夫の不倫相手は殺してOK…中世日本のヤバい慣習「うわなり打ち」の“恐ろしすぎる実態”

夫の不倫相手は殺してOK…中世日本のヤバい慣習「うわなり打ち」の“恐ろしすぎる実態”

©iStock.com

 毎週のようにワイドショーを賑わす、有名人の不倫騒動。パートナーの不貞行為は古今東西、あらゆる人々を悩ませてきた。中世の日本を生きた代官や武士の妻たちもまた、夫の不倫に苦しんでいたが、一方で彼女たちは、現代では絶対にありえない“復讐”に打って出ることもあった。それが「うわなり打ち」である。では、その世にも恐ろしい実態とは――。

 NHKの「タイムスクープハンター」などの時代考証も務めた清水克行教授が、中世日本人のアナーキーすぎるエピソードをまとめた『 室町は今日もハードボイルド 』(新潮社)より、抜粋して紹介する。(全2回の1回目/ 後編に続く )

◆ ◆ ◆

「みなさんは“うわなり打ち”って聞いたことありますか?」

 この問いかけで始まる授業を、私はもう何年繰り返しただろう。大学の教壇に立ってかれこれ10年以上になるが、毎年、大教室の講義で話題にすると妙に盛り上がるのが、このネタである。漢字で「後妻打ち」と書いて、「うわなりうち」と読む。その内容を簡単に説明すれば、こういうことになる。

 妻のある男性が別の女性に浮気をする。というのは、好ましいことではないにせよ、現代でも時おり耳にする話である。しかし、これが「浮気」ではなく「本気」になってしまったとき、悲劇は起こる。夫が現在の妻を捨てて、べつの新しい女性のもとに走る。そんな信じがたい事実に直面したとき、現代の女性たちならどうするだろうか? ただ悲嘆に暮れて泣き明かす? 証拠を揃えて裁判の準備? 週刊誌に告発? あまい、あまい。そんなとき、過去の日本女性たちは、女友達を大勢呼び集めて、夫を奪った憎い女の家を襲撃して徹底的に破壊、ときには相手の女の命を奪うことすら辞さなかったのである。

 これが平安中期から江戸前期にかけてわが国に実在した、うわなり打ちという恐るべき慣習である。夫に捨てられた前妻(古語で「こなみ」という)が仲間を募って後妻(古語で「うわなり」という)を襲撃するから、その名のとおり、うわなり打ち。今日は、そんなうわなり打ちの習俗を題材にして、日本史上の女性の地位と婚姻制度の関係について考えてみたい。

■ハレンチ代官の罪状

 その凄惨な事件は、室町時代の中頃の備中(びっちゅう)国上原郷(かんばらごう)(現在の岡山県総社市)という荘園で起こった。上原郷は京都の東福寺が支配する所領で、京都から代々東福寺の僧が代官として派遣されて、荘園の管理業務が執り行われてきた。ところが文安元年(1444)12月、その代官の不正に耐えかねた百姓たちが、荘園領主である東福寺に対して告発状を送りつけ、その非法の数々を暴露したのである(『九条家文書』)。

 代官の名前は、光心(こうしん)。室町期の荘園史上、最もハレンチな代官として、その悪名を知られた人物である。彼に対する百姓たちの告発状は、17ヶ条にも及ぶ。その一部を紹介すれば、以下のとおりである。自分の田地の耕作のために、郷内の男女を食事もやらずに日の出前から日没後まで強制的にこき使う。困窮して年貢を支払えなくなった百姓たちの年貢滞納額を、そのまま借金として貸し付けたことにして、そのうえどんどん利子を加えていく。本来、上原郷は東福寺領荘園として、備中国守護であろうとも手出しできない特権が認められていたにもかかわらず、備中守護細川氏とつながり、まるで上原郷を細川氏の所領のようにしてしまう。あげくは、ことあるごとに「東福寺がオレを任期途中でクビにしたら、この荘園を守護領にしてやる」と、脅迫まがいのことを口にする、などなど。

 この手の告発状の常として、書かれていることのすべてが真実とは限らない。とくに告発状の最後で守護細川氏による荘園侵犯の危険が述べられているくだりは、光心の存在が自分たち百姓だけでなく、それを放置すれば荘園領主にとっても害悪になりうるということを匂わせていて、東福寺への巧妙な揺さぶりとなっている。むしろ、ここからは光心の横暴さよりも、当時の百姓たちの交渉能力の高さを読み取るべきかも知れない。しかし、この前後に東福寺も光心の周辺の独自調査に乗り出しており、そこで得られた情報も、おおよそ同じようなものだった。光心が東福寺の眼が届かないのを良いことに、公私混同を極めて私腹を肥やしていた事実は、揺るがないようだ。

