「で、オンナの話はどうよ?」追悼・村上“ポンタ”秀一 語りたがった森高千里と吉田美和

「で、オンナの話はどうよ?」追悼・村上“ポンタ”秀一 語りたがった森高千里と吉田美和

キャンディーズ、郷ひろみ、ピンク・レディーから山下達郎、松田聖子、中森明菜、泉谷しげる、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、桑田佳祐、ドリカムまで、日本ポップスの黎明期を築いた巨匠ドラマー、村上“ポンタ”秀一さん

 フォーク、ニューミュージック、J-POPからジャズまで、あらゆるジャンルの音楽を手掛けた日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一さんが3月9日、入院先の病院で亡くなった。70歳だった。デビュー30周年にあたり、2003年に文藝春秋より出版した自伝本「自暴自伝」の構成を手掛けた音楽ライターの真保みゆき氏が、その思い出を振り返った。

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 村上ポンタさんが亡くなった。

 知ったのは、去る3月15日、月曜の早朝のこと。知人によるSNSへの投稿がきっかけだった。当初は詳細もわからず公式サイトでの発表もなかったとあって、しばらくは半信半疑の状態。ポンタさんの親しい友人であり、数え切れないほどの共演歴を持つミュージシャンによる書き込みが加わるに及んで、ようやく「本当だったのか……」。そう確信したお昼過ぎ、オフィシャル・サイトを通じて、実は3月9日に永眠されていたことを知ることになる。享年70。2月8日、視床出血で入院。以来、意識が戻らぬままの死去だったという。

■およそ半年間、10回に及んだインタヴュー

 と、こう書いていながら、正直、いまだに実感できていないところが私にはある。2003年、年の瀬もおしつまった頃出版されたポンタさん初の自伝本、その名も『自暴自伝』(文藝春秋)の取材および構成を担当。およそ半年間、10回に及んだインタヴューの中で「何度か死に損なった」と、今にして思えば壮絶な逸話を(どこか冗談のように)語るのを幾度か耳にしていたからで、不謹慎とは思いつつ、だいぶ以前、青山のライヴ・スペースの通路で久しぶりに再会した時のように、派手なイタリア製のシャツに葉巻をくわえた姿に、今一度遭遇しそうな気がしている。豪快でバンカラ。巷間伝えられることが多かったそうしたキャラの向こうに、ちょっとした遠慮というか独特の気遣い(と言いたくなる程度にはわかりにくい)のようなものを、ちらりとのぞかせるんだよね、そういう時のポンタさんって。

 いきなり私信めいた書き出しになってしまったが、一方で「有名なドラマーさんだったんですか。色んな人と共演してるのに、全然知らなかった」と驚いていた若い友人もいる。今さらながら、一応かいつまんで紹介しておくと。

 村上“ポンタ”秀一。1951年1月1日、兵庫県西宮市生まれ。72年、「翼をください」で知られる“赤い鳥”のバンド・メンバーとして、プロのドラマー生活を開始。以来、時にバンド・メンバー、時にセッション・ドラマー、そして音楽プロデューサーとして、アイドル歌謡からJポップ、ジャズ・フュージョンからアヴァンギャルドまで、ジャンルを超えて八面六臂に活躍。ダイナミックかつ多彩なドラミングは、キャンディーズや郷ひろみ、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、山下達郎、桑田佳祐など、数え切れないアーティストのスタジオ録音やライヴ音源で聴くことができる。

■「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」

 キャリアを通じて叩いた曲は、1万4千以上を数える。70年代半ば、長らく滞在したニューヨークでは、マイルス・デイヴィスほか現地のジャズ・フュージョン人脈とも交流。同じドラマーのスティーヴ・ガッドとは特に仲が良く、匿名でレコーディングの代役を務めるほどだった。

 すごいのは“数”だけに留まらない。死去に際してやはりSNSでシェアされていた赤い鳥時代のライヴ動画に、ドラマーとしての特質がすでに表れていて、3分足らずの演奏ながら、両手足を振り乱して叩きまくる導入部からして「強烈」の一言。まだハタチそこそこ。幼気が残る面差しと、「こなくそ〜!!!」と言わんばかりのドラミングとのギャップが微笑ましくもあるけれど、かと言って中央に立つ山本潤子の透明な歌声は、微塵も損なわれていない。そこにこそ驚かされる。

「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」。インタヴュー中にも繰り返しそう豪語してやまなかったポンタさんだが、実は“歌”を重んじることにかけては、他の追随を許さない稀有な“歌伴ドラマー”でもあった。

「歌詞をあらかじめ読まずに、いいドラムなんか叩けない」。そんな理由で、レコーディングを断ったこともあったという。まだまだセッション・ドラマーが「雇われ」と認識されていただろうアイドル歌謡全盛期に大変な鼻っぱしらだが、単なる“流れ作業”の一部ではない、この「俺」のリズム、グルーヴで、彼ら彼女たちの歌を輝かせてやろうじゃないの。そうした自負の念も、武勇伝の向こうから浮かんでくる。

