観客席から「殺すぞ」 松井秀喜「5打席連続敬遠」は“事件”だった【夏の甲子園100回! ベストシーン】

観客席から「殺すぞ」 松井秀喜「5打席連続敬遠」は“事件”だった【夏の甲子園100回! ベストシーン】

明徳義塾の先発は背番号8を付けた「外野手兼投手」の河野和洋 ©共同通信社

今年で第100回を迎えた“夏の甲子園”。
その 100年を超える歴史は名勝負の歴史でもあります。波乱・衝撃、旋風、怪物、ライバル、そして大逆転・・・・・・。
「甲子園」というフレーズだけで、さまざまな場面がよみがえってきます。
そのなかから、もう一度振り返りたい“ベストシーン”をご紹介します。
【1992年(平成4年) 第74回 2回戦 明徳義塾[高知]3-2星稜[石川]】

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『夏の甲子園 名勝負ベスト100 (文春MOOK)』 より

◆◆◆

 5回表、一死一塁で迎えた松井秀喜(元ヤンキースほか)の第3打席。明徳義塾の先発投手・河野和洋が4球続けて外角に大きく外れるボール球を投げた時、アルプススタンドで声援を送っていた松井の父昌雄さんは「これは大変なことになるかもしれん」と呟いたという。

■試合3日前に伝えられた作戦

 平成4年夏の甲子園。超高校級スラッガー“ゴジラ”松井を擁して初優勝を狙う星稜は、初戦で長岡向陵(新潟)に11−0と圧勝。2回戦で明徳義塾と対戦する。

 明徳義塾からすれば、当然「松井対策」が勝負のポイントになる。そこで馬淵史郎監督の出した結論は、松井との勝負を徹底的に避け星稜打線を分断するという作戦。選手たちに伝えられたのは試合3日前のことだ。ただ具体的な方法の説明はなく、先発を任された河野には、「勝負しない」という馬淵の言葉の意味が今ひとつよくわからなかったという。

 試合が始まり、松井の打席のたびに「逃げとけ。歩かせ」と指示が出た。最初は「ビビってストライクが入らなくなったフリをしろ」と笑いながら言われていた。だから捕手を座らせたまま、外角に外れるボールを投げていた。第1打席は二死三塁、第2打席は一死二、三塁とともに一塁が空いた場面だったので不自然ではなかった。だが第3打席あたりから、星稜の選手も観客も何かを察知したのか、球場全体の空気が変わっていく。

■ 興奮した観客が叫んだ「殺すぞ」

 冒頭の第3打席を経て、第4打席は二死走者なしの場面。河野が自ら捕手に「もうバレてるから立て」と指示して、あからさまに敬遠した。スタンドは高校野球ではあまり馴染みのないブーイングに包まれ、興奮した観客がベンチの上まで来て「殺すぞ」と叫んでいた。

 とはいえ、この作戦は大きなリスクとの背中合わせだった。実際に3回、5回には松井を歩かせた後にスクイズとタイムリーヒットで1点ずつを失っている。それでも最少失点で切り抜けたという意味では成功だった。

■そして1点差で迎えた5打席目

 3−2と明徳義塾が1点をリードし、試合は9回表、星稜の最後の攻撃。二死から3番山口哲治(てつじ) が三塁打を打ち松井に繋ぐ。二死三塁で迎えた5打席目。ここでも捕手が立ち上がり、4球、河野はボール球を投げ続けた。松井はそれまでの4打席と同じように、静かにバットを置いて一塁に向かった。

 このときスタンドからメガホンや紙コップがグラウンドに投げ込まれ、試合が一時中断となる。注意を促す場内アナウンスが流され、異様な雰囲気の中で試合が再開。5番月岩信成が変化球を引っ掛けてサードゴロに倒れ試合終了。校歌を歌う明徳ナインに対して、スタンドからは凄まじいばかりの「帰れ」コールが湧き起こった。

■「これで手首を切って自殺しなさい」

 試合後、記者に囲まれた松井は「相手の作戦なので、自分は何も言えません」と淡々と語った。また、松井の後ろを打ち、5度の打席で一度もヒットを打つことが出来なかった月岩は「自分に力がなかった」と悔し涙を流した。この「松井5打席連続敬遠」は高校野球の枠を越えた事件として取り上げられ、大きな反響を呼んだ。牧野直隆高野連会長が「正々堂々と勝負してほしかった」と発言したことで、明徳は批判に晒される。