■嫉妬に狂う未亡人

 さて、この告発状のなかでも、とくに目を引くのが、禅僧にあるまじき光心の醜聞(スキャンダル)の数々である。光心は、とんでもない女好き坊主だったのだ。なかでも彼がご執心だったのが、上原郷の西、山田という土地に住む長脇殿の未亡人だった。この直前、上原郷では「山田入道」とよばれる人物が没落して、その所領が光心の黙認のもと細川氏の支配下に入っている。あるいは夫であった長脇殿も、そうした郷内の権力抗争で敗れた人物で、彼はこれ幸いと、その未亡人に手を出したのかも知れない。もちろん彼は僧侶なので彼女と正式に再婚することはできないが、いつしか2人の関係は郷内の誰もが知る、公然の内縁関係になっていった。

 しかも、彼は長脇殿の未亡人のもとにお忍びで通う、その往復の道筋で、カワウソを見つけては斬り殺し、代官所でその肉を食べるのが日課だった。現在、ニホンカワウソは絶滅したとされているが、当時は岡山県あたりにも普通に生息していたのである。彼はよほどのカワウソ好きだったらしく、食べきれない分の肉は塩辛にして保存し、残った獣皮はなめして毛皮として愛用していたという。もちろん当時は、僧侶どころか一般人にも獣肉を食べるなどという文化はない。あるいはカワウソは、淫事のまえの精力剤のつもりなのだろうか。「私たちがいうことでもないですが、東福寺の荘園になって、こんなお代官様は見たことがありません」と、告発状で百姓たちも呆れた様子である。

 そのうえ彼は、この長脇殿の未亡人を籠絡しただけでは飽き足らず、同時進行で郷内の百姓の女たちにも次々と手を出していく。百姓の娘で気に入った子がいると、自分のものにしようと代官所に呼び寄せて、それを拒めば、その親を無実の罪に陥れて処罰する。人妻でも好みのタイプだったら、夫がいようが子供がいようが、家来たちを差し向けて自分のものにしようとする。それに従わない場合は、やはり言いがかりをつけてその一家を捕縛しようとするので、耐えかねた者たちはみな土地を捨てて逃げてしまったという。まったく“女性の敵”としかいいようのない人物である。そのうち彼の好色は見境が無くなってゆき、やがては百姓の下女(げじょ)(身分の低い召使い)にまで手を出すようになる。

 しかし、悪事も長くは続かない。このことが、たまたま内縁の妻である長脇殿の未亡人の耳にも届いてしまったのである。百姓の女性に浮気をするというだけでも許しがたいのに、自分よりも遥かに身分の低い下女と通じているということに、彼女のプライドはズタズタに傷ついた。嫉妬の念に駆られた彼女は、ついに長脇家の家人(けにん)たちを大挙動員して、その百姓の下女の家にうわなり打ちを仕掛けることになる。そして、未亡人の命令をうけた者たちは、その下女を召し取ると、冷酷にもそのまま彼女を殺害してしまう。なんたる非道……。百姓たちも告発状のなかで「言語道断の事に候」と、その悲劇を嘆き悲しんでいる。

 常軌を逸したセクハラ代官の淫欲と、嫉妬に狂う未亡人、そして、その犠牲となって可憐な命を散らす1人の下女。2時間サスペンス・ドラマにもなりそうな筋書きだが、ここで私たちの注意を引くのは、やはり、うわなり打ちという謎の習俗である。このあと、長脇殿の未亡人が殺人の罪に問われた形跡はない。また、百姓たちは告発状で、この修羅場に憤ってはいるものの、それは未亡人の行為に対してではなく、すべての原因を作った光心に対してのものである。この時代、男を奪われた女が新たな女に復讐するという行為は、慣習的に許容されていたようなのである。

 ちなみに、百姓たちの告発をうけたセクハラ代官光心は、東福寺によって、この年をもって代官契約を打ち切られ、クビになっている。当然といえば当然の話で、彼の行状はその後も“最悪のケース”として東福寺内の語り草になっている。ただ、後年の史料によれば、彼はその後、禅僧の身分を捨て、神主家の婿に収まり、地元に住み着いたと伝えられている。殺人事件など素知らぬ顔で、僧侶から神主への華麗な転身! いやはや、どこまでもふてぶてしい、呆れたゲス男である。

■“女傑”北条政子

 うわなり打ちを行った人物として、おそらく史上最も有名なのは、北条政子(1157〜1225)だろう。源頼朝(1147〜99)の“糟糠の妻”として鎌倉幕府の創業を陰で支え、頼朝死後は“尼将軍”として幕府に君臨した、いわずと知れた女傑である。