■山下達郎を軸とする細野晴臣、坂本龍一らとの交遊

 同じ70年代でも後半を迎えた時期、アルバム数作に参加した山下達郎を軸とする交遊録も、山下が“Jポップの大御所”としての立ち位置を盤石なものとしていく、その直前の蠢動を伝えてくれるようで、取材していてワクワクさせられた記憶がある。今や“和製レア・グルーヴ”の名曲として海外でも人気が高い「ラヴ・スペース」でベースを弾いているのは、後年YMOで大化けすることになる細野晴臣。ポンタとのコンビネーション自体、山下たってのリクエストだったという。

 細野が参加していない代わり、今度は坂本龍一が鍵盤で大暴れする2枚組ライヴ・アルバム『イッツ・ア・ポッピン・タイム』は、世間的にはまだまだ無名の域にあったミュージシャンたちによる“新しい音楽”を求めてやまぬ熱量を捉えた、78年当時の貴重なドキュメント。ブレッド&バターの曲をカヴァーした「ピンク・シャドウ」で聴かれる、ヴォーカルと演奏陣との「寄らば斬るぞ」的な緊張感あふれる掛け合いなど、この時代以外あり得ないよな、と思わずにいられない。ポンタいわく、「『ポッピン・タイム』を作ったからこそ、達郎は『ライド・オン・タイム』で様式美に徹するふんぎりがついたんだと思う」。70年代後半、怒涛の時代を共有したポンタだからこそ言える一言だろう。

 そう思うと、大ヒットした『ライド・オン・タイム』にポンタの姿がなかったのも象徴的。あれだけ“歌”にこだわっていた一方で、様式美が完成しつつあると見ると、新たな地点を目指して旅立ってしまう。ジャンルレスと思えたポンタの活動を貫いていた美意識があったとすれば、そこなのだろうなと思う。

■「で、ポンタさん、オンナの話はどうよ?」

 音楽ライターとしては、どうしても音楽にまつわるお題にフォーカスしてしまうのだが、もうひとつ、これは『自暴自伝』刊行以前、周囲から盛んに訊かれた質問がある。「で、ポンタさん、オンナの話はどうよ?」。私自身は遭遇せずじまいだったが、「美女を両脇にはべらせて飲み歩いていた」的な伝説を耳にする機会は、実際インタヴューする以前から、たしかに多かった。本が出た後も、「そういう話は出なかったの?」と、いぶかっていたのだろう、あやしむように問いただしてくる向きも、少なからずいたし。

 この際なので、書いておきます。インタヴュー中、興が乗ると、主として70年代の武勇伝の一部として、そうした話題に及ぶことは、それなりにありました。特に最初の2〜3回ほどは。今だから白状すると、そこに釘を刺したのは、何を隠そう、この私だった(笑)。理由としては、録音テープの書き起こしをプロの友人に時間契約で依頼していたことがひとつ。ライオンのオスの「こないだガゼルをこんだけ倒しちゃってよ〜」的な自慢話の文字起こしに、あまりおカネはかけられない。予算上のそんな問題があったのです、はい。

 さすがに女性絡みの話をすべて厳禁にするのははばかられたので、「うかがってもいいですけど、1回5分までで」。今思えば我ながら随分な制限をかけたと思うが、そう言ってみた時のポンタさんの拗ねた表情は忘れられない(ごめんなさい)。

 以来、取材前にボーヤ(今でもそう呼ぶのかな)に必ず買ってこさせていた缶チューハイがいい感じに回ってきて、その手の話題に風向きが変わろうとした時でも、「アンタはこういう話になると、どっと血圧が下がるんだよな」。そう言いながら、あまり長くはならないよう手控えてくれた(気はする)。

■森高千里、ドリカム吉田美和へのリスペクト

 けどね、森高千里のドラミングの素晴らしさや、ドリームズ・カム・トゥルーの吉田美和の言葉選びの巧みさの秘密を敬意を込めて語っている時に比べると、“男の勲章”としてのお姉ちゃん噺って、おもしろくなかったんですもん。今だから言ってますけど。その意味では“旧き佳き”バンドマン的な気風とマチズモを、併せ持った人ではあった。

 とはいえ、ポンタさんの名誉のためにここは強調しておきたい。女性の取材者だからといって嵩にかかってマウンティングしてくるような瞬間は、インタヴュー中一度もなかった。今思い返してみても、そこは断言できる。基本、豪放磊落を絵に描いたような語りであり、実際破天荒な人生を送っていた(なにせ、医療刑務所での生活まで経験されているのです)のに、品下ったところは微塵もうかがえなかった、というか。「読後感がいい」とは、『自暴自伝』を読んでくれた方たちの多くから寄せられた感想だが、ポンタさんのそうした人となりが、そこには大きく影響していたと思う。

 取材当時、ポンタさんは52歳。今の自分より10歳以上若かったことになる。人生の経験値のあまりの違いゆえだろう、はるかに世代が上の相手にインタヴューしている感覚があったのだけれど……。それなりに面倒くさい取材者であることは自覚していたので、かれこれ7〜8年前、前述したライヴ・スペースで偶然再会した時、『自暴自伝』を気に入ってくれている様子が見てとれたのは、素直にうれしかった。突然こうしてお別れを言う日が来るとは夢にも思っていなかったけれど、ご縁があったら、来世でまたお話をうかがわせてください。ポンタさんとしては、「すごい美人か、さもなきゃドラムを習いに来い!」。そう言いたいところかもしれないが。

(真保 みゆき/Webオリジナル(特集班))

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