松尾諭「拾われた男」 #18 「渋谷区役所に行って、妻になる人に名前を書いてもらった日」

松尾諭「拾われた男」 #18 「渋谷区役所に行って、妻になる人に名前を書いてもらった日」

松尾諭さんが出演中のNHK土曜ドラマ『不惑のスクラム』 10月13日(土) まで、毎週土曜よる8時15分から8時43分(連続7回)

 子供の頃から人を驚かすことが好きだった。泣き真似をしたり、病気になったふりをしたり死んだふりをしたりして、親や学校の先生らを驚かせては怒られていた。いつ頃から、どうしてそんな事をするようになったのかは定かではないが、こうすると相手をしてもらえる、構ってもらえると思っていたのだろう。それは好きになった女の子に対しても同じだった。

■彼女の「もー!」を聞くのが好きだった

 小学校の修学旅行で登った鳥取の大山で、幸運な事に片思いしていたゆかりちゃんと同じ班になった。小学生の足には大山登山は楽なことではなかったが、誰とでも屈託のない笑顔で話をするゆかりちゃんが同じ班にいるだけで疲れなんて感じなかった。そんな彼女の気を引きたい一心で、ランボーよろしく登山道から転げ落ちるふりをした。転げ落ちそうになるところで、持ち前の運動神経で手すりのロープを掴むはずだったのだが、思っていたほど運動神経がよくなかったようで、ロープを掴みそこない、5メートルほど下まで転げ落ちてしまった。ゆかりちゃんは涙目で心配してくれて、以後の道中ずっと気にかけてくれ、たくさん話ができ、2人の距離は一気に近くなった。ゆかりちゃんは驚かしがいのある子だった。修学旅行の後も、しょっちゅう驚かせては「もー!」と怒らせていたが、彼女の「もー!」を聞くのが好きだった。

 ゆかりちゃんには気持ちを伝えることなく転校してしまったが、それからも女性の「もー!」を聞きたくて、好きな人ができるたびに驚かせていた。ただ、「もー!」と言われたからと言って、その人に気があるわけではないと分かったのは、それから随分と先のことだった。

■「タイミングなんていつまで経ってもこないよ」

 役者を志して上京し、苦労したような苦労していないような8年間を経て、ありがたい事に大ヒットドラマでレギュラーの役をいただき、これで役者一本で食っていけると踏んで、ようやくアルバイトを生活から足を洗った。少なくはない借金がまだ残ってはいたものの、彼女との同棲生活も6年目に近づき、そろそろ一人前の男としてプロポーズをしようと決意した。この一生に1度の告白を普通にやったのでは面白くもなんともない、とは言え夜景の見える高級フランス料理店に行くほどの金もなく、なんとか安くて思い出に残るイベントにできないものかと考えた。2人で富士登山をして頂上に着いた時にサプライズでプロポーズ、というのはこれから人生を共にする人と共に苦しい道を昇って行くという意味では素晴らしい案だと思ったが、彼女はそこまで体力がないので却下。じゃあもうすこし低くていい山はないかとあれこれと聞いてまわったが、冬の登山は素人にはおすすめされなかったので、暖かくなるまで待つ事にした。ただし春から夏の終わり頃まで映画の撮影が入る予定で、それが終われば秋になり、そんな事を言ってるとまた冬になり、と考えるとプロポーズするタイミングはいつまで経ってもこないような気がした。

 そんな事を渋谷のとある横丁の一角にある小さな呑屋で冗談交じりに話しをしたら、店の常連客の有田さんが言った。有田さんは年は60前後、ロマンスグレーのちょっとカッコいいおじさんで、聞くところによると芸能関係の仕事をしているらしかったが、本人はそういう話をほとんどしないし、聞いてもはぐらかすのでその正体は少し謎だったが、横丁では人気のおじさんだった。有田さんは酒を飲むといつも下手くそな博多弁を話し、終始おかしな替歌を歌う植木等のような陽気なおじさんへと変貌する。彼女と一緒の時に有田さんに会うと、いつも有田さんは彼女の事を「こんないい子はなかなかおらんと」と褒めちぎり、彼女にだけ酒をおごり、早く結婚しろと言ってくれた。

 そんな有田さんがそれまで見たこともないような真剣な鋭い表情で言った。

「タイミングなんていつまで経ってもこないよ。タイミングは明日だ」

■その2月29日は4年に1度しかこない日で大安だった

 有田さんの迫力に押されながら、いくらなんでも明日は早すぎるのではないかとしどろもどろしていると、マスターがどこから出したのか暦の本を手に,

「一番近い大安の日にすれば?」

 と助け舟を出してくれた。その本を開くと、一番近い大安は2月17日とあったが、その前日から仕事で2週間近く京都へ行くことになっており、その次の大安も京都の滞在期間と重なっており、さらにその次の大安は東京に戻って来る翌日の2月29日となっていた。それを聞いて有田さんもマスターも興奮したように「この日しかないよ」と吠えた。暦に関して疎く、彼らがなにをそこまで興奮しているのか分からなかったが、その年は閏年で、つまりその2月29日は4年に1度しかこない日であり、しかもそれが大安だというので2人は興奮したのだった。

