旧日本軍の“隠し財産”に翻弄された権力者たち…元政治家「融資額は3,000億円」を信じた全日空・社長の悲惨な末路

(※写真はイメージです/PIXTA)

昭和30年代。戦後の復興に沸く日本の裏で、詐欺師たちは「どうすれば金をふんだくれるか?」と金脈を模索し始めていました。こうしたなか、全日空の大庭元社長も詐欺師の毒牙にかかった権力者のひとりでした……。今回、ライターの藤原良氏が、戦後の日本で多発した「M資金詐欺」に翻弄された権力者とその顛末を紹介します。

1969年ごろから囁かれ始めた「資金援助のウワサ」

日本が先進諸外国並みの経済力と肩を並べた1969年頃、日本の経済界で『M資金』と呼ばれる不思議な資金援助の話が囁かれるようになった。

その内容は次のようなものが多かった。

サンフランシスコ講和条約がアメリカを中心とした連合国諸国と日本国との間で結ばれた際、それまでGHQの経済科学局が調査押収管理していた『旧日本軍の隠し財産』が日本に返還された。

返還された隠し財産の総額は、現金や財宝を含めて時価数千億円とも言われた。

日銀に保管された隠し財産は、講和後に日本国としての戦後復興の名目でさまざまな資産運用が繰り返された。

その結果、今では数千億円から数兆円にも膨れ上がった。

資産運用は『大蔵省特殊資金運用委員会』が主導し、今後は日本経済のさらなる発展を目指して、国内の有力企業に対して極秘裏に資金援助をする。

壮大なストーリーに大仰な言葉が並び、三文小説のようにも聞こえるが、少なくとも一部には真実が含まれているため、語り部次第ではこれを信じてしまう人もいたようだ。

元自由党の政治家で衆議院内閣委員長も務めた鈴木明良は、政治家時代のコネクションを辿って、全日本空輸株式会社(全日空)の大庭哲夫社長に対して「資金援助をする」という話を持ち掛けた。

鈴木明良は1952年の選挙違反による逮捕で失脚してからは、政治家に復帰することもままならず、元政治家という肩書を悪用して政治家時代の人脈を喰い物にする詐欺師に身を落としていた。

ネットなどまだ存在していない時代だったことから、当時は彼が犯した事件が拡散されることもなく、黙っていればバレないという、詐欺師に都合のいい状況も手伝って詐欺行為を容易に繰り返すことができた。

「私はあえて政治家から転身して世間の目を欺き、今は日本のために極秘任務を担当している」と元衆議院内閣委員長から言われれば「そうかもしれない」と信じてしまう人もいたのだろう。そんな純朴な人間たちの中に全日空の大庭社長もいた。

「会社のため…」詐欺にあった大庭氏の悲惨な末路

「融資額は3,000億円」

これは現在の貨幣価値にすると6,000億円以上になる。「年利は4・5%で返済期間は30年」こんな破格の融資条件は当時の銀行ではありえなかった。

この頃の全日空は終戦後から続いたGHQによる占領政策によって日本国籍の航空機の運航が禁止され、サンフランシスコ講和条約後にようやく運航禁止解除となったことで誕生した若い企業だった(1952年に前身である日本ヘリコプター輸送株式会社設立。1958年・極東航空株式会社との合併により全日空設立)。

自社の経営体制の確立だけではなく、GHQによる運航禁止期間に失業した民間航空関係者たちの救済も視野に入れた企業理念を掲げていた全日空には莫大な資金が必要だった。そんな時、鈴木明良から持ち込まれた巨額資金援助の話はまさに干天の慈雨であっただろう。

この時のやりとりで旧日本軍の隠し財産の呼び名として、その財産管理を担っていたマーカット少将のイニシャルであるMを用いた『M資金』という呼称が使われた。

大庭社長は、この融資欲しさに鈴木から指示されるがままに申込書や念書を何通も作成した。

社長が発行した申込書や念書はその後、児玉誉士夫の手に渡り、全日空の株主総会の席で「こんなバカ話を信用するような人物に社長は任せられない」と糾弾され、1970年5月、大庭社長は辞任に追い込まれた。これがM資金にまつわる最初の事件とも言われている。

旧日本軍の隠し財産伝説から始まるM資金の物語は近年においては詐欺のネタに使われることが多く、そういった詐欺事件を総じて『M資金詐欺』と呼ぶが、全日空の大庭社長がターゲットにされた時代は、まだ金品を騙し取られるといった直接的な被害を被る詐欺事件ではなく、このようないかがわしい物事に関わった人物の名声や社会的信用をおとしめて、失脚や失業を狙うといったブラックスキャンダルとして使われることが多かった。つまり、まだこの頃は金を騙し取る詐欺としては未完成の時期であった。

M資金という言葉は昭和30年代ごろから使われるようになったとも言われているが、M資金詐欺の立役者と言われた鈴木明良が政治家失脚後から詐欺師としての活動をスタートさせた1952年(昭和27年)を起点に、昭和30年代にはマーカット少将のMをとったM資金という言葉が経済界をベースにして、日本社会の裏側に伝播していったと推測される。

この頃は戦後のどさくさに紛れて、どうすれば金をふんだくれるか? と詐欺師たちが金脈を模索していた時期とも言える。

この事件以前では旧日本軍の隠し財産について「四谷の教会の神父が極秘に運用している」という噂から『四谷資金』や、アメリカが管理している財産なので『メリケンファンド(略してM資金)』など複数の名前で呼ばれていた。

全日空のブラックスキャンダルも「M資金のMがマーカットのMである」と世間一般に定着させた程度であった。

金品を騙し取ることが目的のM資金事件

続いて同年、ロスチャイルドやロックフェラーから寄与金を得たとされる世界平和連合会で事務局長を務めることになる山本徹こと山崎勇を中心とした面々による富士製鐵を舞台にしたM資金詐欺が発生した。

このあたりから、いわゆる直接的な被害を伴った『詐欺』がはじまったと言える。M資金の物語をベースにして、巨額融資をするうえでの融資仲介料として山崎らが会社員から2,200万円を騙し取り、全国指名手配されたことが毎日新聞(1970年9月13日付)で大々的に報道された(山崎はその後不起訴)。

これが日本で最初に報道された「金品を騙し取ることが目的のM資金事件」と言われている。

また同年10月には『飛騨3兆円事件』が報道された。これは「岐阜県の飛騨地方の開発を巡って、飛騨の美しさに惚れ込んだ世界中の有名財閥がその開発費3兆円を投資し、飛騨市古川町を中心にして高速道路を有した都市開発を計画している」という詐欺師の話を信じ込んだ古川町の有力者が詐欺師から協力金として提示された1億円を支払い、騙し取られたという詐欺事件だった。

この詐欺師が逮捕された際も毎日新聞が「M資金詐欺の変種か?」と報道したことから、経済界のみならず日本社会全体に『M資金詐欺』という言葉が広がった。

市民に認知されすぎた結果か、しばらくはM資金をキーワードとした詐欺事件が起きることはなかったが、1978年に人気俳優の田宮二郎がM資金詐欺グループに騙され架空融資話を信じた結果、不動産投資で巨額の負債を背負い、債権者からの取り立てを苦に猟銃自殺をした。

この事件によって、M資金詐欺が再び世間の脚光を浴び、その後もM資金詐欺被害の代表例として語り継がれるようになった。

藤原 良

作家、ライター

関連記事(外部サイト)

  • 記事にコメントを書いてみませんか?