《「NINTENDO64」誕生25周年》「スマブラ」「どう森」を生んだ任天堂・最後のカセット型ゲーム機の“夢と足跡”

《「NINTENDO64」誕生25周年》「スマブラ」「どう森」を生んだ任天堂・最後のカセット型ゲーム機の“夢と足跡”

「NINTENDO64」は今年で誕生から25年を迎える ©?iStock.com

 任天堂の家庭用ゲーム機「NINTENDO64」が、発売日となる6月23日を迎えます。今年で発売から25年。「スーパーファミコン」の次世代家庭用ゲーム機の覇権をめぐり、ソニーの「プレイステーション(PS)」、セガの「セガサターン」と三つどもえの戦いを展開する最中の誕生でした。

 戦いの結果はご存じの通りPSが勝利し、任天堂はゲーム業界の“王座”から転落することに。「64」は「負けたゲーム機」になってしまいました。一方で、任天堂が育ててきた「カセット型ゲーム機」の到達点でもあった「64」は、その後にも続く様々な功績を残したのも事実です。改めて、その足跡を振り返ってみましょう。

「スマブラ」「どう森」は「64」で“誕生”

「NINTENDO64」は、ゲーム業界を作り上げた「ファミリーコンピュータ」、そして「スーパーファミコン」の後継ゲーム機です。「64」の次の世代の「ゲームキューブ」がゲームソフトの形としてディスクを採用したため、現状「最後のカセット型のゲーム機」になっています。

 1996年当時のゲーム機業界では、大容量メディアのCD-ROMをソフトに採用する戦略が優勢でした。しかしCD-ROMにはロード(データの読み込み)スピードがかかってしまう問題があり、さらにコストも安価なことから海賊版がより作られやすくなる懸念もありました。実際、当時の任天堂は中国の海賊版に手を焼いており、いたちごっこの状態に弱気なコメントをする新聞記事も見られたほどです。

 こうした状況を踏まえ、任天堂はCD-ROMを選ばない決断をします。こうして生まれたのが、「64」でした。老若男女・国籍を問わず遊べるという任天堂のゲームの強みを生かし、サクサクと快適に展開し、繰り返し何度もプレイを楽しめるゲーム体験を重視したのです。

 今となっては、ソニーのゲーム機が高性能重視に対して、任天堂はアイデア勝負というイメージがあります。しかし「64」は後発で、PSやサターンを上回る64ビットのCPU(中央演算処理装置)を搭載し、高性能を売りにしていました。

 そうしたハードの高性能化戦略に加え、ソフト面でも“ソフトの数を絞る少数精鋭の方針”をとりました。その結果、「マリオパーティ」や「大乱闘スマッシュブラザーズ」「どうぶつの森」などの名作ソフトが次々と生み出されます。人気映画を基にした、いまだに評価の高い名作「ゴールデンアイ 007」も「64」で生み出されました。

■「ゲームが変わる、64が変える」

 現在ではネットが普及して情報もあり、体験版をダウンロードできますから、予想とあまりにかけ離れた「クソゲー」を買ってしまう可能性は格段に減りました。ですが当時はそういった環境ではありません。子どもが必死で貯めたお小遣いが「クソゲー」に化けてしまうというのも「あるある」な話でした。「ソフトの少数精鋭」論にも、一定の説得力があったのです。

 こうしたソフト面・ハード面の戦略のもと、「ゲームが変わる、64が変える」というキャッチフレーズにある通り、「64」はアナログスティックや振動コントローラーを駆使して、未知のゲーム体験をユーザーに提供しようとしました。そして実際、アクションゲーム「スーパーマリオ64」の出来はあまりに良すぎて、他のソフトが見劣りするようにすら見えるほどでした。

■カセットロムと時代の潮目

 しかし、時代の潮目が悪かったのでしょう。ゲームユーザーはロードスピードの速さや、繰り返し遊べるゲームの本質的な面白さよりも、映画のようなCG、斬新な面白さを手軽に求める傾向にありました。

