平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけがもつ力とは」

平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけがもつ力とは」

小社ホールにて ©平松市聖/文藝春秋

人間にとって過去とはなにか――。
?究極の問いを突きつける平野啓一郎氏の最新作 『ある男』 。平野氏が「自分と違う書き方をされている作家」と考える小川洋子氏とともに、今の時代において、フィクションだけがもつ力、小説にしかなしえないことについて語りあった。

◆◆◆

■ギタリストは小説家に近いところがある

小川  『マチネの終わりに』 が映画化されるそうですね。主人公のギタリスト・蒔野役はどなたが?

平野 福山雅治さんです。

小川 それはおめでとうございます。小説に登場する曲を集めたCDも出ているんですね。

平野 はい。日本のクラシックギター業界は活況を呈してるんですが、それでも派手な世界ではなくて、ピアノとかに比べると、コンサート会場も3、400人ぐらいが限度なんです。

小川 そんなに大きな音が出る楽器ではないですものね。

平野 だから映画化も決まって、取材でお世話になったギター界の人たちも喜んでくれてます。

小川 ギターの持つ独特な親密さが、この小説の世界を根底で支えていると感じます。

平野 ギタリストは小説家に近いところがありますね、確かに。生活も、個人事業主的なところがありますし。クラシックギターはほとんどソロか、2人ぐらいで演奏する。1曲の全体に責任を持たないといけないし、活動も、スケジュール管理の仕方などを見ていると、わりと想像しやすかったです。

■作家の練習風景は怠けているようにしか見えない?

小川 蒔野とマネージャーの関係も、作家と編集者に似ています。

平野 はい、レコード会社の人も含めて。まあ、演奏するということが作家とは決定的に違いますけど。人前に出て何かやらなきゃいけないというのは、本当に大変だなと思います。

小川 蒔野も演奏会のあと、ネットにいろいろな評判が出て、それに苦しめられます。

平野 それは、今の時代を生きていると避けられないことですね。音楽家の人を書いて思ったのは、練習という概念が小説家にはないから、それは我々と違うなと。

小川 ああ、そうですね。

平野 音楽家は毎日練習をしている。テレビのドキュメンタリーでも、スポーツ選手や音楽家は、練習シーンがすごくいい映像になる。コンサートなり試合なりの華々しさとの対比もドラマチックだし、何かを目指している感じが出るし。でも小説家の場合、読書とか、そういうことがとても重要なんだけど、端から見ると寝転がって小説読んで……(笑)。

小川 怠けているようにしか見えない(笑)。準備にしても作業にしても、頭の中でだいたいのことが行われてしまっているんです。

平野 終わりもよく分からないですよね。脱稿してもゲラのやり取りがしばらくあるから、なにかすっきりしない。

小川 書き終ってもなお、常に未完成なものを抱えている感じですよね。

■きっかけは林業の取材から

小川 『ある男』の準備には、具体的にどのようなことをされたんですか?

平野 最初は宮崎に取材に行きました。その少し前に『ある男』と関係なく、住宅メーカーのカタログに寄稿する仕事で、四国の林業の取材をしたんですが、いろいろ興味深いことがありました。そして、漠然と今回の小説のようなテーマを考えた時に、社会の中で生きるのにさまざまな困難を抱えている人がたどり着く職業をいくつか思い浮かべて、林業がやっぱり気になったんですね。もちろん、林業は普通の人たちが働いてるんですけど、自分が登場人物のような事情だったら、山の中でああいう仕事をしたいかなと。舞台をなぜ最終的に宮崎にしたのかは色んな事情が絡み合ってるんですが、林業も盛んですし、ともかく取材に行ってみて、ウロウロしていたら想像が膨らんできたんです。

小川 実際、黙々と木を切っているような男がいたのですか?

平野 そうですね。地元の方に現場に連れていってもらって、そこで働いている若者に話を聞かせてもらったり。現場は山の中だからシーンと静かで、暑さ寒さがダイレクトに仕事の大変さに繋がっている。季節のいい時は楽だし、暑い時、寒い時は大変。そこは杉の現場で、杉自体は植林しているから自然そのままではないけど、環境としては自然のなか。ネットとかに日々翻弄されているような都市部の生活とかなり違うので、そのギャップは面白いかなと思いました。

小川 『ある男』では、林業に従事する谷口と名乗る男が宮崎のある町にふらりと現れ、商店街の文房具屋に画材を買いに行き、お店の女性・里枝と知り合うというところから物語が動きはじめる。読み終わって書き手の立場から考えると、あの出だしが素晴らしい。小説をラストまで引っ張るエネルギーに満ちた書き出しです。

