大江千里58歳「僕の日本でのピークは、91年『格好悪いふられ方』のリリース直前だった」

大江千里58歳「僕の日本でのピークは、91年『格好悪いふられ方』のリリース直前だった」

大江千里さん

日本でのポップスターとしてのキャリアを捨て単身ニューヨークへ移住し、ジャズミュージシャンへと転身した大江千里さん(58)。47歳でジャズの名門・米ニュースクールに入学してから10年が経った今、大ヒット曲『格好悪いふられ方』のリリース前には自らのピークを感じていたと人気絶頂だった当時を振り返った( #2 に続く)。

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■今の東京に居場所はない

おぐら ニューヨークのブルックリンに移住したのが2008年ということで、もう10年になるんですね。

大江 ニュースクールというマンハッタンの学校でジャズを学んで、ちゃんと卒業するっていうのが移住のきっかけでしたけど、その流れでアメリカでも仕事ができるように頑張るかって、そのまま10年経っちゃいました。

おぐら 落ち着く場所になりましたか?

大江 ほっとはしますね。自分の機材があって、犬がいて、友達もいて。あぁ、ここが居場所だなって。

速水 逆に、日本に帰ってきた時の居場所っていうのは、大阪のご実家? それとも東京?

大江 東京に居場所はないですよ。そうなると実家ですかね。父がいて、帰ってきたら必ず追い焚きでお風呂を沸かしてくれて、パンツは自分で洗って、庭に干す。それが里帰りです(笑)。

おぐら たまに来る東京は、どんな街に見えますか?

大江 アメリカに行く前は六本木ヒルズの近所に住んでいて、どこも懐かしくて思い出だらけなんだけど、やっぱりずいぶん変わりました。なんか未来を目指して走り始めてるって感じ。2020年に向けて、タクシーにもオリンピックのロゴがあって、電車の車両には誰にでもわかるようにアルファベットと数字の番号が振ってあって。

おぐら この10年で東京にいる外国人はかなり増えました。観光客だけじゃなく、コンビニや飲食店の店員さんとか。

大江 だって街を歩いていてもカフェに入っても、普通に英語や中国語が聞こえてきますもんね。

速水 ニューヨークでは当たり前の光景が、東京でも。

大江 僕が住んでいた頃も六本木や麻布のあたりは外国人が多かったですけど、何が変わったって、いまや中国人のおばちゃんがおしゃれなアディダスのスニーカーとか履いてるんですよ。10年前にいたおばちゃんは、ピンクのスパッツとか、そういう格好でしたから(笑)。

■一番後ろの列からお客さんが少しずつ減りはじめた頃

おぐら 僕は以前、テレビブロスという雑誌で担当している連載企画で、Wikipediaにある大江千里のページを、千里さんご本人に添削していただいたことがありまして。

大江 もちろん覚えてます。今年の1月でしたかね。あれはおもしろかったなぁ。

おぐら 間違いもけっこうあって、ご本人直筆の赤字をそのまま誌面に載せたところ、雑誌の発売後にちゃんとネットのWikipediaも修正されていました。

速水 ご自身でWikipediaを見ることってあるんですか?

大江 ほとんどないです。でもたまに見ると、だいぶ偏ってるというか、「この歴史は削る」「ピークは『1234』(1988年)だ!」みたいなそれを書く人の強い個人的意図を感じますね。この前受けたあるインタビューでも、ライターの方に「大江千里のピークは『Rain』だと思うんですが、そのことについてお聞かせください」とかって言われましたから(笑)。「こうだ」っていうそれぞれの「思い入れ」は、あくまで個人のものでしょう?

速水 ではあえて聞きますが、ご自身ではいつがピークだと?

大江 勢いがあったのは、初めてアルバムでオリコン1位をとった『APOLLO』(1990年)かな。あの時に、次の『格好悪いふられ方』(1991年)でシングルヒットを狙うための助走もついてました。でもコンサートでは、一番後ろの列からお客さんが少しずつ減りはじめていて。

おぐら 最後列の客が減っているのって、ステージから見てわかるものなんですか?