「64」のカセットロムはCD-ROMに比べて容量不足で、そうした市場に対して開発の難しさもありました。その結果、ソフトの数がそろわず、ハード自体の売れ行きも伸び悩みます。

 特に痛かったのは、人気RPG「ファイナルファンタジー」シリーズを手掛けるスクウェア(現スクウェア・エニックス)のPS参戦でした。スクウェアは任天堂とソフトを共同開発するほどの関係でしたが、「ファイナルファンタジー7」の製作にあたり大容量メディアを望んだのです。その後「ドラゴンクエスト7」のPS発売も決定します。

 今でこそ、SwitchとPS4、さらにはPC版も……と、複数のゲーム機やハードで同時にタイトルを出すマルチ展開は普通になりましたが、当時は一つのゲーム機で出すのが常識だった頃。これらの動きに「64」は大打撃を受けることになりました。

 加えて、それらに負けじと「64」発の新しいヒット作が生まれても、売り逃してしまうこともありました。カセットロムはCD-ROMと比べて高価格で再出荷に難があったのです。今とはネット環境が違いますから、ソフトのダウンロード販売は無理な話。となると、予想以上のヒット作が出たときはすぐに「売り切れ」となり、購入希望者は再出荷をひたすら強く待つしかありません。機会損失を作りやすく、不利なビジネスになってしまったのです。

■進んでいた「64」への厳しいマーク

 さらに「64」の発売の遅れも響きました。PSとサターンは1994年の年末商戦に登場したので、1996年の発売は1年半遅れの状態。週刊東洋経済(1997年3月22日)をみると、任天堂の山内溥社長(当時)の発言として「六四ビット機(編集部注・『64』のこと)は本当は95年の末から出したかった。予定より一年遅れた」とあります。「64」の初動も悪くなかったのですが、「PS」は先行者の“利”と、ソニーブランドの強み、ソフトメーカーの支持を生かして、先にシェアを固めてしまう流れになったのです。 ?

 また、当時「64」へは厳しいマークもありました。1996年6月に発売された「64」の価格は2万5000円でしたが、同年4月にセガは「セガサターン」を2万円に、同年6月にはソニーもPSを1万9800円に値下げしています。いかに「64」が恐れられていたかが分かる値段設定です。

 先にもあげたとおり、任天堂のゲームは、老若男女・国籍を問わず遊べ、世界各国で売れるのが強みです。ところが当時、任天堂のゲーム機は「子供向け」というイメージがありました。

 対するPSはソフトメーカーの参入を促し、どんどんソフトを発売できる環境を整えました。結果、大人も楽しめるゲームや、女性層も取り込んだゲームが誕生。新機軸のゲームを次々に生み出して人気を獲得していきました。

 ソニーと任天堂は元々、一緒にゲーム機を作っていた間柄でした。しかし決裂する形で、ソニーが単独でゲームビジネスに参戦。PSへとつながっていきます。その執念が勝った形といえるでしょう。

■「次世代ゲーム機戦争」のその後

 1990年代半ばに勃発した「スーパーファミコン」の次世代をめぐる戦いにおいて、任天堂は王座から転落しました。では、「64」の挑戦は単なる失敗に終わったのでしょうか。

 ここで、「64」後の任天堂の決算を見てみましょう。ゲームのビジネスはアップダウンの激しい「水もの」ですが、2000年3月期の決算でも任天堂には約5900億円の「現金」がありました。任天堂が本当に苦戦するのは、「Wii U」の失速と、ニンテンドー3DSの値下げが響いた2012年3月期から2014年3月期までの3年間。それに比べると任天堂の経営はなお盤石だったとも言えるもので、「64」は王座こそ失ったものの、ビジネスとして一定の成果を収めた形になっています。

 長期的スパンでみると、「64」経験は「ゲームキューブ」を経て「Wii」での“復権”につながっていきます。また、少数精鋭で生み出されていった作品には名作も多く、「大ヒットゲーム機」となったSwitchで今なお、その当時に生まれた名作の最新作が生み出されています。「64」は、後世に多くの“遺産”を残しているのです。

(河村 鳴紘)

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