楠木建が考える「本当に優れたノンフィクションの条件」

楠木建が考える「本当に優れたノンフィクションの条件」

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■概論が嫌い

 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 読書の話を続ける。僕は「○○概論」とか「××入門」という手の本が好きではない。第一に、読んでいて単純に面白くない。中には面白く読ませる概説書とか入門書もあるのだが、滅多にお目にかからない。その目的からして、ある分野で必要な基礎知識を一通り紹介するという体裁になるので、中身がつるりと平面的になりがちだ。

 第二に、より重要な理由として、僕の読書の目的に合致していない。 前回 話したように、僕の好みはジャンルでいえば小説などのフィクションよりもノンフィクション、とくに人間と人間社会についてのノンフィクション。その目的は知識を得るというよりも、世の中の本質についての自分なりの理解を獲得することにある。人と人の世のもろもろについて「なるほど、そういうことか、面白いねえ……」と得心する。これが僕にとっての読書の醍醐味である。

■「なるほど、そういうことか……」

 得心するとはどういうことか。僕の仕事である競争戦略の例で説明しよう。

 ずいぶん昔の話になるが、デルという会社が構想し一世を風靡した戦略に「デル・ダイレクト」があった。この戦略の妙味は二重の意味で「ダイレクト」なことにあった。

 ひとつには、中間流通や小売を介さない直販によってモノの流れがダイレクトになる。無駄がなくなりオペレーションの速度が上がる。

 より重要なのはもうひとつの「ダイレクト」である。モノの流れだけでなく、顧客との情報のやり取りもダイレクトになる。販売や配送だけでなく、サービスの面でも顧客とダイレクトにつながることができる。

 たとえば、PCに不具合を感じた顧客がサポートセンターに電話したときにすぐにつながる確率が、当時のデルは他社よりもはるかに高かった。こうしたサービスの迅速さがひとつの差別化要因としてデルの成長を牽引した。

 この背後にあるロジックが面白い。1990年代半ばのPC市場は年率20%というペースで成長していた。競合他社は爆発的に成長する個人顧客を獲得しようと、小売業者を通じたチャネルに力を入れた。これに対して、デルは逆に小売市場から撤退し、大口の法人顧客をターゲットとする戦略をとった。

 顧客が大口の法人であるということとデルの「ダイレクト」な顧客サービスとの間には論理的な因果がある。大きな会社でデルのPCを使っている人が、PCにちょっとしたトラブルを抱えたらどうするか。デルのサポートセンターに電話をする前に、まずは同じフロアで働いているPCに詳しそうな人に相談するはずだ。多くの場合はちょっとした操作やPCの再起動で解決できる問題だろう。

 そこで解決がつかなければ、話はその会社でPCを管理しているシステム部門に行く。そこにはITに詳しい人が大勢いる。ここでほとんどの問題は解決される。さらにどうしても解決がつかなければ、ようやくデルのサポートセンターに連絡がくるという成り行きだ。電話がすぐにつながるのはもちろん、大口の法人顧客に対しては特定の担当者が割り当てられている。担当者はその顧客の状況をよく分かっている。だから、問題を迅速に解決できる。

 これが小売りチャネルを通じて不特定多数の個人顧客にPCをばらまいている会社だったらどうなるか。当時の個人ユーザーの多くはPC初心者。不慣れのためにしょっちゅうトラブルにつき当たる。そうした人々が気軽にサポートセンターに電話してくる。カスタマー・サポートが対応できる以上のコールが押し寄せ、すぐにパンクしてしまう。電話がなかなかつながらないのは当たり前だ。

 小売市場も相手にしていた競合他社と比べて、デルの戦略はカスタマー・サポートにくるサービス要請の頻度そのものを格段に低く抑えるものだった。だからこそ「デル・ダイレクト」の「迅速なサービス」が可能になったというわけだ。

■Dスポットは具体的細部にあり

 これが僕のいう「なるほど、そういうことか……」である。この例は僕の仕事分野での話だが、仕事に限らず、本を読んでいると、こうした論理的得心の機会がしばしばある。これが僕の読書の悦びのツボ、すなわちDスポット(読書スポット)なのである。

 ある分野についての知識の獲得が目的であれば、まずは概説書や入門書に目を通すのが定石にして王道だろう。俯瞰的に全体像を押さえなければ先には進めない。僕も仕事で必要に迫られて(いやいやながら)そういうことをすることもある。しかし、僕にとっては、楽しみのための読書にはならない。

 というのは、僕の好物である「なるほど、そういうことか……」は、物事の具体的な細部の記述から採集されることがほとんどだからである。本質は細部に宿り、細部にこそ現れる。俯瞰的な概論をなぞっているだけでは、なかなか得心に至らない。

 詩人の高橋睦郎が書いた 『友達の作り方』 という本がある。横尾忠則、三宅一生、稲垣足穂などなど、多種多様な友達との出会いとつき合いについての随筆で、これがヒジョーに面白い。とくに痺れたのは三島由紀夫との出会いを回想した章だ。

 無名の文芸志望者だった著者のところに、文豪としてその名を轟かせる三島から唐突に電話がかかってくる。「小説家のミシマユキオという者ですが……」。驚いて用件を聞くと、「詩集に感動したので、明日会いたい」と言う。銀座の上等な中華料理屋で6時に会うことになる。おずおずと店に入ると、慇懃に個室に通される。以下、ハイライトシーンを引用する。

〈どれほど待ったろうか。蝶タイの先輩のウエイターが覗いて、ただいま三島先生からお電話がございまして、六分遅れるとのことですという。はてな? と思った。

 五分遅れるとか十分遅れるとかは聞いたことがある。しかし、六分遅れるというのは? (中略) ぼくは壁に掛かった電気時計のぴくっぴくっと進む秒針を見つめた。六時前五分……六時……三分……五分……六分を秒針が指したと同時にドアが開き、三島さんが入って来た〉