大江 わかりますね。それは、どんどん増えていくのがわかるのと同じですよ。実際、そのコンサートも満員なんですよ。でも、よく見ると、前はもっとギューギューに入れてたよなって。そういう状況では、スタッフは走り続けるし、大ホールでやってた人間は小ホールには戻れないぞっていう雰囲気もある。だけど、そこに僕自身の音楽的志向はない。

速水 そういうことを考えるようになったのは、いつぐらい?

大江 90年とか91年くらいかな。

おぐら 世の中的には順風満帆に見えている時期ですね。

大江 一度、短期でニューヨークに行って帰ってきた時には、いきなりボビー・ブラウンみたいな髪型になってたりとかして。当時のメガネをかけてかわいい感じの僕が好きだったファンは、どう思ったんだろうなって。「千ちゃん、そっちじゃないよー」っていう感じだったのかなぁ。最近はそんなふうに振り返ったりしてますけどね。

■みんなホットでドキドキしてた80年代

速水 最初にニューヨークへ行った時は、どういう状況だったんですか?

大江 最初は1989年で、フジテレビの『君が嘘をついた』というドラマに出た頃です。

おぐら 野島伸司脚本の月9ですね。

大江 共演した鈴木保奈美ちゃんとか布施博さんとか、いろんな人が横浜文化体育館のクリスマスコンサートを観に来てくれて。とにかくみんなホットでドキドキしてた。

速水 日本はバブル絶好調の時代で。

大江 はい。そして無事にコンサートが成功した翌日、12月25日ですよ。夜が明けて、初めてのニューヨークに一人で行ったんです。俺って忙しいな〜なんて思いながら、この時はまだ旅行で。きっと5番街はイルミネーションでキラキラしていて、恋人たちが肩を寄せ合って歩いてるんだろうな〜と。そうしたら、着いた途端に気温はマイナス15度とかで、寒すぎるうえに店はどこも閉まってる。アメリカにとってクリスマスは、家族の日なんですよね。

おぐら 日本でいうお正月の三が日みたいな。

大江 それで、てくてく歩いていたら、1カ所だけキラキラ光ってるところがあって、JALの鶴で作られた見事なクリスマスツリーだった。僕はそれにすごく惹かれてね。

速水 日本の企業だけが浮かれていたと。

大江 そうなのかな、とにかく1カ所だけショーウィンドウに目立ってたんです。僕としてはニューヨークに来てまでも、自分が日本的なモチーフの美しさに惹かれるんだと思った。身を刺すような寒さと相まって、なんかカルチャーショックな気分でしたよ。今の自分を象徴してるなぁって。そのあと10日間の滞在で友達ができて、その人の家に転がり込んじゃった。しかも、その家の住人はロンドンへ仕事に行くと言って鍵を僕に預けて、その間に同じアパートに住んでいたビースティ・ボーイズのメンバーが引っ越しするからっていうんで、僕も一緒になってレコードを運んだりして。

おぐら えぇ〜! 1989年のニューヨークで、大江千里がビースティ・ボーイズに出会った……。

大江 そのニューヨークの友達のアパートで、小さな窓を開けて、降っている雪を眺めながらピアノで作ったのが『APOLLO』という曲です。その時、絶対ここに帰ってきてレコーディングしようと決めて。だからアルバムの『APOLLO』はニューヨークでレコーディングしたんです。

速水 まさにトレンディドラマみたいな展開ですね。

大江 そんなアルバムで初めてオリコン1位をとったので、まぁ感慨深いですよね。そこで一気にアメリカに渡るという選択肢もあったんですけど、結局はニューヨークにアパートだけ借りて、日本と行ったり来たりするようになりました。

■関西学院大学の西宮キャンパスで

おぐら デビューアルバム『WAKU WAKU』(1983年)の時点で、ギターは大村憲司、ベースは後藤次利、ドラムは青山純に林立夫と、ものすごい豪華な布陣ですよね。

速水 当時すでに大御所のミュージシャンたちがずらりと。

大江 ありがたいですね。あの頃は大学生だったので、レコーディングしたカセットテープを持って、関西学院大学の西宮キャンパスで、「これ大村憲司のギターだよ!」「これは青山純のドラムで、こっちは林立夫」なんて軽音楽部の連中に自慢してました。まだ学生気分だから呼び捨てで(笑)。

おぐら 一流のミュージシャンたちに囲まれることのプレッシャーとかは?