 大会中、苦情の電話が殺到したために宿舎は電話番号を変え、選手たちは「危険だから」と一切外出を止められた。練習場に移動するバスにはパトカーが付いてきた。続く3回戦、明徳は広島工に0−8と大敗し甲子園を去る。選手たちは「甲子園なんて来なければよかった」「もう野球はやめたい」と複雑な思いを口にした。帰郷後しばらくして、馬淵の自宅に封筒が届いた。開けて見るとカミソリが入っていて、同封された紙に「これで手首を切って自殺しなさい」と書かれていた。

 だが、多くの野球関係者が、「敬遠は勝つための作戦の一つ。批判するのはおかしい」と口にしていたのも事実である。それでも、この試合に関わった選手や監督がそうした本音を口にするのは、10年近い年月を経て、松井がプロ野球を代表するスーパースターになってからのことだ。

■もしも松井の後に好打者がいたら・・・・・・

「監督の仕事は勝たせること。甲子園で潔く散ろうなんて作戦を考えるような人間なら、もう監督失格です。ルールの範囲内で考えて、ちょっとでも勝つ確率があるなら、それをやるのが監督の務め」と馬淵は言う。勝つために、松井と勝負するリスクと、松井を歩かせて後続の打者と勝負するリスクを秤に掛けて、後者を選んだ。だから、「もし5、6、7(番)に良い打者がいたら、絶対に敬遠はしていない」と言い切る。

 星稜の選手たちも冷静に試合を振り返る。松井の前の3番で3安打している山口は、「馬淵監督は、松井に打たせたらこのチームは盛り上がるというのがわかっていた。松井が一本でも打ったら周りも引っ張られて打つ。そこまで読んでいたんでしょうね」と敵将の知略に感心する。この試合では5番月岩、6番福角(ふくずみ)元伸、7番奥成悟の並びだったが、そこは各自の調子を見て日替わり。山口、松井を塁上に置いて、この3人が打つことで大量得点に繋がる。初戦がまさにそうだった。

■何千回と聞かれた「本当は勝負したかった?」

 3番山口、4番松井はどんなに警戒してもある程度は打たれる。だったら松井に決定的な仕事をさせず、塁に出しても後の打者に打たせなければ、打線は分断される。だからこそ、5、6、7番に対する明徳バッテリーの攻めは徹底していた。とくに5番の月岩は、「なんとかしなくては」という力みもあって凡退を繰り返した。3番山口が3安打したことで、「なぜ山口に松井の後を打たせなかったのか」という批判の声があったが、それは結果論というものだ。山下監督も「エースでもある山口を5番に置いた場合、もし松井が敬遠されて、打てなかったらピッチングにも影響する」と、その疑問について明確な答を持っている。

「あの作戦は、ドンピシャはまってましたよ。5敬遠したから僕らは勝てたんです。作戦勝ちでしょう」と河野は振り返る。「本当は勝負したかったのでは?」という質問を、これまで何百回何千回と受けた。即座に「いいえ」と否定する。理由は、河野がじつは明徳のエースではなく、背番号8番を付けた外野手兼投手だったということ。ストレートの球速は130kmそこそこ。「投手として勝負するのは無理」と見切りをつけ、野手として大学に行くことを決めていた河野は、「松井選手に対して、僕の投手としての能力が負けているから、勝つために敬遠したということです」と言う。馬淵も当時、「勝負出来る投手がいたら勝負した」と口にしている。

■「あの試合があったおかげで今の自分がある」

 河野はあの試合まで敬遠をしたことがなかったという。1打席ごとに増してくる様々なプレッシャーの中で、1球もストライクを投げず、20球、ひたすらバットの届かないところにボール球を投げ続けたことは、逆に河野が強靱な精神力を持っていたことの証明でもある。「勝ちたかったですから。僕らは松井のために野球をしてたんじゃない。勝負して、打たれて、負けたら、僕たちに何が残りますか?」と今も言い切る。河野はあの日以来、投手をしていない。ということは、皮肉なもので、あれが野球人生における最初で最後の敬遠だったことになる。

 5打席、20球見逃しを続けた松井は、「あの試合があったおかげで今の自分がある」と言う。あのとき、負けた悔しさはあったが、敬遠されたことに怒りの感情はなかった。「打つことも、バットを振ることもなく注目を浴びた。5打席連続で敬遠される松井秀喜とはどんな凄いバッターなんだ? それを証明しなくてはいけない。そういう気持ちが常にあった」と語っている。

 四半世紀を経て、残ったものは、この試合で一度もバットを振ることなく甲子園を去った松井の伝説だった。

(矢崎 良一)

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