平野 地方の商店街はシャッター通りが多いですが、文房具店や制服店は意外と残っていたりするんですね。学校、区役所、いろんなところと昔ながらの付き合いがあり、そういう店は、訪れる客が減っても生き残っていくんだそうです。

■10代の自分はもうここにはいないんだ

小川 文房具屋から始まり、谷口が趣味で描いている「絵」が重要なポイントになってゆきます。最終的に「ある男」の素性に主人公の弁護士・城戸が気づくのも絵がきっかけですね。その前段階で里枝と谷口が知り合い、ふたりで絵を見ながら、言葉を交わさないんだけれど、初めて心が触れ合う。あの場面が大好きなんです。

平野 ありがとうございます。

小川 谷口の描いたバスセンターの絵を里枝が眺める場面に、この小説の非常に重要なポイントが隠されている。里枝は学校に行くためにいつもそこからバスに乗っていた、でも、その時の10代の自分はもうここにはいないんだと感じて涙ぐむ。そこにこの小説のエッセンスが1滴、静かに注入されていると思います。

平野 自分がそういうことを考える年齢になったからなのかなという気がしています。この年になると、SNSで思いがけず昔の友達から連絡が来たりする。そこにはお互いに、高校時代からだと20数年の関係の空白がある。そうすると、自分が10代の時に思い描いていた将来と、友人がこういうふうになるんじゃないかと思い描いていた未来と、今どうなっているかという現在とを、考えるようになりました。人生は結局1回しかないから、年を取って中年になっていくと、これでよかったのかな、と考えたりする。現状に不満がある人も、それなりに自分の人生を歩んできたと思っている人も、ふと心をよぎる疑問だと思います。

■人間にとって過去とは何か

小川 『ある男』は、ちょっと乱暴な言い方をしてしまうと、人間にとって過去とは何かという問題を“考えている”小説だと思う。過去とどう折り合いをつけるか、どう受け入れるか。あるいは、誰かにとっては過去は変えられるものなんじゃないか。それは、平野さんの他の小説でも出てくるテーマですね。

平野 そうですね、特に最近。

小川 今回は、過去を他人と取り換えてしまった人物の物語です。その発想はどこから来たんですか?

平野 今のお話のとおり、過去と現在の関係というのをずっと考えていて。多くの人が、フロイトのトラウマ説みたいなものにとらわれていると思うんです。子どもの時こういう体験があったから今こうなんだ、という。そのために人生が行き詰っているという実例を見ていて、その因果関係は果たしてどこまで確かなものなのかと思いました。自分で感じていることと、社会的な意味と。自分で選びようのない生まれ育ち、そういったものが強烈に不利な条件下にある人が、どう自分の人生を生きていくのかということを考えた時、違う親から生まれて違う環境で育ったらどんなによかっただろうという思いは強いだろうなと。その辺から、履歴ごと誰かと入れ替えられたら、と考えました。もっとも単に自分の好きなように過去をねつ造してしまうという話では心惹かれなかった。

小川 なるほど。自分の作り上げた架空の人生で人をだますという話じゃないですものね。

平野 小説にせよ映画にせよ、自分とはずいぶんと違う境遇の登場人物に、読んだ人や観た人が「自分のことだ」と共感する――フィクションはそもそもそういうものですが、あらためてその構造はどういうことなのかと考えて、自分と全く一緒ではないけれど、どこか共感するところのある他人の人生になり替わりたいという人間がいたら、と考えたのが発端でした。それを徹底していくと、人生を丸ごと入れ替える話になりました。

小川 この小説のもう一段複雑な面白さは、履歴を変えてでも生き直したいと思っている本人を語り手にするのではなく、最も客観的な立場の、城戸という弁護士の視点で書いているところですね。

■履歴を変えてでも生き直したい人

平野 おっしゃるように、普通なら履歴を交換している当人を主人公にするところですが、それではうまくいかないような気がしたんです。誰かの人生に共感してその人に成りすましている人に、さらにもう一段共感している人がいて、それにまた作者が共感して、その作者の考え方に読者も共感してというふうに、合わせ鏡のようにいくつか層があるほうが、他人に共感するということの意味合いのふくらみが出るんじゃないかなと。

小川 今、鏡とおっしゃいましたが、城戸が「ある男」を追いかけていくことによって、その正体が分かってくるとともに、城戸自身も自分が見えてくる。「ある男」が鏡になって、そこに自分がだんだん映ってくるという関係になっていますね。