 高橋は勇気を奮って「次の詩集に跋文を書いていただけませんか」と願い出てみた。すると三島は「悦んで書きましょう」と即答する。さらに付け足して「これはぼくが進んで書くことだから、きみは菓子折一つ持って来てはいけないよ」と強調する。約束と寸分違わないその日に、速達で跋文が届く。原稿用紙で7枚。序跋としてはかなりの長文が暢(のび)やかな字で書かれていた。「三島さんとはその後しばしば会ったが、文芸上の話をしたことはほとんどない。結局、三島さんから教わった記憶は世間にいかに対処するかに尽きるようだ」と高橋は言う。

 ようするに、そういう人なのである。その作品もそうだが、僕は三島由紀夫という不思議な人物に作品以上の関心を持っている。三島についてのさまざまな評論や評伝を読んだが、『友達の作り方』に収められた短い文章ほど、この人物の本質(のある面)を鮮烈に抉り取り、得心させてくれるものは他にない。三島との交際のごく具体的な断片の記述にもかかわらず、いや、具体的断片だからこそ、人物の総体が浮かび上がる。

■超弩級ノンフィクションの決定版

 広い時空間に渡る全体をロングショットで俯瞰しつつも、要所要所で本質を語りうる具体的細部に急降下し、クローズアップでスイートスポットをきっちりたっぷりと記述してくれる。これが僕の考える本当に優れたノンフィクションの条件だ。

 例えば、イアン・カーショー 『ヒトラー』 はこの条件を満たしまくりやがる文句なしの大傑作だ。著者の視点は、ヒトラーという特異な人物の具体的詳細の記述と彼を取り巻く全体状況の変遷を頻繁に往復しながら、ドイツとヨーロッパの悲劇を丹念に追いかけていく。本書を読むと、ナチスドイツの悪魔的所業も、小さな出来事の積み重ねの中でごく「自然」にそうなった、ということを思い知らされる。ドイツ第三帝国の興隆と破滅をまるでそこにいるかのように追体験できる。読んでいて何度も息が苦しくなり、戦慄する。

 歴史的な評伝は「その横にあるもの」と併せて読むとさらに話が立体的になり、理解が深まる。「横もの」としてはサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ 『スターリン―赤い皇帝と廷臣たち』 をお勧めする。これまたロングショット、クローズアップを繰り返す著者の構成力と筆力に舌を巻く。複雑に錯綜する歴史をドラマのように読ませてくれる。

 生涯で為した悪の総量はよい勝負だが、ヒトラーとスターリンは人物としてはまるでモノが違う。スターリンは桁違い、正真正銘の怪物だった。ロシア革命やドイツとの大戦、ありとあらゆる挑戦を受けつつも、自らの政治的力量でそれらを克服し、最期まで独裁者として君臨した。

 側近はもちろん、粛清された側の人々でさえ、死後もスターリンを畏怖し尊敬していた事実が本書では明かされている。スターリンにひどい目にあわされた人々でさえ、独裁者の死に直面して動揺し、喪失感を吐露していることに驚く。

 スターリンと異なり、ヒトラーの本質は「潜在的にはどこにでもいるようなポピュリスト」だった。ただし、ヒトラーは驚くほど運が良かった。古今東西のポピュリストに共通の特徴だが、ヒトラーは反射神経で次々とギャンブル的な政策を打ち出す。途中まではこれが面白いように当たった。

 ポピュリストはいつも自分のことでアタマが一杯なので、政策の組織的実行や仕組みづくりには意識が回らない(今の日本にもそういう政治家がいる)。そのうち破綻する。ところが、ヒトラーには優秀な側近と堅牢な行政組織があった。これがヒトラーの支離滅裂な思いつきを実現してしまう。ここにドイツ第三帝国の不幸があった。

■安くて長持ち

 この2作のように全体と個別具体の両方に目配りをする本格派ノンフィクションは、その方法からして、話が非常に長くなる。合わせて3000ページ以上、価格も合計で3万円。

 高いと思うかもしれないが、とんでもない。ちょっといい店にお鮨を食べに行けば、2人で3万円は優に超える。そのときは美味しいだろうが、しょせん2時間の楽しみである。休日に集中して読んだとしても、この2作で1ヶ月はとっくりと楽しめる。しかも、いやというほど考えさせられる。得心に次ぐ得心の連続。自分が生きる社会と自分自身の生き方について教えられる。そこから明日を生きるための価値観を引き出せる。読んでいる間だけではなく、思考と行動の基盤として、その価値が一生続くのである。

 いつも言っていることだが、これだけの叡知をたっぷりと味わえるのだから、本は本当に安い。腰が抜けるほど安いといっても過言ではない。世にあるありとあらゆる財の中でこれほどディスカウントされているものは他にない。

 ただし、である。本は安いが原稿料もまた安い。この文春オンラインの1本の原稿に対して文藝春秋から振り込まれる対価、その具体的詳細は公開を控えるが、「『ヒトラー』と『スターリン』を同時に買うことはできないけれども、どちらか一方であれば買える程度の金額」であるとだけ言っておきたい。

 それでも、考えてみれば、僕が気の赴くままにこんな駄文を1本書くだけで、全人類必読の書にして後世への偉大な遺産を自分のものにすることができるのである(2つ同時には無理だが)。やはり本は破格に安いといわざるを得ない。裏を返せば、原稿料が実はすごく高いのかもしれない。この辺、論理にちょっと無理があるような気もするが、そう考えて自らを慰めつつ、いましばらくは連載を続けていく所存である。

(楠木 建)

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