「必ず治ります」 うつ病の弟が信じ続けた1行のLINE

プロ棋士・先崎学氏がうつ病から回復するまでの記録を本に 精神科医の兄に励まされ

記事まとめ

  • プロ棋士である先崎学氏は体調不良が対局にも影響を及ぼすようになり、「うつ病」に
  • 精神科医である実兄は「必ず治ります」とたった一行のLINEを先崎氏に送り続けた
  • 先崎氏は回復するに従って、活躍する棋士に激しい嫉妬を覚え、家でわめき散らしたそう

「必ず治ります」 うつ病の弟が信じ続けた1行のLINE

「必ず治ります」 うつ病の弟が信じ続けた1行のLINE

『うつ病九段 フ?ロ棋士か?将棋を失くした一年間』(先崎学 著)

 プロ棋士である作者は、家族とたのしく外食した翌日から急に体調を崩す。体調不良は仕事である将棋の対局にも影響を及ぼすようになり、やがて死のイメージに取り憑かれる。精神科医である実兄が「立派なうつ病」であると説得、ようやく作者は精神神経科に入院する。

 本書は、うつ病の発症からなんとか回復するまでの本人による記録である。うつ病は心の病ではなく、脳の病気だと医師の兄は言う。心の強さ弱さが原因ではなく、脳の異常である。だから「必ず治ります」と、兄はたった一行のラインを作者に送り続ける。

 喜怒哀楽を感じなくなり、眠れなくなり、ネガティブな考えに陥る。そこから少しずつ、できることが増えていく。エロ動画を見る、喫茶店にいく、看護師と将棋を指す。とはいえ、それはぜんぜん回復ではない。退院し、兄に言われたとおり毎日散歩に出る。散歩とはいえ本人にとっては苦行でしかない。ゾンビのように外に出て、勇気を出して図書館までいき、ありったけの勇気を出して繁華街にいく。「必ず治ります」の一言を杖のようにして、作者は止まらず、歩き続ける。

■活躍する棋士に「ふざけんな」

 回復するに従って、復帰への不安を覚え、活躍する棋士に激しい嫉妬を覚え、「ふざけんな」と家でわめき散らす。作者がすさまじいほどの執念を抱くのは、復帰したい、でもなく、勝ちたい、でもなく、将棋が弱くなりたくない、という思いだ。泣くほど思い詰めるその姿に、私もまた泣けてくる。

 棋士というのは特殊な仕事だが、けれどももっと普遍的に、人が、真に生きていくのに必要なことはなんなのか、この本を読んでいるとわかってくる。入院中、ほかの患者が千ピースのパズルを完成させる場面がある。私は深く胸打たれた。こういうことだ、と思う。それから、友人や同業者の言葉に心底から救われ、また他者の心ない仕草に深く傷つけられ、自分が自分であると信じられることにしがみつき、他者を妬み自身の惨めさに打ち震え、そして、木や土や風を感じながら、歩く。そのぜんぶ、生きていくのってこういうことなんだろう、と思う。負の感情も感謝の念も、助けも傷つけもする他者も、何気なくある周囲の自然も、私たちがそれぞれの場所にいるために、必要なのだ。

 それにしても、徹頭徹尾、自身を客観的に見続ける、作者のこの強靱な姿勢に驚かされる。驚きつつ、同時に、これが、小学生から修練を積んだ棋士の強さか、と納得もした。

せんざきまなぶ/1970年、青森県生まれ。81年、小学5年時に米長邦雄永世棋聖門下で奨励会入会。87年、プロデビュー。91年、NHK杯戦で棋戦初優勝。棋戦優勝2回、A級在位2期。17年7月にうつ病を発症。8月から休場、翌年6月に、順位戦で復帰を果たす。

かくたみつよ/1967年生まれ。『源氏物語(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集)』(河出書房新社)を翻訳中で、11月に中巻発売予定。

(角田 光代/週刊文春 2018年10月4日号)

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