月収300万円もあった時代からスーパーで残飯を拾って食べる生活に…沖縄の“売春街”で働いた女性の“哀しすぎる証言”とは

月収300万円もあった時代からスーパーで残飯を拾って食べる生活に…沖縄の“売春街”で働いた女性の“哀しすぎる証言”とは

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 米軍兵士向けにつくられた売春の街「特飲街」として、沖縄県宜野湾市真栄原新町には数多くの「ちょんの間」が密集していた。しかし、2010年代初めの浄化運動によって売春街は消滅。現在、かつての活気は見る影もなくなっている。この色街では、いったいどのような日常が営まれていたのだろうか。

 ノンフィクションライターの藤井誠二氏は、売春に従事する女性、風俗店経営者、地元ヤクザにインタビューを敢行。ここでは、その内容をまとめた著書『 沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち 』(集英社文庫)の一部を抜粋。特飲街に隣接した地域で生まれ、真栄原新町で働いた経験を持つリエさん(仮名)の証言を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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■「ハニー」という呼び名に込められた日本人女性への侮蔑

 彼女が生まれたのは、那覇市内のかつて「ペリー区」と呼ばれた特飲街に隣接した地域だった。ペリー区は那覇空港のすぐ近くにある、現在の山下町一帯である。もともと山下町が本来の町名だったのだが、米軍関係者が、第2次世界大戦時の日本陸軍大将だった「マレーの虎」こと山下奉文と同じ名前は気に食わないという一存で呼称を変えさせたと言われている。那覇空港は日本海軍がつくった飛行場だったが、1972年の復帰までは米軍基地として利用され、米兵や米軍関係者を相手に、辺鄙だった一帯に特飲街ができたのである。その名称はアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督に由来しているそうだ。現在の那覇空港は航空自衛隊那覇基地と共用となっている。「ペリー区」の名残はマンションや保育園の名前などにも見られ、当時スナックだった建物も朽ちたまま数軒残っている。

「あたりの家はみんな貧しくて、私の家族も狭い平屋の家を2家族で分けて住んでいました。子どもの頃から家の周囲には米兵がたくさんいて、朝も昼もお酒を飲んでました。ハニーとチュッチュするのを見てました。米兵相手のお店が何軒もあったんです。日本人のお客は見たことがなかったですね。同級生にはハーフの子がけっこういました」

 ハニーとは米兵とつき合っていた女性たちの「愛称」だ。米兵たちがそう呼んだ。かわいらしい響きだが、「ハニー!」と叫びながら泥酔して米兵たちが村に、家に侵入して暴行をはたらく事態が数多くあったから、当時を知る人には嫌悪感を抱かせる呼び名かもしれない。そして、そこには米兵の愛人や恋人である日本人女性に対しての侮蔑的なニュアンスも込められていた。

■「私は売春だけはしませんでした」

「中学を卒業してから不良してたんですが、15歳のときに内地の横浜の美容学校に行くことになりました。でも、何か不安になって17歳のときに沖縄に逃げ帰ってきたんです。親は無理して内地に出してくれたわけですし、沖縄に帰ってきてしまったことは親にも内緒にしていました。住むところもありませんでした。だから那覇市前島のキャバレーに住み込みで働いていましたよ。おさわりキャバレーでしたが、じっさいはお姉さん(ホステス)たちは店の中で本番してました。でも、私はしませんでした。そのとき私は17歳で処女だったんです。その店には1年ぐらいいましたね」

──横浜に行ったときは沖縄は本土復帰してましたよね?

「ええ。日本復帰の数年後でした。那覇のキャバレーでは、いつまでも住み込みはいやだったので、おカネを稼いでアパートを借りたんです。キャバレーは日払いだったので、その日に稼いだおカネで姉さんたちとよくディスコに行ってました。ディスコで知り合ったお姉さんに、今はもう潰れましたが、有名なRというダンスホールに連れて行ってもらいました。そこはすでに返還された基地の近くで、ヤクザのたまり場みたいにもなっていた。Rでは、内地の人や外人相手の売春も行われていました。夜12時に店を閉めて、裏にあったホテルでするんです。だいたい3万円ぐらいが相場でした。私はあるとき、人気ホステスについて行って、そのホテルに行ったんです。そうしたら、だまされていたみたいで、私が売春をするという話がついていた。私は泣きじゃくって、おカネはいらないから帰ると言ったんです。相手は60代の人でした。そうしたらおカネだけくれて、帰してくれましたけど」

──それはショックだったでしょう?