 あくる日、仕事に行くふりをして渋谷区役所へ婚姻届を取りに行った。係のおばさんが「2通でよろしいですか?」と聞くので「1通でいいです」と答えると「書き間違った時のために2通あったほうがいいですよ」と言うので2通もらうことにした。

 婚姻届はもらったが、せめてそれを、ほんのささやかでもサプライズで渡したいと考えて、コンビニで大判の茶封筒とペンと切手を買って行きつけの喫茶店に入った。コーヒーを飲み、タバコを1本吸って気持ちを落ち着かせ、まず婚姻届の「夫になる人」の欄を丁寧に埋めて、書き間違えがない事を念入りに確認した。そしてコンビニで買った封筒のおもて面に家の住所と彼女の名前を、裏の差出人の箇所には「渋谷区役所戸籍係」と精一杯大人っぽい字で書いて、切手を貼り、2枚の婚姻届を2つに折り、一枚ずつ入れて封をした。

 昼過ぎに家に帰り、出来るだけすました様子をつくろって「ただいま」と声をかけた。甘えたような声で「おかえり」と応えた彼女は、ホットカーペットの上でゴロゴロとしながら携帯ゲームに熱中していた。

「渋谷区からなんか郵便きてるよ」

「置いといてー」

 封筒を一瞥もせずに彼女は言った。

 すぐに中身を見るものだとばかり思っていたので拍子抜けしたが、すぐに開けるように促すとサプライズの効果が薄れてしまうので、ちゃぶ台の上にそれとなく置いて、パソコンをしたり、本を読んだりしながら彼女の動向を窺ったが、1時間経っても2時間経っても彼女はずっとゴロゴロとしたままゲームに勤しみ、卓上の封筒に気を向ける様子はなかった。ならばと封筒を彼女の視界に入るように、少しずつちゃぶ台の端へ端へとずらしてはみたものの、それでも彼女はゲーム画面に集中したままだった。

■「区役所からの郵便なんやろね」

 そのうちに日も暮れ出し、一向に封筒を開かない彼女に、徐々に苛立ちを覚え始めたころ、彼女が言った。

「お腹すいた?」

「そんな事よりも、さっさと封筒を開けてくれ」

 と言うわけにもいかなかったが、苛々だけでなく。このままいつまでも開けずにゴミ箱に直行するのではないかという不安もあったので、できうる限り平静を装って言った。

「区役所からの郵便なんやろね」

 彼女はすっかり忘れてたと言わんばかりに「あー」と返事して、面倒そうについにその重い腰をあげた。

 ついに封筒を開ける。昂る気持ちをグッと抑え、横目で彼女の様子を窺った。封を開け、中身を取り出し、裏表を見てそのまま何事もなかったかのように再び封筒に戻してこう言った。

「渋谷区から婚姻届送ってきたよ。早く結婚しろってことかな」

「そんなわけあるかい」と言いそうになったが、そこも冷静に、少し驚いたふりをして「へー」と応えると、彼女は「都会は違うね」と言いながら封筒をちゃぶ台に戻したので「もう一枚何か入ってたでしょ!?」と思わずつっこんだ。

 彼女は小首を傾げて再び封筒の中に手を入れて、1枚出し、2枚目を出したところで、まるで時間が止まったかのように固まり、見開いた目からボロボロと涙を流した。

「結婚してくれる?」

「ひゃっかいする」

■しばらく涙もおしっこも止まらなかった

 彼女は「妻になる人」の欄を一文字一文字丁寧に書き入れてくれた。ようやく完成した婚姻届を2人でしげしげとながめながら、マスターと有田さんとの話をして、京都から帰ってくる翌日の2月29日に一緒に区役所に持って行く約束をした。

 次の日、近くに寄ったので例の呑屋に顔をだした。マスターにプロポーズの結果を報告すると、笑ってビールを1杯おごってくれた。小一時間ほどして、横丁の共同トイレへと小用に立つと、違う店から鼻唄を歌いながら出て来た有田さんとばったり出くわした。ご機嫌な有田さんに横並びの小便器に向かってプロポーズが成功したと報告をすると、有田さんは用を足しながら、顔をくしゃくしゃにしてボロボロと涙を流して喜んでくれた。それが嬉しくて思わずボロボロともらい泣きした。しばらく涙もおしっこも止まらなかった。

 その週末に京都へと発った。彼女と2週間近く離れ離れになるのは、一緒に暮らすようになってから初めてのことだった。京都の撮影所にはなにかと怖い噂が多かったが、なにか得もいわれぬ自信に満ち溢れていた。だがそんな京都で、入籍を目前に控えているにも関わらず、他の女性を好きになってしまったというのはまた別のお話で。

(松尾 諭)

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