 まだ頼朝が平家を滅ぼす以前の話。頼朝と政子は親の反対を押し切って駆け落ちのすえゴールインしたとされる相思相愛の夫婦だったのだが、ただひとつ、頼朝には浮気性の悪癖があった。頼朝は政子という妻がいながら、かねて亀(かめ)の前(まえ)という名の女性を愛人にして、彼女の身を密かに家来のもとに預けていたのである。不遇時代を政子に支えてもらった義理もあって、頼朝は政子には生涯、頭が上がらなかった。そこで彼の浮気は隠密裏に進められていたのであるが、ちょうど政子が出産のために別の屋敷に移ったこともあって、頼朝の動きは公然となった(このとき生まれた赤ん坊が二代将軍頼家である)。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、亀の前は「容貌が整っているだけではなく、性格がとくに柔和である」とされるから、“女傑”政子とは正反対のタイプの女性だったのかも知れない。

 ところが、この浮気の事実が出産を終えた政子の耳に入ってしまったから、大変である。怒った政子は、寿永元年(1182)11月、牧宗親(まきむねちか)という配下の者に命じて、亀の前を庇護している伏見広綱(ふしみひろつな)の屋敷を襲撃させる。驚いた伏見は亀の前を連れて、命からがら大多和義久(おおたわよしひさ)という同僚の屋敷に逃げ込むことになる。このとき、もし伏見の機転が利かなかったら、亀の前はさきの上原郷の下女のように殺されてしまったかも知れない。

 この事件を聞いて顔面蒼白となったのは、他ならぬ頼朝である。浮気がばれた……。しかも政子、すごく怒ってる……。さいわい愛人の命が無事だというのは救いだ。とはいえ、政子の手前、すぐに駆けつけるわけにもいかない……。震えて眠る夜を2晩過ごし、頼朝は翌々日を待って、亀の前が匿われている大多和の屋敷に、いそいそと駆けつける。しかし、このとき頼朝は一計を案じ、実行犯である牧宗親を騙して大多和屋敷まで同行させることを忘れなかった。そうとは知らず、頼朝にノコノコついていった牧は、大多和の屋敷で伏見と不意の対面をさせられる。唖然となって言葉を失う牧に向かって、頼朝は、烈火のごとく怒って、こう言い放つ。

「政子を大事にするのは大変けっこうなことだ。ただ、政子の命令に従うにしても、こういう場合は、どうして内々に私に教えてくれなかったんだ!」

 要するに、頼朝も政子の命令に従ったこと自体は責められないのである。いいたいことがあるなら政子に直接いえば良いものを、それがいえないから実行犯である牧に怒りをぶつけているわけである。頼朝、男として、かなりカッコ悪い。

 恐懼して地べたに頭を擦りつけて謝る牧に対して、頼朝の怒りはなおも収まらず、ついにみずからの手で牧のマゲをつかんで、切り落としてしまう。当時の人々にとってマゲを切られるのは最大級の屈辱である。気の毒にも牧は泣きながら、その場を逃げ去ったという。なんとも頼朝の器の小ささがうかがえる、みっともないエピソードである。

 ちなみに頼朝は、このあと文治2年(1186)、政子の次女出産のときにも懲りずに大進局(だいしんのつぼね)という女性と密かに関係をもち、のちにそれがバレて政子の逆鱗に触れている。“懲りない男”というべきだろう。男性の浮気が妻の妊娠中になされるという話は現代でもよく聞くが、“天下の征夷大将軍”の浮気性もそれと同種のものだったようだ。

 さて、この逸話、北条政子の“男まさり”を語るエピソードとして歴史ファンのあいだには有名なもので、過去に大河ドラマなどでも、何度か映像化されている。ただ、そこでのこの逸話の扱われ方が、私には少々不満がある。のちの“尼将軍”は、男に浮気をされても泣き寝入りすることなく、“倍返し”以上の報復をもって、これに臨む。さすがは天下の北条政子。といったふうで、ストーリー上、政子の特異な個性を際立たせるための材料として使われているのである。

 しかし、さきの室町時代の上原郷の逸話を思い出してもらえばわかるように、ここでの政子の行為は明らかにうわなり打ちである(頼朝は亀の前に乗り換えたわけではないので、その点は厳密にはやや変則例ではある)。夫を奪った女性に対して復讐を行うことは、なにも政子に限らず、中世の女性には当たり前に許されている行為だった。だから、この逸話を政子の“男まさり”を物語るための材料として使うとしたら、それは不正確で、それをいうなら、政子に限らず、中世の女性はみんな“男まさり”なのである。

( 後編に続く )

中世日本のナゾの慣習「うわなり打ち」…なぜ妻たちは“夫の不倫相手”を襲撃したのか? へ続く

(清水 克行)

関連記事(外部サイト)