ドイツ軍ツェッペリン飛行船「アフリカ号」 大冒険飛行と反転のナゾ 不滅の大記録も

ドイツ軍ツェッペリン飛行船「アフリカ号」 大冒険飛行と反転のナゾ 不滅の大記録も

「アフリカ号」ことLZ104飛行船。

航空黎明期の第1次世界大戦にてドイツ軍が配備した飛行船の1隻「アフリカ号」は、実は21世紀現在も破られていない作戦飛行の記録を打ち立てています。しかも謎のUターンというエピソードつき。その背景と実際の航路などを追います。

アフリカの守備隊に補給を! どうやって? 飛行船で!

 第1次世界大戦中、ドイツ軍はツェッペリン型飛行船(金属製の骨格などを使用した硬式飛行船のこと)を119隻建造しました。当時の飛行機より積載量、航続距離、飛行高度で勝っており、偵察や爆撃に使われて、「空の魔王」と恐れられました。この大戦中に、ある飛行船が、現代でも破られていない飛行記録を打ち立てます。ツェッペリンW級飛行船「LZ104」、通称「アフリカ号」です。

 当時のドイツ帝国は、アフリカにドイツ領東アフリカ(現在のブルンジ、ルワンダ、およびタンザニア)という植民地を持っていました。第1次世界大戦が始まると、駐屯するパウル・エミール・フォン・レットウ=フォルベック大佐が指揮するドイツ植民地防衛隊は、巧みなゲリラ作戦で、数に勝るイギリス軍に抵抗を続けていました。しかし制海権をイギリスに抑えられて、フォルベック隊は補給を遮断されてしまいます。

 そこで、飛行船で空から補給品を届けようという作戦が立案されます。建造中だったツェッペリンV級を急遽流用し、長距離輸送用に船体を約30m延長したのがW級です。W級は第1次世界大戦で建造された最大のツェッペリン型飛行船で、長さ226m、直径24mにもなりました。しかし船体を長くしたため、操縦性は悪かったようです。「LZ102」と「LZ104」の2隻が建造されドイツ海軍に所属しますが、「LZ102」はすぐに事故で失われ、「LZ104」が「アフリカ号」として任務に就きます。

 この飛行任務は前人未踏でした。アフリカ大陸に入ったら支援は期待できず、浮力となる水素ガスの補給も望めません。そのため往復することは期待されず、ドイツ領東アフリカに到着して帰還不能と判断されたら、「アフリカ号」はそこで解体され、外皮はテントの材料、モスリン材の裏地は包帯、ジュラルミンの骨格は鉄塔など建築資材に使われることになっていました。

行くか戻るか? 孤立無援の「圏外」飛行

 1917(大正6)年11月21日午前5時、「アフリカ号」は22名の乗員に、フォルベック隊向けの機関銃30丁と小銃、弾薬、医薬品、郵便物、鉄十字勲章など補給品15tを搭載して、ブルガリアのヤンボルにあった飛行船基地を飛び立ちます。作戦名は「China-Sache(中国案件)」で、遠大な飛行を予感させるものでした。同盟国トルコの領空を通って地中海を横断しますが、クレタ島付近で暴風により通信アンテナを破損し、無線連絡が不調になり、「アフリカ号」の前途に暗雲が立ち込めます。

 11月22日午前5時15分、「アフリカ号」はアフリカ大陸に到達します。寒暖差が大きい過酷な砂漠環境で、高度を一定に保つことさえ困難な飛行となりました。昼間は酷暑のなか、砂漠からの強い照り返しで乗員は目をやられ、夜間は気温が下がるにつれどんどん高度も下がり、23日の朝には地表スレスレまで降下して墜落寸前、乗員は寒さに震えます。全長200mを超える巨体が超低空飛行するのですから、下から見上げれば大迫力だったはずです。

 そうしたなか、運の悪いことに、前部ゴンドラのエンジンがトラブルで停止。このエンジンが無線機用発電機を動かしていたため、無線受信はできるものの発信ができなくなりました。そしてこの無線通信に、その後「アフリカ号」は翻弄されることになります。

 11月23日、行程の約半分であるスーダンのハルツームから西方約200km付近を飛行中のことでした。「アフリカ号は作戦を中止。帰還せよ」との命令無線を受信し、船内ではこの無線をめぐって議論が起こります。一部の乗員は、これをイギリスの謀略だとして飛行継続を主張しますが、無線を受信することはできても発信できない「アフリカ号」には確かめる術がありません。

謎が残る無線連絡、ことの真相は…?

 指揮官のルートヴィヒ・ボックホルト大尉は、このまま飛行を続けてフォルベック隊と連絡できなければ、砂漠のまんなかで遭難することにもなりかねないと、引き返すことを決心します。

 Uターンした「アフリカ号」は11月25日の午前4時、ヤンボル基地に帰還します。無着陸飛行95時間、飛行距離6757kmの大飛行でしたが、まだ64時間飛行可能な燃料が残っていました。これは「軍用機の作戦飛行時間」としては世界一の記録で、現在も破られていません。

 当時イギリスはドイツ海軍の暗号を解読しており、「アフリカ号」の行動を把握していました。手ごわいフォルベック隊への補給を妨害しようとしますが、アフリカに展開するイギリス軍には有効な航空戦力が存在せず、どこを飛行しているかわからない「アフリカ号」を直接攻撃するのは困難でした。そこでイギリスは「フォルベック隊は降伏した。アフリカ号は帰還せよ」という偽命令を無線で発信したのです。イギリスの諜報機関は、「アフリカ号」を引き返させたのはこの謀略無線の成果だ、と主張しました。

 ところがフォルベック隊からも、「アフリカ号」の着陸場所の安全確保ができず、帰還を要請する無線を発信していたことが明らかになっています。フォルベック隊からの無線出力は弱かったのですが、友好国や中立国の無線局で増幅中継され、ドイツ本国まで届いていました。「アフリカ号」が受信したのは正真正銘、本国のドイツ海軍からの命令といわれています。

「アフリカ号」は皮肉にも帰還を期待されていなかったため、その後、運用計画がありませんでした。再びアフリカに赴くことはなく、地中海やトルコ方面で散発的に偵察や爆撃に使われました。1918(大正7)年4月7日、マルタ島のイギリス海軍基地を爆撃しに向かいますが、その日の夕方、イタリアとアルバニアのあいだのオトラント海峡で炎上墜落するところを、ドイツ潜水艦UB-53が目撃します。イギリス軍にもイタリア軍にも、「アフリカ号」を迎撃した記録はなく、事故による墜落と想像されますが、原因は不明です。このとき21名の乗員が犠牲になりました。

【図】「アフリカ号」の大記録、無着陸アフリカ往復作戦飛行の航路図

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