平野 そうですね。小説はなぜそういうことができるんだろうという、僕の関心をうまくかたちにできたところはあります。読者というのは必ずしも自分と境遇が似ているから感動しているわけではなくて、むしろ違うから感情移入できる場合もある。これまで書いてきた小説の読者の反応も、今回の小説を書く上でヒントになっています。城戸は城戸で自分のルーツの問題や妻との関係のストレスがあって、自分の苦しみを自分の問題として直視して考えようとするんですけど、そうするとだんだん具合が悪くなってしまう。でも他人の人生を1回経由して考えると苦しみとか悲しみとかそういったものが、耐えられるような、何か少し違う感情に変わっていくということがあるんじゃないかと。

■弁護士にだって、どこか引っかかるような案件があるのでは

小川 城戸は里枝と谷口以外にもさまざまな種類の人間と出会い、彼らの存在理由の根本にかかわりながら、自分とは境遇が全く違う人々の中を探索してまた自分自身に戻ってくる、それを何回も繰り返しています。

平野 今回は弁護士にもだいぶ取材しました。彼らは悲惨な事例を弁護することもあります。例えば過労死事件。お子さんが過労死で亡くなって、ご両親も苦しんでいる……でも、それにかかわっている弁護士の人たちは必ずしもエモーショナルじゃない。ドライというほどでもないけど、あくまで法的にその問題を解決しなくてはいけないという態度を感じました。当然と言えば当然ですが。法律だけじゃなくて、第3者だからこそ適切にその問題を処理できるという点で成り立っている仕事だと思いました。それが彼らの普通だと思いますが、たまに、どこか引っかかるような案件があるんじゃないかなという感じがして、そのたまに引っかかった案件の物語、という作りになってます。

■序文で言いっ放しにする効果

小川 平野さんが慎重なのは、それをさらに「私」という小説家がバーで聞いて書いている小説なんだという、もう1段鏡を置いていて、その序文からはじまるところです。

平野 今の読者に、どうリアリティーを提示するのかということをよく考えるんです。べったり現実と地続きの小説だと読む気がしなくなるし、どこかで非日常体験をしたいという感覚は読者の中にあると思う。そこをどううまくつなぐか。一旦廃れてしまった伝統ですけど、19世紀〜20世紀初頭の小説には、名作と言われるものにはよく序文が付いていますよね。

小川 「これは聞いた話だが」みたいな。

平野 サルトルの『嘔吐』とか、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか、序文がついているものが好きなんです。作者が書いているような序文だけど、それ自体もどこまで本当か分からない。また、あとがきはついていない。

小川 序文で言いっぱなしで、その人はそのまま退場していく。

平野 実はこの『ある男』も、最初はあとがきを付けていたんです。

小川 もう1回バーにいる「私」が登場する、という選択もありますね。

平野 はい、そういうのを書いたんですけど、やっぱり余計だなっていう感じがしたんです。だから、序文で書きっぱなしにした。

■小説だから許されている仕掛けをどう生かすか

小川 そういう書き方だと、読者は城戸と一緒に肩を並べてこの世界を歩くのではなく、城戸の後ろにいる「私」という作家と一緒に小説世界に入っていって、出口まできたら、もうその案内人の「私」はいなくなっていたという感じになる。そのほうが、読者が感じる余韻もより深いですね。

平野 物語と読者との距離感をどう設定するのかということを最近かなり気にしています。フィクションの世界を読者が受け止める時に、どうしてもそれまで読んだ小説や身近な人物から、リアリティーを判断しがちだと思うんです。だから、いっそのこと序文で「これは実際にあった出来事だけれども、作家が小説に仕立て直したんだ」と宣言しておくと、読者は細かなところで「ちょっと作りものっぽい」というふうに引っかからずに、事実を小説風にアレンジしているんだろうな、と了解しながら読んでくれるという期待があります。

小川 小説にしかできない、小説だから許されている仕掛けをどう生かすか、それが問題です。

平野 そうですね。『ある男』は、取材させてもらった何人かの弁護士にも事前に読んでもらって、違和感を指摘してもらったんですが、やっぱり、弁護士にとっては、守秘義務というのがすごく大きいようですね。

小川 そこを気にされるんですね。

平野 はい。草稿の段階だと、城戸が守秘義務違反を犯している感じがすると。ただ刑事ドラマでもそうだけど、それをいったら小説が成り立たなくなる。だからみなさん口をそろえて「それは小説だからいいんじゃないですか」という言い方をしていた。それで、その感覚をそのまま序文に入れたんです。実際には城戸はここまではしゃべらなかったと思うけど、小説としてそういうことにしたと書いたんですね。そうすると、リラックスして読めるかなと。手直ししたところもありますが。