「その出来事がショックでキャバレーをやめました。それと、ディスコで知り合ったヤクザに前島のキャバレーで働いていることがバレて、ストーカーみたいにつきまとわれたこともあります。飲みに行こう、飲みに行こうとしつこかった。逃げるようにして、それからは那覇市内のスナックをあちこち転々とするうちに19歳か20歳になってました。でも私は売春だけはやらずに、ビール1本1000円のチケットを横においてあとで精算するやり方で稼いでました。それを私たちは“チケット稼ぎ”と言ってました。現金よりチケットのほうがお客さんがどんどん頼んでくれるんですよ。このやり方は昔からあったみたいです。お店でわざとブルーフィルムを見せたり、フィリピン人ダンサーがストリップを見せたりすると、お客の男たちは興奮してトルコ風呂(ソープランドの旧称)に行ったりしてました。客と交渉して売春をしていた子もいました。けれど、私は売春だけはしませんでした」

■離婚、暴力、借金、ホームレス……底のない転落物語

 そうこうするうちにリエさんは22歳で沖縄の男性と結婚し、子どもも生まれたが、働こうとしない夫に愛想をつかして1年たらずで離婚した。間を置かずにリエさんは2度目の結婚をしたが、2番目の夫も生活を始めたとたん酒びたりの生活となり、仕事をさがそうともしなかったという。つくづく男運がないとリエさんはため息をついた。離婚が重なったことがきっかけになり、自分に課していた禁を破ることになる。

「幸せになりたかったのに……夫は酒乱で酒を飲むと暴れてビール瓶を投げたりして、子どもにもあたりそうになって、しょっちゅう大喧嘩をしてました。だから、私が稼ぐしかなかったし、夫の暴力から逃げるようにして、その頃から売春をするようになったんです。おカネの魅力もありました。当時はバブル全盛期だったから、おカネを持ったお客さんがたくさんいて、1ヵ月に200万〜300万稼いでました。

 でも、友達の保証人になって、その子が逃げてしまったので、1000万の借金を背負いました。闇金からの借金でした。それで闇金の連中に真栄原新町や吉原で働かされて、借金を返し続けたんです。真栄原新町では自分でウリもしながら、せっかくだから店の経営もやってみようと、店舗を借りて経営も始めました。店に置いてあった2人がけ用のソファで寝て、店に泊まりこんで必死で働いた。1日に客を何十本もとったよ。そのときに客から言われた言葉でブチきれたことがあります。『三流売春婦が、三流金融からカネ借りてこのありさまか』と侮辱されたんです」

 それからリエさんは借金を背負ったまま八重山の石垣島へと渡り、特飲街で住み込みで働いた。石垣島にはおよそ10年いたが、その間も本島のヤクザが石垣島のヤクザに連絡したらしく、借金取りが現れたという。ついに彼女は自己破産の手続きをした。

「石垣島で知り合って結婚した3度目の男が、じつはヤクザだったさ。それでその島で飲み屋を経営したんだ。那覇にいっしょに戻ってきて、また飲み屋をやったんだけど、夫がヤクザなので、他のヤクザが真っ黒のクルマで乗りつけて飲みに来る。一般の客が寄りつかなくなって、銀行からの借金も返せなくなりました。その上、夫にはオンナができて、私は奥武山公園でホームレス生活をしなければならなくなった。スーパーで残飯を拾っては食べて、滑り台の下などのなるべく明るいところで寝てました」

■手首にはリストカットの傷痕が幾筋も

 奥武山公園はリエさんが子ども時代を送った街にある。いまは沖縄セルラースタジアム那覇が隣接していることもあり雰囲気は変わってしまったが、ホームレス生活は半年間ほど続いたという。リエさんの「転落物語」には底がないかのようだった。

「親とかに頼ることはしませんでした。もし、ヤクザが来るようなことがあったら迷惑をかけますから……。店をつぶした借金は返せないし、もう苦しくて、苦しくて、ある日の夜、那覇港で海に飛び込んで死のうと思ったんですが、たまたま通りがかった女性に止められたんです。私は完全にアタマがおかしくなってましたね。止めてくれた女性に事情をすこし聞いてもらって、心療内科を紹介してもらいました」

 話しながらリエさんは泣いていた。それでも懸命に私に理解できるように自分のライフヒストリーを時系列に整理して話そうとしてくれた。リエさんの手首にはリストカットの傷痕が幾筋もあり、それは肘の裏側あたりまで刻まれていることに私は気づいた。少し時計の針を戻してみた。

■「初めてウリをやったときは涙が出たよ」

──ところでどうして「不良」になったんですか?

「小6か中1のとき、親族の男の人にイタズラされたんです。妹に話したんですが、信用してもらえなかった。その後はその人とは顔を合わせたことがありません。横浜から逃げて沖縄に戻ったのは、その人が追いかけてくるということがわかったこともあるんです。……その人や私を裏切った夫たちを殺したいと思うこともあるさ。今は1人で住んでいてテレビもないけど、ラジオだけはあっていつも聴いてる。でも寂しくてたまらなくなって、起きあがることもできなくなることもある。人を信用できないふうに私はなってる。だから生きるためにはカネが必要だ、子どもたちのためだと思ってやってきました。

 初めてウリをやったときは涙が出たよ。でも1回やったら、なかなかその世界から抜けられなくなる。私はそういう運命に生まれついたんだと思うことにしてる。ユタ(巫女)に見てもらったこともあって、そうしたら、あなたは7代前の、死んで無縁仏になった遊女の生まれ変わりだと言われたさ」

複数人で家に押し入り、銃とナイフで女性を拉致…米兵による性暴力の嵐が吹き荒れていた沖縄の“生々しすぎる現実” へ続く

(藤井 誠二)

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