのとうるさい江戸幕府が何百年も続くより、経済成長したほうが楽しいしうれしいのです。

現代も日本国内には、経済成長を“あえてさせないよう”にするための政策がたくさんあります。大船建造が禁止された江戸時代、外国船に対応できる軍船が存在しなくなったように、規制には産業の発展を阻害するマイナスの効果があります。規制をかけたところには、人・モノ・金・情報が流れにくくなるからです。

逆に言えば、潰したい産業があれば、規制を作って人・モノ・金・情報を流れ込みにくくすればよいのです。現代の典型例が農業です。考えつく限りの規制を布き、補助金漬けにするやり方で、その体制を維持したい人たちにとっては、外国との貿易体制が整うと困るという点で江戸時代と同じです。

こうした体制の維持は、新しい輸出産品を開発し、日本も外国との商売に乗り出せると思う人たちにとって、意味のないことです。

■明治ベンチャー産業だった農業と養蚕

日本が開国したとき、農業は最先端のベンチャー産業でした。

農業というと、現在では守らなければならない存在のようなイメージで見られていますが、商売で儲けようという企業家精神に富んだ人たちが担っていた、当時の成長産業なのです。

たとえば、お茶というと静岡茶が有名です。江戸時代、静岡で作られるお茶は「御用茶」として幕府に献上されていましたが、お茶の栽培が大きく拡大したのは、日本の開国以後、横浜港が開港してからのことです。静岡のお茶は、その多くが外国の貿易商社に販売される輸出産品を育てることによってできた商品作物でした。

▲長火鉢を囲んで茶を愉しむ(明治時代) 出典:ウィキメディアコモンズ

このほか、養蚕(ようさん)もベンチャー産業です。養蚕は幕末に衰退の傾向が続きますが、安政6年(1859)の「横浜開港」と国際情勢によって、一気に躍進した産業です。

当時、ヨーロッパで蚕の伝染病が流行り、日本産の生糸が世界に打って出る契機となったのです。明治初期の人たちは、生糸の国際価格動向をにらみ、情報を集め、相場にもとづいて商売の判断をしていました。

▲大日本蚕糸会と会頭の松平正直男爵 出典:望月小太郎(ウィキメディアコモンズ)

貿易において、情報はとても重要です。政府による情報の独占がなくなり、企業家精神を持った人たちが情報を扱えば、欧米列強に比べて産業が後発の日本でも勝負していくことが可能だったのです。

立場の違いによって、新しい状況への評価は異なります。江戸時代末期の幕府のように、今日も明日も、変わらぬ日常が続けば事足れりという人たちは、実際には昨日より今日、今日より明日が衰退していっていることに気付かないものです。現代の「失われた30年」も、そういう人たちによって作られてきました。

これからの日本経済は、減税や規制の廃止によって、もっと自由な形にしていくことが大事です。経済が発展することは、すなわち人・モノ・金・情報を集め、これらを活用する正しい判断のできる人材が表舞台に登場することです。いろいろな規制、何かを義務付ける細かなルールがたくさんあると、そうした人材はルールにがんじがらめにされて、活躍の舞台に上がることができないのです。

開かれた自由な社会、自由のもとでフェアな競争ができる社会、競争の結果として正当な報酬が得られる社会を目指すこと、言い換えれば人材が活躍しやすく、お金がより意味のあるものに使われやすい状況を作っていくことが、これからの日本経済にとって何より重要なことなのです。

▲明治ベンチャー産業だった養蚕 イメージ:PIXTA

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