小川 心の内の声を書くことが守秘義務違反になるのかどうか。心の内を言葉にしているんだ、それは構わないんだ、と先に書くことで、余計なストレスから解放されます。

平野 今の読者は、長い導入部分をなかなか楽しめなくなってきていて、物語に入っていくまでのこらえ性がなくなっている。さきほど挙げたような19世紀の大きな小説は、導入がすごく長くて、起〜、承〜、転、結、みたいな書き方ですけど、今は、誰が主人公かというのがまず分からないと迷ってしまう。だから序文で「誰と誰の話です」とガイドを付けておく意味もありました。実際、昔の小説もそれをやっていたわけですから、ひとつの機能として有効だと思います。

■不遇な人生であっても

小川 『ある男』は、誰に感情移入するかが、読み方によっても違ってくると思うんですが、この里枝という女性がなかなか素晴らしい。小説は里枝が、自分の死んだ夫・谷口が実はこういう人だった、という事実を知った時点で終わっています。本当はこれからの人生、彼との3年9カ月の結婚生活をどう自分に納得させるかという長い時間が始まるんだけれど、そこは書いていない。しかし、彼女なら大丈夫だろうな、と安心できる印象を受けました。どこでそう感じたかというと、先に言ったように、彼女がバスセンターの絵を眺めて10代の自分はここにはいないんだ、と思って涙ぐむ場面と、もう一つ、最初の結婚の時に病気で死んだ次男について、その死を、過去の問題じゃなく、未来で自分を待っているものとして受け入れようとしているところ。最も愛する人たちが自分より先に死んでくれているんだ、というふうに過去を未来と結びつけている。これはすごい人だなと思いました。長男との関係のあり方も、この先に光が見えるような終わり方でした。

平野 よかったです。里枝を書くのはすごく難しかったんです。

小川 そうでしょうね。

平野 小説だと、ちょうどいいぐらいの不幸の量とかを考えてしまいがちですが、現実には、立て続けに大きな不幸を経験しながらも、何とか自分を保って生きている人たちがいる。だから、不幸がいくつか続いて、でも生きているという女性をうまく書きたいと思いました。ただ小説でそれをやろうとすると、その人が精神的に厳しいところにどんどん追い詰められていって、という書き方になってしまいがちです。それも現実でしょうが、そうじゃない現実を書きたかったのと、小説の登場人物が経験する問題を、その人一代で解決させなくてもいいんじゃないかとも思ったんです。

小川 ああ、なるほど。

平野 不幸な経験をした人が、その人生の中でハッピーエンドを迎える、という場合もあるけど、ある共同体、自分たちの住んでいる世界で、息子の代、孫の代、あるいは関係した周りの人たちの人生で、それが違った花を咲かせていく、代を継いで何か別の結果を生み出すというようなかたちのある種のハッピーエンド、もしくはハッピーとは言い切れなくとも、未来が見えるような終わり方もあるんじゃないかと。里枝には息子がいて、彼もいろいろ自分なりに考えて、という未来が見えて、彼女の人生にも光が差すあたりで終わればいいかなと。

■過去が変わり得るという可能性

小川 里枝に降りかかった不幸、不運を、彼女1人で解決できるわけもないし、解決できなければ幸せになれないわけでもない。今おっしゃったことのヒントになるような文章が、『マチネの終わりに』の中にありました。蒔野と通信社記者の洋子が出会ってパッと惹かれ合うのが、過去についてどう感じるかを話し合う場面。未来は常に過去を変えている、過去は繊細で感じやすいんだということについて言葉を交わして、共通するものを受け取り合う。あるいは洋子がイラク取材で負ったPTSDの治療を受けている時に、治っていく段階で「過去は変えられる」んですねと医者に言うシーン。それがそのまま里枝にも当てはまって、過去とは何かという問題とずっとつながっています。

平野 過去は良い方向にも悪い方向にも変わり得る可能性がある、不安定なものですよね。たとえばPTSDの治療にある認知行動療法は、ある過去の姿のまま固着しているものを、行動パターンを通じて違う見え方にしていく方法です。生きているのはいつも現在だけど、過去があって未来があってという中で、どう自分を整理していくのかというのが、僕の最近の関心事です。

 まだまだ続くこの対談では、それぞれの「空間の捉え方」や「小説の書き方」の違いの考察も語られています。続きは現在発売中の 文學界10月号 をご覧下さい。また試し読みや平野さんからのメッセージも読める『ある男』特設サイトは こちらから どうぞ。

(「文學界」編集部/文學界 2018年10月号)

関連記事(外部サイト)