大江 スタジオでは一人だけ若造ですからね。憲司さんが次利さんに「チョッパーが多すぎるんだよ」とかトークバックで話しているのを黙って聞いてました。ある時、憲司さんが「このスタジオでトークバックの使い方もわからないのはお前だけだ」「スタジオで大学のマークが入ったノートを使うのを嫌がるやつだっているんだぞ」って。その時は、なんでそんなことをいちいち言うんだろうと思ってた。でもアルバムの完成打ち上げで2人で飲んだ時に「おまえのことが弟みたいに可愛いんだ。だからお前のためを思って言っているんだ」というようなことをおっしゃって。あの時は号泣しちゃいました。

速水 当時の関学の友達とかは、みんな音楽に詳しい人たちだったんですか?

大江 ジャズが盛んなビッグバンドとかをやっているようなクラブでした。僕はフュージョンと行ったり来たりしながらバンドをやってたんですけど。大学生の頃にありがちな、生意気なプチ音楽博士でした。「大瀧詠一のメロディは最近パターン化している」とか偉そうに言ってるような(笑)。

■武道館にこんなに集まった人が、この後何人残るんだろう

おぐら 世間から求められる大江千里像と、ご自身が思い描く理想像とのギャップについては、どうやって乖離していったと考えていますか?

大江 正直「こんなもんでいいのかな」って思っているようなところが大きくなるんだと思います。たとえば、自分としては落ち着きがなくてイヤだな〜って思っているところが「キョロキョロしていてかわいい」って言われたりとか。偶像って、どんどん広がって大きくなっちゃうんですよ。

速水 ご自身が関与していないのにキャラクター付けされたところもありますか?

大江 いや、結局は全部自分が作ったキャラクターなんです。人間って多面的じゃないですか。その中のひとつがブレイクして巨大になって、僕はもう次に向かって進んでいるとしても、そこにとどまって、それを求める人たちが大勢いる。商業音楽をやっている以上、そういう人たちに支えてもらっていることは事実だし、そこを無視したら長くは続けられないですよね。

おぐら CDもたくさん売れて、コンサートも大盛況で、やったー! 幸せだー!とはならなかった?

大江 商業的には成功して、思いもよらなかったドラマやCMにも出て、お金がどんどん入ってはくるけど、どんどん出てもいくような状況で。その時は幸せではなかったですね。かえって心の中は不安だったし、いま武道館にはこんなにたくさんの人が集まっているけど、このあと何人が残るんだろうなって。増えることがあれば、必ず減っていくわけでしょう。これまで必ずライブに来ていた雑誌の編集者とかがふと来なくなって、「〇〇さん、今日は来てないの?」ってスタッフに聞くと、「別の予定と重なっちゃったらしいです」っていうね。

おぐら そういう冷静さや客観性は、大学在学中にデビューして、下積み経験がなかったというのも関係ありますか?

大江 あるかもしれませんね。同世代の人たちが苦労してやっと手に入れるようなものを、僕は先に手にしてしまった。そのぶん、苦労があとからやって来ることをなんとなく予感していたのかも。

おぐら 音楽以外の仕事でいうと、NHK『トップランナー』の司会もされていましたよね。

大江 僕のような人間が、人の話を聞いて司会ができるとは思ってませんでしたよ。それに、NHKの若者向け番組ということでは『YOU』や『若い広場』から続いてきた枠なので、最初はプロデューサーに「僕にできるんでしょうか?」って会った時に聞いたんです。でも「今のまま、そのままで大丈夫です」と。

おぐら 第1回目のゲストが辻仁成さん、第10回ではさくらももこさんも出てました。

速水 普段あまりテレビに出ないような人たちがゲストでしたね。

大江 DJ KRUSHとかZEEBRAなんかも来てくれました。あの当時はまだ自意識が強くて、人のことを受け止める余裕も自信もなくて、相手が話してる途中なのに「それで?」ってつい割って入っちゃうんです。そうしたら「…………」というカンペが出て。

速水 しゃべるな、と。

大江 すらすらと出てこなくても、相手は言葉を探している。それをじっと我慢して待っていると、最後の最後にぽろっと小さな本音が出たりする。「人の話を聞くっていうのはこういうことなんだ」って、身をもって体験しました。

#2 に続く)
写真=佐藤亘/文藝春秋

(速水 健朗,おぐらりゅうじ,大江 千里)

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